日本キリスト教会釧路教会


教会の標語「思い煩うのはやめなさい」


       集 会 案 内
    主日礼拝     毎週日曜日 午前10時30分
    聖書研究・祈り会 毎週水曜日 午前10時30分

信者でなくても、どなたでも参加できます、いつでもいらしてください。ご一緒に礼拝をし、また楽しく聖書を学びましょう。

                    伝道師 熱田洋子

2025年9月主日礼拝のご案内

🟠第1週 主日礼拝  
 9月7日(日)午前10時30分
 聖書 ホセア書6章2節  
    マルコによる福音書9章30〜37節

 説教  「すべての人に仕える者になる」
    伝道師 熱田洋子

  
🟠第2週 主日礼拝 聖餐式があります 
 9月14日(日)午前10時30分

 聖書 マラキ書3章2節  
    マルコによる福音書9章38節〜50節

 説教 「わたしたちの味方」
    伝道師 熱田洋子
 
🟠第3週 主日礼拝  
 9月21日(日)午前10時30分

 聖書 ヨブ記9章1〜4節
           ローマの信徒への手紙5章15〜17節
 
説教 「神の正しさ人の正しさ」
    伝道師 熱田洋子


🟠第4週  主日礼拝
 9月28日(日)午前10時30分
 聖書 創世記1章27節、2章18節 
    マルコによる福音書10章1〜12節

 説教 「神が合わせられた者」
    伝道師 熱田洋子













感謝を込めて祈り願いなさい

どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。
      (フィリピの信徒への手紙4章6節)
2月9日「第60回日本キリスト教会釧路教会総会」が開かれ、2025年度の伝道方針と予算が決定しました。
教会の皆、心を一つにして教会を建てあげていきます。神の導きがありますように祈っております。
この聖句を年間聖句としました。

ペンテコステの日の出来事



     聖霊の降臨について

・聖霊とは何でしょうか。
   父なる神さまと、子なる神さまから出る霊で、
  神さまと本質を同じくされるものです。
  それゆえ、それは、聖霊なる神さまと呼ばれ
  ます。

・聖霊はいつくだされたのでしょうか。
   聖霊は旧約聖書の時代にも働いていましたが、
  キリストが昇天されてから十日の後、ペンテコス
  テの日に、キリストの弟子たちの群れにくだりま
  した。

・ペンテコステの日の出来事は何を意味するのでしょうか。
   それは、キリストの十字架と復活を基にして、
  神さまの新しい働きが始まったということ、新し
  い救いの時の突入を意味します。

・その新しい時とは何でしょうか。
   そのキリストにわたしたちを結びつけ、神の国
  の子らとし、キリストのすべてのよい賜物にあず
  からせ、神の子にふさわしい実質をつけてくださ
  る働きの時です。

 イエスさまは復活されてから四十日間、弟子たちの前にたびたび現れてくださって、復活が事実であることを弟子たちに確信させられました。それから天に昇られました。
 天に昇られる前に、「エルサレムから離れないで、かねてわたしから聞いていた父の約束を待っていなさい」といわれました。それは間もなく聖霊がくだるという約束でした。そのことを、イエスさまが十字架におかかりになる前から、たびたび弟子たちに話しておられたことでした。
 イエスさまが天に昇られてから、弟子たちは、エルサレムのある家に集まって、その約束を信じて熱心に祈っていました。
 こうして、120人ばかりの弟子たちが祈っていると、十日たって、ちょうどペンテコステの朝のこと、突然、激しい風が吹いたような音が天から起こってきて、みんな座っていた家いっぱいにひびきわたりました。そして舌のようなものが、炎のように分かれて現れ、そこにいた一人ひとりの上にとどまりました。こうして、約束の聖霊が弟子たちの群れ全体に、そして一人ひとりにくだったのです。
 聖霊は神さまから出る霊ですから、旧約聖書の時代にも、その働きはありました。たとえば、預言者たちが預言したのは、聖霊によってでした。
 けれども、このペンテコステの日の聖霊降臨の出来事は、特別の意味をもっています。それは、聖霊によって、ヨエルが預言したように、救いの時がやってきたという出来事です。
 たしかに、救いの時はイエスさまと共に到来しました。イエスさまと共に神の国は始まりました。しかし、イエスさまの成しとげてくださった救いのみ業が、このペンテコステの出来事ともに、新しい段階に入ったのです。それは、イエスさまをこの目で見ることができたときよりも、もっと近くイエスさまと共にいることができるようになったことです。そして、その方がイエスさまを正しく見ることができ、また、時間と空間をこえて、だれでも、いつでも、自由に、イエスさまの成しとげてくださった救いにあずかることができるようになったのです。
 弟子たちが聖霊を受けたとき、本当にイエスさまの本質がわかったこと、その十字架の死の意義がよくわかったこと、その復活がはっきり確信できたことです。十字架の前にはイエスさまを捨ててしまった弟子たちが、人が変わったように、イエスさまのことを語りはじめました。
 このように、聖霊は父なる神さまと子なる神さまから出る霊で、神さまとイエスさまとわたしたちに教えてくださいます。「聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である。』とは言えないのです。」(コリント一12:3)教えてくださるだけでなく、わたしたちをイエスさまに結びつけてくださるのです。

