日本キリスト教会釧路教会


教会の標語「思い煩うのはやめなさい」


       集 会 案 内
    主日礼拝     毎週日曜日 午前10時30分
    聖書研究・祈り会 毎週水曜日 午前10時30分

信者でなくても、どなたでも参加できます、いつでもいらしてください。ご一緒に礼拝をし、また楽しく聖書を学びましょう。

                    伝道師 熱田洋子

2025年2月主日礼拝のご案内

🟠第1週主日礼拝  
 2月2日(日)午前1030分
 聖書 創世記28章21〜22節  
    マルコによる福音書7章1〜23節

 説教  「神の言葉を聞いていますか」
    伝道師  熱田洋子

  
🟠第2週主日礼拝 
 2月9日(日)午前10時30分

 聖書 創世記28章10〜19節  
    ローマの信徒への手紙8章13〜17節

 説教 「それでも神の子なのです」
   北見教会 牧師 森下一彦

 
🟠第3週主日礼拝  
 2月16日(日)午前10時30分

 聖書 サムエル記上5章1〜4節
    ヨハネによる福音書14章6節

 説教  「神々がたおれた」
    伝道師  熱田洋子


🟠第4週主日礼拝
 2月23日(日)午前10時30分
 聖書 列王記下4章30節 
    マルコによる福音書7章24〜30節

 説教  「子どもたちのパン」
    伝道師  熱田洋子



感謝を込めて祈り願いなさい

どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。
      (フィリピの信徒への手紙4章6節)
2月9日「第60回日本キリスト教会釧路教会総会」が開かれ、2025年度の伝道方針と予算が決定しました。
教会の皆、心を一つにして教会を建てあげていきます。神の導きがありますように祈っております。
この聖句を年間聖句としました。

釧路教会の伝道のあゆみ


 釧路地方のキリスト教伝道は、1900年頃からで、日本聖公会とギリシア正教会の伝道が初期の
もの。

 日本基督教会の釧路伝道は、1906年1月23日の坂本直寛による平井家での集会が最初であった。
 その集会が発展して日本基督教会釧路教会(今日の日本基督教団釧路教会[浦見])である。
 戦後、教団を離脱して再出発した日本キリスト教会は、新しく1962年10月に伝道を開始して、
今日の日本キリスト教会釧路教会[柳町]となっている。

 私たちの釧路教会は伝道開始から62年、釧路の地にキリストの福音とその光を輝かせ、希望と慰めの言葉を語り伝いたいと願い、励んでいます。

沿革
伝道開始——1962年10月29日  
伝道所開設—-1964年10月27日
伝道教会建設–1974年 5月 7日  
教会建設——1982年 5月 3日
現会堂献堂—-2001年12月23日  
1962年10月29日、稲岡義一宅にて伝道開始。以後、稲川稔宅と交替で集会が守られ、近藤治義、竹内厚、高橋恒男の諸教師が伝道に当たった。  
1963年10月、大会伝道地となり、
1964年10月27日伝道所開設。伝道責任者は久米三千雄教師に交替した。  
1967年3月31日、堀田治郎教師が主任者として赴任。
1970年11月10日、教会堂・牧師館を市内柳町12番18号に建築。12月8日献堂式を挙行した。  
1974年5月7日、伝道教会建設。
1982年5月3日、教会建設。堀田治郎が牧師に就職し、1996年3月25日辞任した。
1996年3月29日、教師試補田中忠良が伝道師として就職。  
1998年11月30日、田中忠良が牧師に就職。2001年12月23日、教会堂・牧師館を現在地に移転建築。
2012年3月、田中忠良は牧師を辞任。以後3年間無牧となる。
2015年5月6日教師千葉保が牧師に就職。
2023年3月、千葉保は牧師を辞任。
2024年5月6日、教師試補熱田洋子が伝道師として就職し現在に至る。

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2月2日の説教から
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  • 2月2日「神の言葉を聞いていますか」