  「青少年のためのキリスト教教理」永井春子著から



釧路教会の伝道のあゆみ


 釧路地方のキリスト教伝道は、1900年頃からで、日本聖公会とギリシア正教会の伝道が初期の
もの。

 日本基督教会の釧路伝道は、1906年1月23日の坂本直寛による平井家での集会が最初であった。
 その集会が発展して日本基督教会釧路教会(今日の日本基督教団釧路教会[浦見])である。
 戦後、教団を離脱して再出発した日本キリスト教会は、新しく1962年10月に伝道を開始して、
今日の日本キリスト教会釧路教会[柳町]となっている。

 私たちの釧路教会は伝道開始から62年、釧路の地にキリストの福音とその光を輝かせ、希望と慰めの言葉を語り伝いたいと願い、励んでいます。

沿革
伝道開始——1962年10月29日  
伝道所開設—-1964年10月27日
伝道教会建設–1974年 5月 7日  
教会建設——1982年 5月 3日
現会堂献堂—-2001年12月23日  
1962年10月29日、稲岡義一宅にて伝道開始。以後、稲川稔宅と交替で集会が守られ、近藤治義、竹内厚、高橋恒男の諸教師が伝道に当たった。  
1963年10月、大会伝道地となり、
1964年10月27日伝道所開設。伝道責任者は久米三千雄教師に交替した。  
1967年3月31日、堀田治郎教師が主任者として赴任。
1970年11月10日、教会堂・牧師館を市内柳町12番18号に建築。12月8日献堂式を挙行した。  
1974年5月7日、伝道教会建設。
1982年5月3日、教会建設。堀田治郎が牧師に就職し、1996年3月25日辞任した。
1996年3月29日、教師試補田中忠良が伝道師として就職。  
1998年11月30日、田中忠良が牧師に就職。2001年12月23日、教会堂・牧師館を現在地に移転建築。
2012年3月、田中忠良は牧師を辞任。以後3年間無牧となる。
2015年5月6日教師千葉保が牧師に就職。
2023年3月、千葉保は牧師を辞任。
2024年5月6日、教師試補熱田洋子が伝道師として就職し現在に至る。

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9月21日の説教から
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  • ヨブ記9章1~4節
    ローマの信徒への手紙5章15〜17節
    「神の正しさ人の正しさ」

    2025.9.21          伝道師 熱田洋子
    「神より正しいと主張できる人間があろうか。」ヨブは神に問いかけます。
    わたしたちがこの世と人生において、起こり来るあらゆる諸問題、困難が究極的にそこを土台として、そこから発しているもっとも根本的な問題に、聖書を通して直面させられるのだと思います。
     はるか幾世紀も前に、ヨブと呼ばれる人物によって発せられた問いが、今のわたしたちにとっても重要な問いと言われると驚かれるかもしれません。この問いは、人はどうやって神の前に出るのか、どんなふうに神に語りかけたらいいのか、神に近づくにはどうしたらいいのか、という問いです。神との交わりの中で、いったいわたしたちは自分のことで何ができるのでしょうか。
     ヨブは神を畏れる、正しい、そして同時に裕福な人でしたが、そのヨブに災いが襲いかかります。彼自身罪過はないのに、財産と子供たち、そしてついには健康をも失うことになりますが、ヨブは、妻の誘惑的な言葉(「どこまでも無垢でいるのですか。神を呪って、死ぬほうがましでしょう。」)(2:9)に直面しても、神に対して忠実であり続けます。ヨブは自分の運命を神の手から受け取り、創造者を賛美することさえします。「主は与え、主は奪う。主の御名はほめたたえられよ。」(1:21)「わたしたちは、神から幸福をいただいたのだから、不幸をもいただこうではないか。」(2:10)と言っています。そこに三人の友が来訪して弁論がかわされると、これまでヨブの心の中に閉じこめられていた思いが噴出します。2節前半、「それは確かにわたしも知っている。」、それとは、「神が裁きを曲げられるだろうか。全能者が正義を曲げられるだろうか。」(8:3)という友人のことばです。ヨブは神を神としてまったく真剣に受け止めています。しかし苦悩するヨブは、神が絶対的なお方であることを認めつつも、神としてあくまで正しくあるためにヨブを罪ありとする神と自分との間の不可解な対立を神と争おうというのです。
    「人はどうして神に対し正しくありえようか。」新しい訳・聖書協会共同訳。
     ヨブが発したこの問いは、すべての人が遅かれ早かれ直面しなくてはならない、問題がここにあります。人はこの世界で生きています。そしてやがてはこの世界から去っていきます。そのことをどうつきつめても人がコントロールすることはできないです、つまり、わたしたちの人生は神の御手に握られています。
    この問いが避けられないというのは、いつ人生の問題に直面するかが決してわからないからです。それだからこそ、緊急性が増し、ヨブが言おうとしているのは、人生は不確定なものだということ。
     どうして人間が神と同じように正しいと言えるのかを緊急に問うのは、わたしたちが病気にかかること、年老いることが間違いなくやってきます、おそらく何かに失望することも、戦争も。世界の中で戦争や紛争が起こり、いまも続いています。これらいくつかが起こり来ること、わたしたちはどうやって、起こり来る可能性のあることに備えることができるでしょうか。
     聖書の中には、たくさんの聖徒たちの経験したことが証しされています。ヨブの発した問いに答えをもっている人を見ることができます。
     たとえば、パウロ。「わたしたちの一時の軽い艱難は、比べものにならないほど重みのある永遠の栄光をもたらしてくれます。」(コリント二4:17)試練のただ中で「わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。」(ローマ8:38-39)ここに、自分に立ち向かうもののあまりにも多い世に身をおきながらも、たとえ、その身に何が起きようとも動揺することなく、平和と喜びのうちにとどまっている姿を見ます。ヨブの発する問いかけの答えがここにあるといえます。パウロがそれを持っていたから。
    「あなたは神に会う備えができていますか?」今、この瞬間、ただちに神の御前に出ることになったとして、何を語ることができるでしょうか?神の前でどうやって自分を正しいものとするのか、と尋ねられたとき、何を頼りとし、どう答えるでしょう。「わたしは誰も傷つけませんでした。できるかぎり善良な者であろうと努めてきました、他人を助けようと努力してきました。わたしなりの人生の基準をもって過ごしてきました。他の人々よりは良いはずです」と答えることになるでしょう。
     このような答えをヨブは次のように語ります。「わたしが正しいと主張しているのに 口をもって背いたことにされる。無垢なのに、曲がった者とされる。」(20節)というように、神は取り扱われるというのです。わたしたちは、自分を見つめ、自分のうちを探った時に、自分の無価値さ、不十分さは認めざるを得ないことでしょう。けれども、人が自分や他の人をどう見るか、どう考えるかではなく、重要なことは、神はそれをどのように見ておられるのかということです。
    「このように、人間ともいえないような者だが わたしはなお、あの方に言い返したい。あの方と共に裁きの座に出ることができるなら」(32節)ここにおいて、わたしたちが過ちの中に陥っていることが明らかになります。人間同士の間で誰がマシかと言ったようなことは、問題外なのです。神の基準は、永遠の尺度で測る基準です。わたしたちが直面している課題は、どうやったら神のもとにとどまることができるか、いかにしたら神と語り合うことができるか、ということです。ヨブが抱える問題はそれでした。神はどこにおられるのか、「どうしたら、その方を見いだせるのか。おられるところにいけるのか。」(ヨブ23:3)神はあまりにも遠くにおられるので、わたしたちは近づくことができません。神はその威光、主権、力においてあまりにも偉大なお方であり、わたしたちはあまりにも弱く小さなものです。神のきよさに直面すると、「神は光であり、神には闇が全くないということです。」(ヨハネ一1:5)光と闇に何の調和があるでしょう、真実と偽りの間に何の妥協があり得るでしょうか。これら対極にあるものの中間はないのです。わたしたちは敬虔な思いで、聖なる恐れを抱いて、神に近づいていきたいと願います。そんなわたしたちは神を十分に理解しているでしょうか。
     神のご性質に思いを向けます、神は聖いお方です。わたしたちが「雪解け水でからだを洗い 灰汁で手を清めても」(9:30)それでも決して十分ではないのです。わたしたちの罪を除くことはできません。神はわたしたちが心の底で思い浮かべること、考えること、想像することのすべてを知っておられます。神は言われます。人は行いだけでなく、その見える姿すら悪に満ちていると。心の底までもご覧になります。わたしたちの罪ある状態それ自体が問題なのです。
    「神より正しいと主張できる人間があろうか」
    わたしを探られる光なるお方の御前に進み出るという希望は、どうやってもつことができるでしょうか。そこに神の目が見ておられます。そのようなお方の御前に立つことがどうやってできるでしょうか。この問いの答え、ヨブは「あの方とわたしの間を調停してくれる者 仲裁する者」(33節)を求める声をあげています。神と人との間にある問題を取り上げ、この深い裂け目に橋をかける誰かがおられるはずだ!神に感謝すべきことに、その方はおられる。そのことこそ、福音のメッセージの中心なのです。神の御子イエス・キリストをこの世にお遣わしくださった。主イエスがおいでくださったのは、わたしたちは自分の力によっては決して神の御前で自らを正しいとすることができないからです。主イエスはわたしたちを義とするための御業を成し遂げてくださいました。ご自身の上に、わたしたちの罪、過ちを負ってくださったのです。罪の問題に苦しむわたしたちの世とわたしたちのただ中に主はおいでくださった、そしてわたしたちになり変わって、罪を負ってくださった。神はわたしたちの罪をキリストにあって処理してくださったのです。「罪と何のかかわりもない方を、神はわたしたちのために罪となさいました。わたしたちはその方によって神の義を得ることができたのです。」(コリント二5:21)
     わたしたちが神の御前に出るためには、自分の汚れを除き、罪にかかわる一切のものを処分し、そうして、ただ一つの道、キリストによってご自身の義の衣をまとわせていただく道を進むのです。キリストはまた、わたしたちの手をとり、神の栄光にあふれる御前に罪のない者として歓喜の中で進ませてくださるとも約束しておられます。
    「神より正しいと主張できる人間があろうか」といっていた者を、「正しい者は信仰によって生きる」(ローマ1:17)と導いていかれます。神の義はキリストを通して、すべての信仰者に与えられます。「…恵みの賜物は罪とは比較になりません。一人の罪によって多くの人が死ぬことになったとすれば、なおさら、神の恵みと一人の人イエス・キリストの恵みの賜物とは、多くの人に豊かにそそがれるのです。この賜物は、罪を犯した一人によってもたらされたようなものではありません。裁きの場合は、一つの罪でも有罪の判決が下されますが,恵みが働くときには、いかに多くの罪があっても、無罪の判決が下されるからです。一人の罪によって、その一人を通して死が支配するようになったとすれば、なおさら、神の恵みと義の賜物とを豊かに受けている人は、一人のイエス・キリストを通して生き、支配するようになるのです。」(ローマ5:15-17)これが神の備えられた道であり、ただ一つしかない道なのです。
    わたしたちが願い求めることはただ一つしかないのです。神の御子に向き直ってこう語りかけたいものです。讃美歌にあるように、
    「いさおなき我を 血をもて贖い 
     イエス招き給う み許にわれゆく」
    神の御前に進み出る時に有効な、意味ある道はただ一つ。神を見上げて
    「イエスこそわたしの救い主、わたしの主、わたしの神です」と告白することです。