    2025.2.2主日礼拝「神の言葉を聞いていますか」(抜粋)   伝道者 熱田洋子
    マルコによる福音書7章1−節23、創世記28章21—22節 
     主イエスはいやし、説教をして福音宣教を進めておられたので、ある程度評判になっていたに違いありません。ファリサイ派の人々と律法学者たちは、その事実調査をするためにエルサレムから派遣されたということでしょう。
     主イエスは、これまで(6:34)も、「大勢の群衆を見て、飼い主のいない羊のような有様を深く憐れ」んで、群衆に真の羊飼いが必要であることに気づいておられました。その務めを負うはずの者たちが、その役割を果たしていないのです。これらの指導者たちもその中の人たちと主は見ておられた。真の羊飼いの務めを放棄した羊飼いは、「人間の言い伝え」をかたく主張し、「神のおきて」を軽く見ています。つまり羊たちの必要としているものまで無視しています。
     彼らは、「イエスの弟子たちの中に汚れた手、つまり洗わない手で食事をする者がいる」のを見て「なぜ、あなたの弟子たちは昔の人の言い伝えに従って」歩まないのか、と主に尋ねます。ユダヤ人の「きよめ」に関する「言い伝え」をめぐってのやりとりが始まります。ユダヤ人は、神から直接与えられた「いましめ」や「おきて」以外に、それらから派生した人間の手による数々のいましめを「言い伝え」としてもっていました。
    「きよめ」に関するきまりごとは、「昔の人の言い伝え」に属するものでした。それによると、人は、食事をする前には手や食器を念入りに洗い、身をきよめなければなりませんでした(3−4節)。それは衛生的観点からの規定ではなくて、宗教的な要素を強くもつものでした。
    主イエスにしてみれば、「言い伝え」のとおり行ってきよめられた者にだけ神が到来するという考え方に反対しているのです。 彼らが、「昔からの言い伝え」に対して形だけは守っているけれども、神に対する忠実さや誠実さは、決して御心にかなったものではないことを主イエスはご存じでした。それで、主はイザヤ書の言葉を引用して、この人たちのことを偽善者と呼び、厳しくとがめられます。「この民は口先だけではわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている。人間の戒めを教えとしておしえ、むなしくわたしをあがめている。」(6―7節、イザヤ書29:13)。
    「心」とは、心情(心の中の思い・気持ち)、意志、理性を含み、人格というほどの意味のある言葉です。主はここで、口先だけ、うわべだけのものでなく、人格の全てをもって神への信頼と服従が重要なのだと言っておられます。それなのに、彼らは、真に聖なるお方をおろそかにしてまで、外面的には神を敬うように見せかけている、人が作り出したものに過ぎない「伝統の言い伝え」に傾いて真の「神のおきて」を放棄しているということです。そこで、主は、神のおきてを無視するのは正しいことだろうか、と問いかけていると思います。この問いかけはわたしたちにも投げかけられるものです。
     神のおきてよりも人間の言い伝えを優先した一例に「コルバン」を取り上げています。モーセの律法には「父と母を敬え」とのおきてがあります。この言葉には、親に対する尊敬はもとより、外的な形式的な服従でなく、神がイスラエルに与えてくださった約束、そこに示される神の御旨を子どもたちに伝えてくれるものとしての親を尊ぶことが含まれていると、K.バルトがいっています。わたしたちにとっても、信仰をもって応える問題です。
     この場合の「コルバン」は、親から求められた援助をしたくないと子が思う場合に、子が自分の持ち物に「コルバン」と言えば、それを親に差し出す必要がなくなるのです。主は、そんな取り消しのできない「人間の言い伝え」のような抽象的なものよりも、子どもの責任を下におくことになるのか、神への信頼と奉仕を求めておられる神の御心に沿わないことではないか、と厳しく叱責されるのです。人間の言い伝えが神の言葉を無にし、神の意志を無視していることが示されます。
     主イエスは、御父である神のご意志を求め御心にまったく従われます。そのゆえに主は人間の必要と益のためにすべてをなげうつ道を進んでいかれたのです。
     非常に重要なことが述べられます。いつものとおり群衆を呼び寄せられ、すべての人々に手をさしのべようとされます。「皆、わたしの言うことを聞いて悟りなさい」このことはとても大事な真理というだけでなく、たとえによって語られるので、熱心にそして誠実に聞くようにと求めておられます。
     主イエスが主張されることの中心は、「外から人の体に入るもので人を汚すことができるものは何もなく、人の中から出てくるものが、人を汚す」ということです。
     神が造られたものは良いものであることは確かなのです。人間が生きるのを支えるさまざまな物的賜物は良いものです、それを神が与えてくださいました。それゆえに人間がいまあることを脅かすものは外から来るのではなく、内にある心情からくるのだ、ということです。つまり、人間にとって外的なものは何であれ人を汚すことはないという主イエスの教えです。このようにして、罪深い人間が、人間的な言い伝えにある「きよめ」を厳格に守ることによって、それは心の汚れを清める力をもたないものですから、神の御前で真の聖さを達成できるのだという思い上がりを、主は攻撃されたのです。
     主イエスは、「汚れ」の源を心に求めます。「心」は、人間の性格の中心で、人間が行動するかしないかのすべてを決定します。「人間の言い伝え」に従って「きよさ」を保ったとしても、それに反して汚れに向かう衝動にかられる人間の心を変えることはできないのです。「人間の言い伝え」の細かい規定は、人間の行動を汚す源である心の汚れを取り除くことはできません。
     神の御前における「きよさ」にせよ「汚れ」にせよ「心」から生じるのです。
     ユダヤ人は伝統的に、また昔の人からの言い伝えとして、食べてよい動物と食べてはいけないものを区別する考えを持っていました。しかし、主イエスは、食べ物を食べ、消化し、排泄することはまったく生理的営みであり、人間生活の質とは無関係とはっきりと言われ、主はすべての食物規定を破棄されたことが語られます。これによって主は旧約時代の限界を乗り越え、また「人の言い伝え」がもっている制約を打ち破っておられます。
     人間の内側の汚れの方が外からくる汚れよりも深刻なのです。主イエスの宣教にみられるいつもの姿勢は、主が食物規定を守らない罪人と交わりをしていたことが記されています。このことからも、主は、律法の諸規定(人の言い伝えも含まれる。)を守ることが神の恵みを受けるために欠かせないことなのだという考え方には反対していたと言うことがわかります。
     主イエスは、「心」に重点をおきます。それは、内面の生活の中心であり、人間の行動の源であるからです。人間の真の汚れの原因は人間の「心」です。罪を犯さざるを得ない人間の悲劇は、罪を犯したいと思う人間の「心」を悪・罪へ導くのです。この根本的な悪が根付いていない心はありません(人には罪の性質があるといってよいかもしれません)。真の「汚れ」は「心」から発せられるものです。このような行為や性質こそが人を汚すものであり、その源は神に反抗する・背く心にあると主イエスは断言されます。
     主は「これらの悪はみな中から出て来て、人を汚すのである。」と言われます。人の中から出てくるものが人を清くしたり、逆に汚れた者とするといっておられるのです。「心」の重要さがここにあります。
     そして、人の中から出てくるものは、その人の「言葉」です。言葉はその人の「心」を表し、行いとなります。「心」が神の思いを正しく受け止めていなければ、神の御心にかなった行いにもならないのです。「心」から出てくる言葉と行動が人を傷つけ社会にさまざまな影響を及ぼします。「わたしたちは舌で、父である主を賛美し、また、舌で、神にかたどって造られた人間を呪います。」(ヤコブの手紙3:9-10)。ここに言葉を生み出す「心」の特質が見事に語られています。
     「きよさ」も「汚れ」も人の中から、「心」の中から出てきます。そのようなわたしたちの心を神はご覧になります。人の外面ではなく、人の内面、すなわち「心」に、神の眼差しがむけられています。「(わたしは)人間が見るようには見ない。人は目に映ることを見るが、主は心によって(その人を)見る。」(サムエル記上16:7)と言われます。
     神は憐れみふかいお方です。礼拝をとおし、日々み言葉をそなえ神の御心を示し言葉も行いも御心にかなったものとなるように招いていてくださいます。「神がわたしたちを招かれたのは、汚れた生き方ではなく、聖なる生活をさせるためです。」(テサロニケ一4:7)のみ言葉を覚えておきたいものです。信仰とは何よりも、この汚れた自分の心の中に主イエスを迎え入れること、そして、この汚れた口から主イエスに対する信仰を告白することです。そうして、わたしたちは、イエス・キリストによって新たに造りかえられ、神を賛美し、人を生かす愛のこもった言葉で語ることができるように聖霊によって導かれるのです。
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1月26日の説教から
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  • 1月26日「あなたの神はわたしの神」