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  • マルコによる福音書9章38〜50節
    「わたしたちの味方」

    2025.9.14          伝道師 熱田洋子
    マルコによる福音書9章38〜50節「わたしたちの味方」
    マラキ書3章2節
    「先生、お名前を使って悪霊を追い出している者を見ましたが、わたしたちに従わないので、やめさせようとしました。」
     ついさっき、弟子として奉仕するようにとの教えを聞いたばかりなのに、弟子の一人ヨハネが特権意識と不寛容(他者の罪過をきびしく責める態度)をあらわにします。主イエスの名を使って悪霊を追い出すことは十二弟子だけに与えられていた権能ではないのですが。それなのに、自分たちに主イエスから与えられた特権だと自認していた十二弟子でした、けれども弟子たちが無力だった実例もあったのを思い出します。このときは、ヨハネは「お名前を使って悪霊を追い出している者が、わたしたちに従わないので、やめさせようとしました。」ヨハネは自分たちの弟子のグループについてこないことを問題にして、そのとおりにならなかったことを主に訴えています。しかし、主イエスは「やめさせてはならない」と言われます、その人も主の名を信じ、悪霊を追い出したのだからと、その人を認めて弁護さえしているように聞こえます。それとともに、弟子たちの特権意識を打ち破り、受け入れることのできない心の狭さをいましめられます。直前37節では、子供を抱き上げて、このような者を、受け入れるように、4回も繰り返されました。弟子たちは主の働きをまだ理解できずに、特権意識をもって他の人々を排除しようとしますので、主の心をもって、主のために働いている他の人のわざを認めて受け入れなさいとさとしておられます。その人たちも神からの務めを託されて働いているからです。
     このとき「キリストの弟子」と、主イエスがご自分のことをキリストと呼ばれます。先に、ペトロが主イエスを「あなたはメシア、つまりキリストです。」(8:29)と告白した後ですので、主は、今、弟子たちに密かにご自身の使命の意味を教えられます。弟子たちは確かに主イエスに属しているのです。それはどういうことなのでしょう。「わたしたちの中には、だれ一人自分のために生きる人はなく、だれ一人自分のために死ぬ人もいません。わたしたちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。従って、生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のものです。」(ローマ14:7-9)というように弟子であるとはこういうことなのだと強調されます。あなたがたはキリストの弟子なのだと主が保証しておられることは決して取るに足らないものではないのです。
     また、主の働きに共に参加するのは十二弟子に限りません。弟子に水一杯を飲ませてくれる人もまた主の働きにあずかっています。そのときの水は、主ご自身に差し出された一杯の水なのです。主を信じて従おうとする思いをもってなされるわざは、その大小を問わず神の報いを受けます。水一杯はもっとも小さな行いに見えます、けれども神の公正な報いからもれることはないのです。小さく見えても神に数えられています。
    「わたしたちに逆らわない者は、わたしたちの味方なのである。」と、主は力強く宣べ諭されました。これは意味が深いことばです。ねたみや闘争心、党派心からキリストを宣べ伝えている者についてさえ、パウロは、「だが、それがなんであろう。口実であれ、真実であれ、とにかく、キリストが告げ知らされているのですから、わたしたちはそれを喜んでいます。これからも喜びます。」(フィリピ1:18)と福音の前進に役立つことを願って言っています(フィリピ1:12)。わたしたち教会のことを考えると、いまも先頭に立って進み行かれる復活と栄光の主のみ跡に従い、福音の宣教に召されているのですから、このみ言葉は教会にも向けられています。パウロの思いと熱い志は、「できるだけ多くの人を得るため」「弱い人を得るため」「(多くの)人々を救うために」との願いをもって、主のみ心を実際に行ったのです。福音宣教を志す教会とわたしたちも、この言葉を思いながら宣教の働きをこころがけていきたいものです。
     主の味方というと、いまも、キリストの弟子であるわたしたちの渇きを気遣って一杯の水を差し出してくださる人たちの中に、間接的ながらキリストの教会とわたしたちのよき理解者が周りにおられることでしょう。実際、このような人たちからも支えられていることを感謝をもって覚えます。この人たちも「主の味方」と言えます。主はご覧になっていて、その人たちからもキリストの弟子が起こされるよう待っておられることでしょうし、そのことをわたしたちも祈っていきたいものです。
     これまでも、主イエスは、「小さな者」を愛され取り上げて教えてこられましたが、ここでも重ねるように、「わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は」と言われます。小さな者を受け入れるのか、あるいは、つまずかせるのか、という言い方で、誘惑するものに屈しないように警告されます。「わたしを信じる」と言われて、先ほどの、主の名によって悪霊を追い出した人の信仰ともつながります。弟子たちに劣ることのない信仰をもって悪霊を追い出した人の、その行いをやめさせようとすることは、その人をつまずかせる危険をもっているということです。
     つまずかせるとはどういうことでしょう。つまずかせるとは、信仰の面においては、自分の言葉や行いによって、信仰に生きる人の確信や主への信頼を揺るがして、主から切り離すということになります。わたしたちは、意識して、あるいは意識しないままにそのような言動をしてはいないでしょうか。
     他の人々をつまずかせることは恐ろしいことなのだと、神はこのような厳しい審きを備えておられることを気づかせてくれます。というのは、信仰をもって生きようとしている人たちは、「その兄弟のためにもキリストが死んでくださった」(コリント一8:11)人たちです。御子の命が十字架にささげられることによって主の者とされたのです。主の愛が注がれた人たちを、わたしたちは自己中心的で、弱く傷つきやすい人への配慮を欠いた言動によって主から切り離してはならないのです。
     主は、またその言葉によって、つまずかせる人を滅ぼそうとしておられるのではなく、他者との間に生かし合う命の関係を築かせようにと促しておられます。