    2025.1.26主日礼拝「あなたの神はわたしの神」(抜粋)  伝道者 熱田洋子
    ルツ記1章1−6節、ガラテヤの信徒への手紙3章28節
     ベツレヘムから物語は始まり、終わりのところでは男の子がやがてベツレヘムで誕生する出来事につながります。新たに生まれる一人の幼子はエッサイの父となり、そのエッサイがダビデの父となります。イエスさまがダビデの王の家系に生まれ出ることにつながります。ルツはイエスさまのひい、ひい、ひい・・・ひいおばあさんということ。
     ルツ記は、聖書中もっとも力強い女性の物語です。ナオミとルツの物語といってよいでしょう。生と死をめぐる女性の歴史が語られ、人生のさだめに向き合う者に与えられる報い、いつくしみ・まこと・救いがあります。神がここにおられ、世にある者と共にいてくださる内容になっています。
     同時に、ナオミとルツの物語は、士師記の時代の物語であっても、この上なく現在の世界に起こりえないことではない話として聞くことができます。飢饉によって逃れ、さまよい、他の地に移り住んだ者たちの運命と、出身地から出ていって、よそ者になった者たちがどのようにして戻ってきて身内に受け入れられるのかをめぐって強(したた)かに生きる女性たちが描かれます。
     物語は、ある小さな家族が飢饉に襲われたベツレヘムを離れてモアブへ移り住んだことから始まります。ベツレヘムは「パンの家」を意味するにもかかわらず、食べ物が手に入らないという、なんという皮肉でしょう。飢饉は歴史的にも数多くあり、聖書に記されたアブラハムとサラ、またヤコブの一族も飢饉にみまわれエジプトに助けを求めて行きました。今もアフリカ、紛争の地においても命に関わる厳しい現実に終わりが見えません。イエスさまの祖先となる女性の家族も追い立てられるように、神さまの約束の地からモアブの野へ、移るようにしいられたのです。
     やがて夫エリメレクは死んでしまいます。当時の男性優位の社会で、ひとりの女性が夫なしに生きることにはたくさんの危険や困難が伴っていたでしょう。息子たちはモアブ人の女性と結婚します。バビロン捕囚後、ユダヤ人には異教の人との結婚は禁じられていたのですが。ほどなく、その息子たちふたりも死んで、いったい、この先どうなるか、不安の最中、劇的な展開が起こります。
     この世界で、どれほど多くの人々が飢えと渇きに苦しんでいることでしょう。最もつらい苦しみを担うのが女性たちであることが多いのです。ルツ記は世界の縮図のようなものといえます。そこに生きる現実の痛みを、わたしたちにまざまざと思い起こさせます。
       途方に暮れていた時に、ナオミは、神が「その民を顧み」られたので、ベツレヘムの飢饉が過ぎ去ったと風の便りに聞きました。 ナオミは、強く勇気ある女性です。人生を諦めることなく、義理の娘と共に、ベツレヘムへ帰還する道を踏み出します。
     ある牧師は「主がその民を顧み」られるところで使われる言葉に注目します。この「顧みる」には「介入する」という意味合いがあります。「介入」は、わたしたちの生活のただ中で、良いときにも、困難な道のりにあっても、神がおられること、今も生きて働かれることを覚えることができますし、神との出会いがあることを示してくれています。いわば、神がわたしたちを「求め」、「生活の場にまで求める」ことをなさるということです。
       このように、すくなくともナオミは受け止めたのではないでしょうか。神がご自分の民に介入された結果、飢饉が過ぎ去ったと聞き、勇気と希望を得たのです。そこでナオミは起き上がり、嫁たちと一緒に、自分の故郷に帰るべく出立します。しかし、義理の娘オルパとルツはモアブ人、帰郷するところは男性優位の社会、そこでは、法的にも日常的にもよそ者扱いされることが目に見えています。ナオミたちのような者には保護、助けを得ることなどできない、よそ者に冷たく厳しい風潮があったでしょう。こう気づいたナオミは、言葉を尽くして二人にモアブに留まり、現実を見るように説得を試みます。
       そこでオルパは自分の家族のもとへ帰って行きました。一方のルツは、ナオミのもとに留まります。ルツはモアブ人で、帰る先は、よそ者に冷たく厳しいところであることを知らないわけではなかったでしょうが、その中でルツは心を決めました。
       ルツは、ナオミのもとで、いえ、ナオミの神のもとで、彼女の心をつかんで離さない何事かを見出したのです。ルツはナオミから離れませんでした。「わたしは、あなたの行かれる所に行き お泊まりになる所に泊まります。あなたの民はわたしの民 あなたの神はわたしの神」(1:16)と告白します。ルツは、その本心から、死だけがわたしたちを分つ、のだと言います。常識的に考える人にはなんと愚かなことを言っていると思われそうですが、このルツが、油注がれた王ダビデの祖先となり、さらには平和の君と呼ばれる「わたしたちの救い主イエスさま」の先祖である母ともなるのです。
       ルツは、ナオミとともに生きる試みの中で、ナオミのうちに神により頼む生き方、「ただ一人の神、主」をより所として生きていたことをわかったのでしょう。ナオミとルツたちは周りの冷たい目にさらされる厳しい生活に強いられてきて、信頼しあって生きて来ざるをえなかったと思われます。ルツは共に生活する中でナオミを通して神を知ることになったのです。信頼し合うことは、自分たちの愛を寄せ合うことです。ナオミの信頼する神が介入してくださったので、ルツはそこに神の愛を知り、自分も愛をもって人に仕えることのできる者になっていったのだと思います。こうしてルツはナオミの信頼する神を受け入れることができたのです。
       神の愛と人間の愛は伴いあっています。神がわたしたちを求めてくださるときに、わたしたちは、それぞれに応じることができるようになります。互いに信頼を寄せ合うとき、愛によって、互いに忠実であり、信実であることができるということではないでしょうか。この物語の只中には、勇気と信実と知恵と愛が働いているように思われます。神が表立って支配していることは見えませんが、一人ひとりのもっとも深い心のうちに、神の真理が働いているといえます。
       そのようにして、ルツはナオミの信頼する神が自分を受け入れてくださったことがわかったのです。ルツがナオミに仕えていこうと決心したことは主なる神と共に歩むことです。ここには、主なる神へのルツの深い信頼が感じ取れます。ナオミの信頼する神に従っていこう、そこに希望が生まれ、ナオミと一緒に生きていこうという熱い心をもっていたことがわかります。それゆえに、イエスさまの祖先に結ばれたのです。
       ルツの生きた当時は、男性優位の、種族や民族の狭い関係にもしばられた時代でした。それにもかかわらず、その根底をゆるがすような、一人の女性の生き方をここに見ることができるのではないでしょうか。ただ一人の神・主を信頼して、勇気を持って自ら決断して歩み出していきます。それは、パウロがガラテヤの信徒への手紙3章28節に記す言葉に通じていると思われます。
       「そこではもはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女も     ありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです。」
     この物語は、共に助け合って生き、勇気と神に信頼することを失わなかった女性たちの、前向きで大胆な、力に満ちた素晴らしい生き方をみることができます。ナオミに対する誠実さと堅実さをもってナオミの行く所にルツも従い、共に行きます。どこまでも一緒に行き、困難も連帯して乗り切っていこうとします。そうみえても、この物語においては、神・主が隠れた「与え手」であることは確かです。
     物語の先を読むと、困窮する中で二人がベツレヘムにたどりついたとき、ちょうど大麦の収穫期で、ルツは、収穫の地で落穂を拾うことができました。ルツは好意的に落穂を拾わせてくれる畑の持ち主にめぐり合い、この出会いをきっかけにして、ルツもナオミも生き続けることができるようになります。そのとき、ナオミは「どうか、生きている人にも死んだ人にも慈しみを惜しまれない主が、その人を祝福してくださるように」(2:20)と神の定めであり祝福であると喜んで受け止める様子はとても印象的です。
     ルツの決断と行いは、畑の持ち主ボアズの口をとおして「あなたが示した真心」(へセド)(3:10)という言葉にまとめられます。それゆえに、ナオミの故郷ベツレヘムの人々の中で再び生きることができるようになりました。
     神に信頼して生きること、真心から、また、信実に、愛をもって共に支え合って生きることも、遠い世界の話ではないのです。すでにわたしたちの立つこの場所で、具体的なかたちで、物語は始まっています。なぜなら、わたしたちの主がわたしたちが人として生きることをあきらめることなく、「生きている人にも 死んだ人にも慈しみを惜しまれない」方だからです。
     
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  • 1月19日「安心しなさい。わたしだ」

    2025.1.19礼拝説教「安心しなさい。わたしだ。」
    (要約)            伝道者 熱田洋子
    詩編107編3章29節
    マルコによる福音書6章46〜56節
      これはパンの奇跡に続いています。主イエスがお腹を空かせた五千人以上の人々にパンと魚を分け与えられた出来事です。それからすぐ弟子たちを強いて舟に乗り込ませ、向こう岸のベトサイダに先に行かせます。弟子たちの方は、主イエスと一緒にいて主がなさったことについて語り合いたいと思っていたかもしれません。それなのに、主の御意志で、弟子たちは自分たちだけで舟を漕いで行くことになりました。
       一方、主イエスご自身は一人で、山に行き、祈りの時をもたれました。祈ることは、主イエスには神の国の宣教の原動力になっていたのです。
     やがて弟子たちは、湖の中程で逆風に出会い、漕ぎ悩んでしまいます。 このときの弟子たちのように、わたしたちの信仰の人生において、いやいや自分たちだけで舟を漕いでいかなくてはならないことがあるものです。世にいてわたしたちの漕ぐ舟は逆風に出会い、沈みそうになります。わたしたち信仰者の漕ぐ教会という舟は、世のさまざまな荒波に巻き込まれ、逆風にさらされ沈みそうになることがあります。しかも、弟子たちのように、主イエス・キリストははるか遠くです。声を出して叫んでも、届きません。そう思いがちのわたしたちは、いまの世の荒波の中を主イエスなしで漕いで行くことができるのでしょうか。
     弟子たちには、このとき、主イエスは自分たちを忘れているのではないかと思ったでしょう。わたしたちが困窮に陥った時、神はわたしたちをその中に放っておいて、顧みてくれないように思ってしまいます。そうすると、祈ろうとしても心が定まらなくなります。まるで、外に嵐が起こるだけでなく、わたしたちの心の中にも嵐がおこって、混乱し、信仰どころではなくなってしまいかねません。
       ところが、主イエスは祈っておられるその最中に、湖に目をやると、弟子たちの乗った小舟が嵐にもまれて漕ぎ悩んでいるのが見えました。その弟子たちをみるや、主は祈りを止めて、救助に向かわれました。夜の最も暗い午前3時頃、弟子たちが外の嵐と内なる嵐に襲われて最も助けを必要としていたこの時に、まったく予期しない方法で、主イエスは弟子たちを助けに来られたのです。弟子たちの波風の真ん中に立ち、主は、憐れみをもって弟子たちを見つめておられます。
       しかし、薄暗い中で舟に近づいてくる人のような姿を見たとき、心の中に嵐が吹いている弟子たちの心には、それが幽霊に見えて大声で叫びおびえたのです。
       主イエスは、湖の上を歩いて弟子たちのところに近づき、そばを通り過ぎようとされます。なぜでしょう。主イエスは弟子たちの信仰を試しているのでしょうか。主がともにおられないときにも、自分たちを助けてくださるお方であると信頼する者たちであってほしいと望んでいたように思います。
       主は水の上を歩いて来られました。このことは神ご自身が水の上を歩まれたことを思い起こさせます。(ヨブ記9:8「神は…海の高波を踏み砕かれる。」)また、創世記(1:2)には、神の霊が水の上を動いていたのですから、ここでご自身が神であることを自ら示されます。
       しかし、弟子たちは超自然的な奇跡を目前にしながらも、恐れによって叫びます。それでも、このときは、主が即座に話し始められるだけで弟子たちには主であることがわかりましたので、それだけで十分でした。助けを求める者が信仰の乏しいものであっても、神として助けようとされるお気持ちは変らないことがわかります。あるとき。汚れた霊につかれた子どもを連れてきた父親は主に「信じます。信仰のないわたしをお助けください。」(9:24)と心から訴えてその子を助けてもらいました。
       主イエスが弟子たちのいる舟に乗りこむとようやく風は静まりました。このとき、主イエスが「わたしだ。」と言って答えられました。このように、わざわざ神の名「わたしはある」(出エジプト3:14神がモーセにわたしはある、わたしはあるという者だ、と言われた。)を用いたのも、主イエスが人となられた神あることを弟子たちにわからせようとされたのです。
       弟子たちにとって、主イエスと共にいると安全で平和なのです。舟に主イエスがいなかったので弟子たちが苦悩に遭ったのであれば、主が共にいてくださりさえすれば、わたしたちの人生においても嵐を乗り越えることができるということではないでしょうか。それでも、弟子たちが救われた時の反応は、当惑して驚いただけでなく、理解する知恵も失っています。  
       それは、「パンの出来事を理解せず、心が鈍くなっていたから」だといわれます。パンの出来事を経験して、主は困難なときこそ助けてくださるお方であることを学んでいないからです。信仰の小ささと心のかたくなさによるもので、これが弟子たちの二つの罪だとさえ言われているようです。
       心のかたくなさとはなんでしょう。神の御言葉を聞いたり読んだりしても神の御心を理解しようとしないこと。素直に御心に従おうとしないのです。それは、わたしたちもそんなところがないとは言い切れません。信仰の小ささは、これまで神がわたしたちになしてくださった恵みの数々、つまり神のみ業を忘れるのです。また、神がどのようなお方であるかわたしたちが頭でわかっても、そのことを現在かかえている問題を解決するために生かさない、主にまったくより頼むということをしないということでしょう。
       始めは、弟子たちが舟で向こう岸へ行くように主から強いられたのでした。わたしたちの信仰生活において、自分の意志よりも神のご意思によって行動しなければならないことがあるものです。その時は不承不承でも、後から振り返ってみると、神の最善がなされたと気づかされます。神がわたしたちに、強いてさせることによって信仰者と教会を御心にかなった歩みへと導いていかれるのではないでしょうか。
       ところで、主イエスが湖の上を歩いて助けにこられたこと、またひもじい思いの人々を前にパンを供えてくださることは、宣教の働きにつながっています。人々の飢えを唯一満たすことのできる主イエスの生きた御言葉を外の人々に宣べ伝えていく働きが教会に与えられています。この出来事は、教会のわたしたちに、あなたの信仰はどうなのか、主イエスが困難のときに助けに来てくださることを信じているかと問いかけられているように思います。
       教会の働きは、この世にあって、時代の流れや世情の移り変わりの中で影響を被ることは避けられません。世に受け入れられず、無視されるようになったにせよ、伝道の熱意が冷えてきても、教会の人々は、それを「自分たちだけで行う・重荷を負う」ように召し出されてはいないことも知ることができます。
       キリスト者のわたしたちは、主イエスの御言葉を宣べ伝えるのに、時に遅くなり、疲れている時にも、主が常に共にいてくださいます。「イエスは弟子たちを強いて舟に乗せ、向こう岸のベトサイダへ先に行かせ…」たのです。イエス・キリストが弟子たちを先に行かせたことには、弟子たちがそうしたかったわけではなく、主イエスの堅い御意志が働いています。「先に行かせた」というのですから、後に続いて来られるのです。つまり主イエスはこの舟の後ろから行こうとしていたのです。そのことも「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」のお言葉に含まれているように思います。主イエスは、ご自分に信頼し、従う者たちをいつも御心にかけ、目を離さず見ていてくださいます。そして、困難な様子をご覧になるや、思いがけない方法によってでも近づいてきて助けてくださることをここからも覚えておきたいものです。
     