     一方、自分をつまずかせることに対してはどうすることでしょう。ここで「あなたを」と主は問いかけられます。あなたは、片手、片足、片目といっても、キリストの尊い血によって贖われた価値のある一人ひとりであることを伝えられます。先の35節で、弟子であることのあり方の基本を教えられました。それに照らして、ここでは、具体的に従っていくこと、服従すること、日常どのようにしていくのかが映し出されています、手、足、目は人間の最も大事な器官です。そうであると共に、誘惑のきやすい器官なのです。ここでは比喩的にいわれていることですが、弟子としての召命と使命を誤って判断したり軽んじたりしないようにという強い警告です。わたしたちを神から切り離そうとする誘惑、罪、これら敵対するものに、真剣な祈りをもって闘い打ち勝っていかなくてはならないのです。そうすることによって、御国において真の命に入ることができるものとされます。地獄の消えない火というのは、永遠の火(マタイ18:8)で神の刑罰は尽きるところを知らない(マタイ25:46)とされますが、それに対して、命は永遠に神と共にある祝福です。神の国はこういうところ、その祝福と喜びこそが神の国にあるのです。神の国に入れるように、弟子である教会の民のわたしたちが神から与えられた使命に従ってさらに信仰への招きに促されているのです。
     次にも火が出てきますが、ここに示される火は精錬する火です。「愛する人たち、あなたがたを試みるために身にふりかかる火のような試練を、何か思いがけないことが生じたかのように、驚き怪しんではなりません。」(ペトロ4:12)それは、信仰をためし、精錬する火のことです。「吟味される(コリント一3:13)。「彼の来る日にだれが身を支えうるか。…彼は精錬する者の火」(マラキ3:2)というみ言葉が出てきます。
     神による試錬は、キリストの弟子たちにはなくてはならないものです、それを塩味をつけるといっています。火と塩は弟子としての試練と主に全てをささげて従っていくことの象徴としてあらわされているということでしょう。弟子としての歩みは主にささげることを求められますが、試錬は、信仰者を挫折や失敗で消滅させるのではないのです、そうではなく、信仰者の歩みを聖なるものとし、神に受け入れられるものとするのです。この時の弟子たちを見ると、キリストの弟子となるという崇高な召に応えながら、だれがいちばん偉いかと互いに優位を争い、小さいものを排除しようとしています。そんなことをしていると、せっかくの塩気を無にすることになります。互いに言い争ったりしていては、そのような者がどうして「平和の子」(キリスト者を指しています)、平和の子であることができるでしょうか。弟子たちは、他者への、さらに自分自身への妨げとなることを避けながら、主に従うことです。そのために、厳しい試練に備えて、弟子たちはむしろ、互いに平和を保っていかなくてはなりません。
    弟子たちがキリストのために恥や苦難を喜んで負う姿は、キリストの十字架の苦しみによって救いの道が備えられた、その救いの中で生きられる希望へとつながっていくことを期待させるものです。
     最後に、主イエスと福音とに“思いも口の言葉も行いも”そのすべてをかけようとする者、つまり、弟子たち、そしてわたしたちにも「あなた自身のうちに塩をもちなさい。」と主は教えられます。わたしたちも、試錬や霊的な闘いをとおして、邪悪なものや不信仰なものを取り除かれて、神の国の一員にふさわしいものとされていきます。
    「塩を持ちなさい」という救いの言葉は、宣教に当たっての、外の人々に対するやさしさ、特にことばのやさしさを伝えています。主イエスにおける罪の赦しによる救いの福音に心から耳を傾けようとする人々を前にして、語る者の語り口と態度の苦闘がなされるものです。語る言葉と真摯な姿勢でのぞむことに注意を払います。パウロの言葉「…外部の人に対して賢くふるまいなさい。」との勧めにつづいて、「いつも、塩で味付けされた快い言葉で語りなさい…」快いというのはやさしい言葉と言えるでしょう。聴く人の魂のもっとも深いところまで迫っていこうとする、どうにかして“この福音を伝えたい”、という熱意と努力を精一杯することです。福音を聴くこと、それに従って生きることによって与えられたその塩味を、わたしたちはきょうだいたちの信仰のために、一人ひとりの慰めや励ましのために、さらに教会の形成のために用いていきたいものです。
     