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1月の家庭集会から
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  • 1月9日「神の愛」〜家庭集会

    2025.1.9 家庭集会「神の愛」から要約                伝道者 熱田洋子
    ゼファニヤ書3章14、17節
    ヨハネによる福音書3章16節

    ・神である主の祝福は確実で、約束は果たされる。それらを授けるのは、契約を守る神、主そのお方だから。
    ・17節は神の民に対する神の愛を最も感動的に描いているものの一つ。

    ・ゼファニヤは、悲劇の先を見通して民に喜びの声を上げるよう呼びかける。
    当時の都エルサレムに語りかけられたもの。神の意に反逆するこの国に救いようのない嘆きが予想される。しかし、ゼファニヤはこれらの悲劇の先を見通す。彼は喜びの声を自由にあげよと呼びかける。未来の栄光に対する確信から、この祝祭の歌を歌うように命じる。単に復興によって祝福された民が喜ぶ日を期待しているわけではない。心から、将来の失望の可能性に対する警戒心を捨て去り、大声で叫び、歌うように。

     ・御子イエス・キリストの誕生をはるかに見ている。17節「お前の主なる神はお前のただ中におられ…」とある。含まれていることの全てを理解するには、処女から生まれたダビデの子の到来を待たねばならなかった。「この方は、肉によればダビデの子孫として生まれ、聖霊により、死者の中から復活することによって、神の子であることが力強く宣言された方、わたしたちの主イエス・キリスト」(ローマ1:4)

     ・イスラエルの王を主そのお方と同一の方とみている。「シオンの娘よ、恐れるな」(ヨハネ12:15)に引用されている。   ゼファニヤ3:14,15に二度登場する。「恐れるな」は類似した箇所のゼカリヤ9章にはみられない。ゼファニヤの言葉が主イエスのエルサレム入場に含まれていることは注目に値する。イスラエルの王を主そのお方にとてもよく同一視しているから。

     ・ゼファニヤは、神の民に対する神の愛を熱狂的に描く。この節は旧約聖書のヨハネ3:16といえる。神の民に対する神の愛は、感傷的な感情ではない。神は救う偉大な英雄。神々の神、主の主、偉大な神、英雄として、孤児や未亡人、寄留者を守る(申命記10:17)。この偉大な英雄は、救いの力を持って自らの民の真ん中にいる。主に対する人々の罪のために、イスラエルには多くの災難がふりかかるかもしれないが、最終的には、あらゆる敵から救う力を示される。

     ・神の愛は、自らの民を救うために具体的に行動する。  「個人的な愛の詩」と呼べるものがある。神ご自身が自らの民を愛することにおける、最も深い内面の喜びと満足を表す。

    ・全能の神がご自身の被造物から喜びを得ることそれ自体が重要神が歌い出す!神が喜びにあふれる!すべてはあなたのおかげです贖い主と贖われた者たちの愛に満ちた応答を相互に行う。14節と17節

    ・神の本質は愛である(ヨハネ一4:8)。全能の神は、その愛に満ちた静けさの中で、力強い救い主である神として、静かに考えをめぐらせ、あなたへの愛に満ちた満足感に浸っている。

    ・神に選ばれた者たち以外に、このようなすべてを包み込む愛の対象となるものはない。エルサレム、シオン、イスラエルとよばれるのは「あなた」。神は彼らを愛しているからこそ。申命記7:6-8 の神ご自身の性格の中に見出すことができる。

     ・この愛は、開かれた招きをもたらす。クシュの川の向こうから 広がるこの神の理解を超えた愛は、「主の名を唱える」ものすべてに届く(9節、10節)。

     神の愛が世界中に広がっている。すべての国々から、清い唇を与える 皆、主の名を唱える この謙虚な呼びかけを口にする一人ひとりが、この「知識を絶するキリストの愛」を自ら知っている(エフェソ3:19)。

      ・人間の想像をはるかに超える神の愛が語られる。
    C.H.スポルジョンによると「イエスの沈黙を思い出し、このテキストを解釈しなさい」。主イエスが裁判と十字架上で沈黙したことは、罪びとに対する神の愛の深みに根差したもの。「彼は、毛を刈る者の前に物を言わない羊のように口を開かなかった」(イザヤ53:7)

     主イエスの沈黙は、犠牲的な愛の対象を熟考する機会を与えた。彼は、犠牲となるために「整えられた」自分の「からだ」を差し出すことで、神の御心を行うことを「喜んだ」(詩編40:7,9、ヘブライ10:5,7)・罪人に対する彼の愛は、父の愛に勝るとも劣らないもの。

    この愛の深さを理解しようとするなら、旧約のヨハネ3:16を、海辺にいる子どもに例えることができよう。子どもは、どこまでも広がる大海原に向かって、砂で掘った溝を限界まで掘り下げ、その腕を伸ばして、大海の深みを浅いプールに集めようとしている。

     ある詩人の歌
      神の愛は 言葉や筆では決して言い尽くせないほど大きく、
      それは最も高い星よりも高く、最も低い地獄にまで届く。 

    この愛の静寂は、神の民に対する神の愛の特徴でもある。歌うことによる喜びによって補完されている。神は歌うことによってあなたを喜ぶでしょう。  
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1月5日(新年礼拝)の説教から
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  • 1月5日「聖なる者となりなさい」

    2025.1.5主日礼拝「聖なる者となりなさい」       伝道者 熱田洋子
    詩編147編12—15節、エフェソの信徒への手紙1章3―7節

    詩編147編は主への感謝の歌です。ここには教会にも呼びかけられていると受け止めてよいのです。教会とわたしたち神に造られた者たちに示された神の慈愛が述べられています。
     そして、エフェソの信徒への手紙1章3節からも、神はほめたたえられますように、神は祝福で満たしてくださいましたと賛美の言葉からはじまります。
    新しい年は神さまをほめたたえることから始めていきましょう。
    神の賜物は豊かです。わたしたちは、そのことを神に感謝し礼拝へと導かれています。教会が神をほめたたえるその祝福は、神が教会に与えてくださった同じ祝福からきています。わたしたちが神を「ほめたたえる」とき、わたしたちは感謝しつつ神の恵みと賜物を宣べ伝えます。
     一方、神がわたしたちを「祝福する」とき、何をそのいつくしみとして与え、どのような賜物を贈り、準備しておられるか、神はその内容を言い表されます。
    このような神の祝福の中に、一つは生み出す力がうちに含まれています。単なる願望や約束だけではなく、神がわたしたちに約束されるそのこと自体を、わたしたちにもたらす・与えてくださるのです。
     神がわたしたちを祝福されるというとき、神はご自身の愛と交わりの中に引き入れ、そしてわたしたちに賜物を与えられます(ガラテヤ3:8-10)。
     そのことがわかって、わたしたちが神をほめたたえて讃美します、祝福のはじめは神からで、それは神がわたしたちを祝福してくださったことから生まれてくるのです。
     わたしたちに与えられた祝福はどのようなものでしょう。わたしたちは神の御霊がわたしたちに満たされるあらゆる祝福を受けています。それは神の祝福がわたしたちに授けられる価値ある賜物にほかなりません。それを神がわたしたちにくださることはたぐいまれな恵みの御業だからです。
    御霊によってわたしたちが祝福を受けているからといっても、わたしたちの内にも外にも神の賜物の豊かさが現れるというわけでは、まだありません。依然として、罪をおかしやすいわたしたちですから、わたしたちを悲惨と死に至らせる悪の誘いがさまざまな形で目の前にあらわれてきます。
    けれども、神がわたしたちの内に授けてくださったもの、御霊によってわたしたちの霊の中に置かれるものに目を向けるならば、わたしたちは全く祝福のみを目の前にみつめ、また完全に感謝することのできるよりどころをもっているといえるのです。
     なぜなら、神がなさるのは、天にあるものをわたしたちに与えられるのです。神の祝福は霊的なものです。神をもつということは、むしろ天にあるものを受け取ることです。ここで教会に約束されているのは、すべて地上の助けではなく、それ以上のものです。神がわたしたちにご自身の愛によって現してくださっているものです。それは隠されてはいます(はっきりと目に見えるものではありません)が、御霊の力があって、天を満たしているものをわたしたちの中に置かれます、この祝福は、キリストにおいてわたしたちに与えられています。それゆえにこそ、教会が神からのあらゆる祝福と、天上のものを手に入れるようにと、キリストのもとへ招いてくださるのです。
     (3節)感謝の言葉をいいあらわすもの、そこには、神がキリストを通して、わたしたちに示してくださった恵みの御業が記されています。
     第一に、神はキリストにおいてわたしたちを、神の子とすると決定して、選ばれたのです。
     ついで、神は、キリストにおいてわたしたちの罪をゆるし、わたしたちが罪によって結びつけられていた苦悩から、わたしたちを解放されたことです。

    その際、神はいっさいの賜物を与えるために、唯一の神のみが、しかもご自身の神の栄光において働いておられます。そして、いっさいの賜物の根拠は、神の自由な恵みの中にあり、その目的は神の栄光をたたえることにあるのです。
     わたしたちの感謝を具体的にいうと、わたしたちは、神の救いにあずかったのですから、そこにおいて神が与えてくださるすべてのものを受け取りました。御子イエス・キリストの十字架の死によって贖なわれ、復活の主によって永遠の命の保証が与えられ、救いの完成の時へとつながっています。それは神を信頼するわたしたちに神が与えてくださるもので、神の祝福から生まれる祝福でもあります。ここに、わたしたちは神をほめたたえ、神はわたしたちを祝福し、わたしたちは神から祝福を受けました。パウロは何にも変えられない感謝の気持ちをここに次々と言い表しています。わたしたちも神がわたしになしてくださったことを心の最も深いところで受け止めたとき、心が動かされ、物の見方や行動にそれが現されるのではないでしょうか。
     祝福のはじまりは、過ぎ去った永遠の昔、キリストにおいてわたしたちが聖なる者、責められるところのない者となるようにと選ばれたときに始まりました。父なる神は、世の初めからご自分のものとなる人々を選ばれました。それは、神の御心に根差したもので、隠されていたのですが、キリストにおいて明らかにされたのです。また御霊もそこに働かれました。ここには神がイスラエルを選ばれたことの響きが(申命記7:6-8)聞こえています。イスラエルが神に選ばれるために何かをしたということはなかったです、(「主が心引かれてあなたたちを選ばれた…ただ、あなたに対する主の愛のゆえに…」)。同じように、わたしたちも恵みをいただくには何の権利もありません。恵みは無条件に与えられる贈り物。
     神がわたしたちを選ばれたと同時に、わたしたちを祝福されました。神がご自身のために誰かを選ばれるのですが、そのとき選ばれたわたしたちは、神に服従するだけでなく正しい関係をつくることができます。この選びは、救いのすべての仲介をされるキリスト(とりなしてくださる)において行われました。ですから、そのとき、キリストがおられたことがわかります。