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9月7日の説教から
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  • マルコによる福音書9章30〜37節
    「すべての人に仕える者になる」

    2025.9.7                               伝道師 熱田洋子
    マルコによる福音書9章30〜37節「すべての人に仕える者になる」

     主イエスは、ガリラヤを通って、エルサレムへ向けて一歩進んでいかれます。ここでも人の子(ご自身のこと)のために神がそなえられた道は自らの受難の道であることを弟子たちに説明したいと願っておられるようです。2回目の受難予告で、この時「人の子は、人々の手に引き渡される」と言われます。そこには、人々が自分たちの助け主として神から遣わされた真の人を認めないという不信仰、おそろしい無理解のゆえに主を排斥して殺すということ、そして人の子の運命が避けられないものであることが伝わってきます。
     しかし、弟子たちは、主がご自分の歩むことになる受難の道を2回も言われたのに、動揺しながら、まだ主に従っていくとはどういうことなのかよくわかっていません。主イエスの苦難と死は、確かにユダやユダヤの指導者たちやローマの官憲という人間の意志と行動によって行われた歴史の出来事です。しかし、背後には人間の思いをはるかに越えた、超越的な力が働いています。それは神の歴史です。神は人間の犯した罪をもきっかけとして、救いの歴史を開かれます。神の歴史のこの真相は、神が明らかに示してくださることによってのみ理解できるものになります。それゆえに弟子たちは主から受難を予告されましたが、主が歩まなければならない道を理解できません。まもなくユダの裏切り、弟子たちがみな主を捨てて逃げ去ります。やがて、主イエス・キリストの道を弟子たちが歩むことができるようになるためには、十字架の出来事を経て、復活の主によって人の罪の赦しと神との和解が成し遂げられることがなくてはならないのです。
    「途中で何を議論していたのか」主イエスは、(父なる神にへりくだって)十字架の死へと従う用意をもちながら弟子たちに問いかけられますが、弟子たちはといえば、自分の地位とか名声のことしか頭にないので、何も答えられません。そこで、主イエスはすわり、黙っている弟子たちを呼び寄せて、改めて神の国の真理、教えを与えられます。
    「だれがいちばん偉いか」これは、社会的地位や順位はもとより、信仰の深さから奉仕の度合いまで、神の前での序列も含むものでしょう。この後10章で、主は言われます。「あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になりなさい。」(10:43)より深い信仰の原則を示されます、もし神に仕えることにおいて偉くなろうと望むなら、本当に望まなくてはならないのは、他の人に仕えるという使命です。それゆえに、ことさらに、最も低いことと最も低い地位を選ぶことになるのです。主イエスのご生涯において最も大切なことだったのはこのこと、「仕えられるためにではなく、仕えるために来た」(10:45)お方だからです。
    「いちばん」と「仕える」という言葉は、マタイ、ルカの福音書にもあります。主は、必ずしも人間社会の営みにおいて「いちばん先、いちばん後」の順位を否定されたのでもなく、また一番になろうとする欲求を軽視されたのでもないでしょう。その価値基準が、世の基準とは逆転しているということです。わたしたちは、ともすれば、人の上に立つことや、人を押しのけて自己目的を貫きとおそうとし、自己実現を図ろうとする願望をもちますが、それは退けられます。「いちばん先」「いちばん後」と言うと、このように考えることができるでしょう。一番先を行くものは、他者の姿が見えません。しかし、一番後から行くものは、多くの人々が視野に入ります。前を行く多くの人びとの様子がわかるでしょう。どんな手助けが必要かも見えるでしょう。その人々に、つまり「すべての人に仕える者」となることが勧められています。これは単なる謙譲の美徳の教えではありません。人間の尊厳をいささかも傷つけてはならないという愛の精神に基づいています。隣人愛を実際に行ってみるということです。いちばん後になる人が、先を行くすべての人が視野に入る、つまり人間が見えるのです。先を行く人が気づいていない様子、さまざまな様子が見えるということでしょう。
    「仕える」というのは、食卓で給仕すること、仕える者は給仕する者のことです。特に、この時代、奴隷が主人に仕える姿につながっています。食卓の給仕というと、他者に食事を提供し、その人が生き生きと生き活動できるように支えるということにもなるでしょう。さらには、ひとりの人が、へりくだって他者に仕えること、つまり、徹頭徹尾、自己否定して他者へ関わり、他者を生かす者となるようにということになるのです。他者を生かすものとなることは、自らもまた、欠かせない者として生かされること、仕えることが自らも生かされる道です。「わたしの後に従いたい者は」(8:34)と呼びかけられたことと、いまここで「いちばん先になりたい者は」に通じています。弟子たちがへりくだって仕え合うというのは、愛の奉仕にほかならないのです。