    「キリストにおいて」3・4節、「イエス・キリストによって」5節。とあることは、キリスト・イエスが神と密接な関係にあることがわかります。主イエスは、すべての霊的な祝福の‘とりなし手’になっておられます。
     キリストの御業につながっているので、教会が特別に召された人々の集まりである理由になります。教会の民は「キリストにある」人々、つまりわたしたちも含まれているのです。キリストのうちにあるということが、わたしたち教会の民を聖なる者、汚れのない者とします。なぜなら、キリストの御業が、わたしたちにそのための道を開かれたからです。そして、わたしたちのために、主イエスが働きを成し遂げてくださった、そのことにより神の御前にわたしたちは神のものとして立つことができるのです。
     また、「父なる神に選ばれ、イエス・キリストに従うために聖霊によって聖別された」人々(ペトロ一1:2)であるわたしたちにとってもこれ以外の生き方、すなわち、聖なる、汚れのない者から外れた生き方はないともいえるでしょう。
     神がわたしたちを選び、キリストにあってわたしたちを聖なる者、汚れのない者とする祝福へと導いてくださったのは、愛からでした。神の選びの中から愛が生まれ、それとともに、他者の最善を思いやる気持ちからも愛が生まれます。
     また、5節の神の子であるということの要点は、神が与えてくださる御霊によって、神がどういうお方でどんなことをなさるお方であるかを知り、導かれて神に倣う者となることです。それは、神の愛と御霊による力によっておこなっているのだと証しすることになり、周りの人々にもわかってもらえることになるでしょう。愛の働きは、聖書のみ言葉でみると、神の赦しと慈悲と同じように働きかけていきます。(ルカ6:36)「神が憐れむように、あなたがたも憐れみなさい」ローマ5:8,エフェソ3:17「愛に根差し、愛にしっかりと立つ」ものです。また、わたしたちの話すこと行うことにあらわれてくるもので、わたしたちがどのように応えるかも、わたしたちの愛に根ざしていると言えます。(わたしの思いも口の言葉も行いもイエスさまに似たものになれるように、とわたしたちは祈るのではないでしょうか)ヨハネ一4:19「私たちが愛するのは、神がまずわたしたちを愛してくださったからです」とあるように。
     わたしたちは神に昔から選ばれた者として、最初から最後まで、ずっと神の愛の働きの中に取り扱われて、聖なる者・汚れのない者とされていくことがわかります。そうすると神の愛を受け取ったことは感謝と愛をいただけるのです。
     (5節)神の選びによって、わたしたちがイエスを通して神の子とされました。それとともに、教会、つまり、その一人ひとりが神に結ばれ、また互いに結び合わされてキリストのからだである教会も、また(神の選びによって)創造されたのです。わたしたち一人ひとりが聖なる者・汚れのない者にされたのは愛によるのですから、その愛によって、わたしたちを神と兄弟たちとに結びつけられることにほかならないのです。
    このように、神はわたしたちを神なしにはあり得ない存在にしてくださったということでしょう。それが神をほめたたえる・祝福する確かな理由です。
     これらはすべてイエス・キリストを通して行われます。キリストの御業、ローマ3:19-26(イエス・キリストを信じる者をキリストの贖いの業をとおして罪を赦し、神の御前に正しい者とされる)すなわち、その救いの働きによって、わたしたちは父なる神の家族の一員として受け入れられました。そのように、神は主イエスを通してわたしたちをご自分のもとに導かれます。これは、わたしたちがキリストを通して神がなされたことによる恩恵のただの受け手であるということです。神の恵みのさらなる証しになりますが、すべて神の御心のままに起こったことなのです。それゆえに、このことを賛美するのです。
    (6節)ここに記された讃美の言葉は、神の栄光と、驚くべき讃美に値する恵みがどのようなものであるかを指し示しています。神の御業について語られたことばを聞いてきて、わたしたちは神の御業をたたえ、神に栄光を帰するのです。神がなさることは威厳があり(フィリピ1:11、ペトロ一1:7)ます。神のこれら恵みの御業はほめたたえられるべきものです。ここには主イエスと聖霊のはたらきもあって、三位一体の神が働いておられます。わたしたちが神に受け入れられるため、そして神のもとに導くため、それによって神の恵みの栄光をたたえるようになるためです。
     神の御前にあってわたしたちは暗い知性しか持ち合わせていません。わたしたちは神がわたしにどのようなお方であるかを証しすることにとどまらざるをえません。そうはいっても、世にあって、福音は聞く者すべてに開かれているものです。それは、神が善いことをなさろうという御業と恵みへと人々を招き入れます。人が神の家族の一員となることは、偶然ではないのです。それは神の御業であり、神の善意と、救いと贖いのための福音が伝えられることに根ざしています。すると、そこにも神の恵みが働いてイエス・キリストを信じる民がおこされ神の栄光を讃えることになっていくのです。
     新しい年も、神の祝福をいただきながら、教会の民として聖なる者とされるわたしたちが、御言葉を語り伝え、それぞれ遣わされたところで主を証ししていく一人ひとりでありたいものです。
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昨年の説教から
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  • 12月29日 キリストの平和