     そして、主イエスは、実際にどういうことなのかを見せてくださいます。一人の子供の手を取って彼らの真ん中に立たせ、抱き上げられました。主は、周りで遊んでいる子供をさっとつかまえられる、生き生きとした動きが描かれます。真ん中に立たせ、抱きよせます。子供は、当時、無力、無価値な者の代表と見なされていましたので、主イエスが子供を抱いて語られる振舞い、そのものが、ご自身を最も低く、最も小さな者の僕として示しておられます。つまり、無力な者の位置にご自身を置くことによって、「仕える」者としての弟子のあり方にむすびつけておられます。「キリストの真の弟子」というのは、こういう者になること、子供の姿を通して、貧しく窮している弟子としての信仰者を表しているということでしょう。
     神はすべての者の中で、最も低く仕える者である弟子を高く評価し、ご自分をその者と同じであると見なされます。同様に、主イエスも、弟子であるということ以上の地位を求めない貧しく窮している弟子、つまり子供と自らを同一な者としておられます。このような低さと小ささにおいて神のしもべであるご自身が弟子たちを受け入れるのだから、弟子たちも、主に応え、従うことは、同時に苦難の人の子(主イエスのこと)が伝える福音に応えていくことになるのです。
     子供の一人を受け入れる者は、わたし、イエスを受け入れることになり、さらに、わたしをお遣わしになった方、神を受け入れることになるといわれます。子供、一般に対する関わり方からすれば、このような子供は天真爛漫な者というのではありません。当時、ギリシア・ローマの世界では、子供は価値のない者とされていましたし、ユダヤの人々は、子供は、神から与えられた祝福のしるしとされましたが、実際には、大人の思いのままに取り扱われていました。
     そこにあって、わたしの名のために、というのは、この小さな存在にも神の愛は向けられ、彼らの救いのためにも主は十字架を担われたということを信じることです。それが、わたしの名、すなわち「主の名のために」受け入れることです。ここでは、子供を、無力、無価値な者の一人として、また弱く助けのない者の一人として、ただ主イエスを信じるゆえに迎え入れるのです。受け入れられるとは、歓迎され、友として、さらには家族として扱われることになります。主イエスは、「取税人・罪人」を受け入れ、彼らと食事を共にされました。姦淫の女や、世の無力な者たちをも受け入れられたのです。さらに十字架の上で「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」と祈られました。そこでは自分を十字架につけた人々までも受け入れておられます。また、主に従ったパウロは、コリントの教会にあてて「あなたがたが召されたときのことを思い起こしてみなさい。…神は…力ある者に恥をかかせるため、世の無力な者を選ばれました。また、神は地位のある者を無力な者とするために、世の無に等しい者、身分の卑しい者や見下げられている者を選ばれたのです。」(コリント一1:26-28)と記しています。十字架の道はこのような無に等しい者をも受け入れるためだったのです。
     もし誰かがイエスの名において来るなら、その人は受け入れられなければなりません。それは主イエスご自身を受け入れることに等しく、ひいては神を受け入れることだからです。そのことを主イエスの信徒として行うことです。主イエスを受け入れることは、主の使命に一緒になって行うことになります。無力な子供を受け入れることが仕える者の道、弟子の道であることを主は教えられます。だれがいちばん偉いのかと論じ合っていた弟子たちに、その答えは、「すべての者に仕える」ことなのだと実際に示されたのです。
     また、子供を通して、具体的な愛の働きを求められます。弟子たちが主の周りに連れてこられた子供をわずらわしい存在として見る(10:13)ような態度をみせるので、子供を受け入れることを通して、そのことをたしなめる意味もあったのかもしれません。子供は無邪気さ無心さ、低さの点で愛される者と想像することもできますが、罪のない天使のような子供を受け入れるにとどまりません。子供は無心で可愛い反面、世話が必要で、両親や多くの人たちの骨折りがなくてはなりません。そのような手のかかる者、今、他者の助けを必要とする人がいるのだから、その一人の人を受け入れるようにということが考えられます。初期の時代には、主イエスの弟子たちは、子供のように、無力でつまらない者たちと見なされていたようです。しかし、弟子たちが伝えていく福音のゆえに受け入れられねばならなくなっていきました。
     それはさておき、主に従う者たちの群れを考えると、それは、子供に限らず、今、助けを必要とする人々を受け入れる群れなのです。「信仰の弱い人を受け入れなさい。」(ローマ14:1)とみ言葉は勧めます。また、「わたしたち強い者は、強くない者の弱さを担うべきであり、」(ローマ15:1)と言われますが、立場が逆転することも起こりうるのです。すべての人々が、神の前に、かけがえのない一人の人間として、愛の奉仕の働きによって受け入れられることを主は願っておられます。今、助けを必要としている人々への関わりをわたしたちにもそのことが問われているように思います。愛の奉仕の働きには主イエスとの関わり、ひいては神との関わりをもそのうちに含んでいることを考え、教会の宣教の中で、神の救い、すべての人の救いを願う目的に従っていくものでありたいものです。

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8月31日の説教から
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  • イザヤ書53章8節
    マルコによる福音書9章14〜29節
    「信じる者には何でもできる」