    2024.12.29主日礼拝「キリストの平和」         伝道者 熱田洋子
    サムエル記上2章18、19、26節、コロサイの信徒への手紙3章12―17節  
     パウロがローマの獄に捕らわれている間に、コロサイの会衆の中に偽りの異端が
    入り込んできたと知らされました。それに返答して、キリストは神の満ちみちる方であり、救いに必要なすべてのことをされたのだと述べます。そしてキリスト者の生活は、神から与えられた賜物を軽んじないで、良い業において成長し、わたしたちを闇の支配から救い出し、愛する御子の国へと入れてくださった方を信じるにふさわしい生活をするように述べるのです。
       この手紙の1、2章では次のようなことが言われています。 キリストは、見えない神のかたちである。キリストは創造の前から存在していた。創造はキリストを通してなされた。そのうえ、キリストは、死の最初の征服者として教会のかしらであり、教会はキリストのからだである。神は、キリストのうちに住むことを選び、十字架によって、敵対する霊力を和解させた。以前、神から離れていたあなたがたが、教えられた信仰と希望に堅く立つならば、その和解にあずかることができるだろう。神は、「あなたがたのうちにいますキリストであり、来るべき栄光の望み」を現してくださった。
     キリストには、あなたがたの救いのために必要なすべてのものがある。洗礼においてキリストと共に死んで復活した時、あなたがたは、古い肉の生活から離れた。あなたがたが罪に死んだ時、神はキリストと共にあなたがたを生かし、罪をゆるし、あなたがたを律法の要求から自由にした。キリストは十字架においてその律法の要求を終わらせた。キリストは、十字架において、敵対するあらゆる力を破ってくださった。このように述べています。
     そして、今日の箇所で、キリスト者に向けて、キリストと共に復活したのだから、キリストが今、君臨しておられる上なる御国を求めなさい、そして、地上の情欲と縁を切り、古い悪い習慣を脱ぎ捨てるように勧められます。
      まず、あなたがたキリスト者は、「神に選ばれ」、「聖なる者」とされ、「愛されている」者なのだと、神とのつながりを思い起こさせます。
    「神に選ばれた」者は、人間的に見て、また世にあって、無に等しい者が選ばれています(コリント一1:26―28)。ということは、自分を捨てて、この世の人々と神に奉仕する者として選ばれたのです。キリスト者は、この世の少数者かもしれませんが、この世に塩で味付けするために、つまり、この世の人々に奉仕するためにあるということです。
    「聖なる者」とされているとは、キリスト者は神に属する者で、自分の側に存在の根拠があるのでなく、神が主になっていて、自己中心ではなくなっている者です。聖化されるのは、当然に「生きているのはもはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。…」(ガラテヤ2:20)のとおり、もはや、この世の人のような生き方ではないのです。ですから、真の世の光を指し示すことができるということでもあります。
    「愛されている」と言われて、わたしたちは神から愛され続けている、現に神の愛を受けつつあることが明らかにされます。このように言われるのですから、神がすべての主導権をもっていて、わたしたちはすべて受け身です。というのは、一人ひとりのもつ資質とか業績がキリスト者を作り上げるのではないのです。わたしたちは神の恩恵によって導かれています。わたしたちがすることは、素直に聞き従うことです。ですから、このような神に主導権をにぎられていると自覚する者は、当然に神への感謝がわきおこってきます。つまり神がわたしたちを愛していてくださる、そのことを知ったら、それに応えようという姿勢をとらざるをえなくなります。神とわたしたちとのこのような関係をしっかり身につけた一人ひとりこそが、ここに記された道徳のすすめを正しくに聴くことができるというものです。
      わたしたちは神との関係は上から下への垂直の関係です。一方ここでは横の関係、人と人との関係でもっているようにと道徳の項目が上げられます。まず、親切な行動や態度で示される親切心です。親切な行動を通して他者の必要に応えようとする、友好的で助けになる精神です。
     つづいて、自分自身の見方はどうあったらよいかです。謙虚な考え方、謙遜。それは自分の弱さを認識することであり、また神の力を認識することでもあります。そして謙遜の心は、他者とのやり取りで柔和と寛容となって現れてきます。柔和、この言葉は、神と神の御心に従順に従うことです。揺るぎない信仰と忍耐があれば、他者に対して穏やかな態度と親切な行いとして現れます。それは、聖霊によって神の御心に従うようになって、自分を押さえた従順な人のもつ力です。寛容は、他者の愚かさや、無知にも、決して節度のない批判や愚痴を持って反発しないこと、他者の嘲笑や軽蔑、悪意ある態度にも、決して恨みや怒りを駆り立てない生き方のことです。これらをみると、個人の能力に関することに触れられてはいないことに気づきます。たとえば、賢明でありなさいなどとは言われていません。特殊な能力だと、それは誰にも与えられているとは言い難いです。幸いなことに、ここに上げられているのは、その気になればだれもが身につけることのできるものばかりではないでしょうか。わたしたちに、ないものねだりしているのではありません。ここでわたしたちはほっとします。そして、積極的に人々と交わってみようという勇気がわいてきます。
       これらの道徳の項目に続いて、人間のお互いの関係において具体的に次のように行うように勧められます。「互いに忍び合い、責めるべきことがあっても、赦し合いなさい」と、この言葉遣いは、一度や二度くらい耐え忍んだり、赦したというのでは事柄は決して好転しないことを告げています。主は、「七回どころか七の七十倍までも」兄弟を赦しなさいと教えられました(マタイ18:22)。それどころか、あなたがたが兄弟たちを赦すよりはるかに多く、「主があなたがたを赦してくださった…」と深く心に刻みつけて忘れないようにしなければならないのです。ここに、主の赦しとわたしたちの赦し合いとが関連して述べられているところから、「主の祈り」へと思いを向けさせられます。「わたしたちの負い目を赦してください、わたしたちも自分に負い目のある人を赦しましたように。」(マタイ6:12)です。
       それらのものすべてをまとめるものとして愛が考えられてしかるべきです。愛がなくてはすべての項目が意味はなくなります。したがって、これら一切のものを支配するものとして愛があると読むのが良いでしょう。愛はイエス・キリストの十字架の道で教えてくださった愛、神がわたしたちを愛してくださる愛です。すべてを完全に結ぶ帯「愛は完全という帯である」とみています。完全というのは、個人の資質に言及しているものではありません。愛によって神に喜ばれる完全なものに高められるのです。つまり、愛がなければ、すべての道徳の項目は義務かと思われてしまいますが、愛によって麗しい調和が与えられるものなのです。
       さて、わたしたちは教会の民、皆で教会を建てあげています。このように新しい生き方に導かれたわたしたちは教会においても愛を働かせることです。
     コロサイの教会にも種々の問題があって、教会を分裂させ、その信徒間に対立を生じさせていたのかもしれませんが、それを一致させるものとして、愛がすべてのキリスト者たちを結び合わせるときに、キリスト者の完全という理想が達成される、そのことを思っているのです。
      「キリストの平和があなたがたの心を支配するようにしなさい」というのは、願望です。たしかに、平和は命令によって推進されるものではありませんね。「平和」という言葉はユダヤ的シャロームが背景にあります。それは紛争の単なる停止状態ではなくて、慈しみやまこと、正義の意味ももち、さらには繁栄を象徴する言葉です。しかも「キリストの」がつきます。キリストが生み出す平和、キリストの香りがただようものでなければなりません。イエス・キリストの和解の業、キリストの愛が前提とされている平和です。キリストの和解は、十字架を通して与えられました。そこに血と汗が流されたことは忘れることのできない事実です。つまり、「キリストの平和」はキリストによって教会の信徒たちの間に与えられる平和に違いないですが、安易に生じるものではないことも覚えておきたいと思います。「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな。」(ヨハネ14:27)主ご自身、別れて行かれるときに、平和を遺産として言い残されました。
       この「キリストの平和」は、厳として犯すことのできないものとしてわたしたちの「心を支配する」べきものです。「支配する」という言葉は古典的には審判員の意味で使われていました。皆さんは思い浮かべると思います。「日本キリスト教会信仰の告白」において、聖書の御言葉の中で語られる聖霊が、主イエス・キリストを証しし、信仰と生活との誤りのない審判者であることを。教会とわたしたちのうちに聖霊が働いていますから、教会内で起こる様々な出来事を判定する基準として「キリストの平和」、つまりそこに示される聖霊の働きを祈り求めてことにあたるようにということでしょう。たとえば、愛と憎しみを持って互いに相争うような場合、わたしたちのうちに混乱や矛盾、争いを引き起こしたときでも、もし「キリストの平和」が審判員となってその事態を治めるなら、神の教会は一致を保ち、その働き・福音宣教をまちがいなく進めていくことができるということです。
     ここには、平和が前面にでることこそが、キリスト者が神に召されて教会に招き集められた目的であることが明らかにされます。キリスト者たちが一体とされるのは、キリストの平和が有効に働いた結果です。なぜかというと、教会は神の国の地上におけるひな形といえるものだからです。そのために、神の国を願い、そこに期待される役割を果たさなくてはならないのです。
     その特徴は、そこにキリストの愛が原理として働いていることを見出すことができるということでしょう。逆に分裂があるということは平和のないことの現れです。キリストの体としての教会が十分に活動できるのは、その条件が備えられていること、つまり愛を基にした一致へのすすめがなされているとみることができます。
       このようなわたしたちに、今や、キリストの言葉をあなたがたのうちに豊かに宿らせなさい、との言葉が聞かれます。自分の身体を神の宮と心得て、キリストご自身をそのうちに住まわせることによって、キリストを原動力としてわたしの心も身体も主のために働かせてもらうことが肝要です。キリストがここにおられる教会であることこそが、「平和」を増進させ、キリスト者を一致へともたらす鍵なのです。
       わたしたちの教会もキリストの言葉を分かち合う教会であるとともに、さらに、詩と賛美と霊の歌とにより、感謝にあふれ心から神に向かって讃美する教会でもあるようにと加えられます。
       まとめとして、わたしたちの生活の全領域の中に主イエス・キリストの支配を認めながら生きること、すなわち「すべてのことを、主イエスの名によってしなさい。」と勧められているのです。

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