    2025.8. 31       伝道師 熱田洋子
    マルコによる福音書9章14〜29節「信じる者には何でもできる」

     先に、主イエスは山の上で、三人の弟子たちを前にして、御子として神の栄光をお受けになりました。主は、そこで与えられた神の祝福と力をたずさえて、山の麓にある、重く深刻な現実の生活のただ中に入って来られます。
     ほかの弟子たちは、群衆に囲まれて、律法学者たちと議論していたというのですが、何を議論していたのでしょう。そこには汚れた霊に苦しむ子どもが連れてこられていたので、弟子たちがその子から霊を追い出せないでいたこと、その先生である主イエスのことにも及んで批判され、論議されていたのかもしれません。以前、主は弟子たちを「宣教に遣わし、また悪霊を追い出す権能を持たせた」(3:14~15)のでした。それなのに、この時、弟子たちは、その役目を果たせなかったのです。
     そのとき、主イエスが姿をあらわされ、そこに権威ある方が現れたので、群衆は卒倒するほど、非常に驚いたということでしょう。
     主イエスは、「何を議論しているのか」と言われて、自尊心を傷つけられている弟子たちから、群衆の注意を主ご自身に向けさせます。
     早速、群衆の中にいた一人の父親が、霊に取りつかれた息子を見せて訴えます。「この霊を追い出してくださるようにお弟子たちに申しましたが、できませんでした。」この子どもは、いまでは「てんかん」という症状だったでしょう。この時代、このような精神的な病いは悪霊の働きと考えられていたようです。父親のことばからは、疲れ果てた落胆の様子が感じられます。弟子たちに期待していたのに、霊を追い出してくれなかったと。弟子たちでさえ子どもの状態の前に無力です。文字どおりには、それをするには「十分に強くなかった」のです。人間の望みが尽きた時こそ、主イエスから希望が期待できることが記されていきます。
     父親の話を聞いて、主イエスは苛立ちを込めて叫ばれます。「なんと信仰のない時代なのか。いつまでわたしはあなたがたと共にいられようか。いつまで、あなたがたに我慢しなければならないのか。その子をわたしのところに連れてきなさい。」この時に、だれの信仰がないと責められたのでしょう。弟子たちでしょうか、弟子たちは悪霊を追い出すには無力でしたが。あるいは、この父親でしょうか。群衆でしょうか。この主の嘆きのことばは、「彼らはわたしの道を知ろうとしなかった」詩編95:10の後半を引用しています。それは昔「荒野を放浪していた時代」のイスラエルの不信仰を神が忍耐をもって耐え忍ばれたが、ついには神によってさばかれた、その嘆きを思い浮かばせます。いま、ここに、主イエスは、すべての人々に関係ある神のさばきの言葉をもたらすお方として立っておられます。ここでも、主イエスは、人々に信仰を示され、信仰へと招かれます。しかし、人々は、その招きに応じようとはしません。このときの嘆きは、主は忍耐をもって人々を信仰へと招き続けておられるけれども、その招きには「とき」があるのです。主はいつまでも地上にはおられません。ですから、主の招きを受けたとき、それに直ちに従うことが求められています。「今日、あなたたちが神の声を聞くなら、心を頑なにしてはならない。」(ヘブライ4:7)のです。
     弟子たちがその子に何もしてあげられない一方で、主イエスは、世の不信仰を嘆かれ、世に乗り込んで来られて子どもをめぐって汚れた霊と対決されます。霊はこの子に対する支配を確かにしようと激しく襲ってきます。ここに神の力とサタンの力の違いがはっきりします。神の力は、人間を生かす力、愛の力です。対するサタンの方は、人間を殺す力、破壊し、憎しみの力です。ある神学者の言葉があります。
    「神の力とは、聖にして義であり、憐れみ深く、忍耐強く、慈しみ深い力です。…このような神の力が、イエス・キリストにおいて活動し啓示された、イエス・キリストにおける神の自由な愛の力なのです。」(カール・バルト『教義学要綱』第7章)
    そのとおり、主イエスは、愛の力をもって汚れた霊に立ち向かわれます。
     主は父親に「このようになったのは、いつごろからか」とお尋ねになります。
    主に問われて父親は、子どもが幼い時から苦しみ、死にかけたことを語ります。同時に、父親は、自らの心のうちを明らかにします。主イエスの問いかけは、父親が現実の苦難と人間の希望を携え、自分自身のすべてをもって御前に出るようにという招きです。すると父親は主のみ心に自分とすべてを賭けます。「おできになるならわたしどもを憐れんでお助けください。」と懇願します。「おできになるなら」という言い方に、この父親の悲しい経験が反映されています。父は息子と運命を共にしてきて、息子のいやしを願ってあらゆる手立てを講じたのでしょう。しかし、その度ごとに期待を裏切られたのです。同時にこの父には主イエス以外にはいかなる助けもないことが示されています。
     父がこのように語ることで、何を望んでいたかが伝わってきます。父親は息子が助けられることを願っています、その希望の根源は主イエスの憐れみに根ざしているもので、主が憐れみ深いお方であることを信じて主イエスのところにやってきたのでしょう。
     主イエスは、この人の信仰のなさを優しく叱責されます。「『できれば』と言うのですか、信じる者には何でもできる。」「できれば」と言うのですか、と応えられたのは、問題は、神のみ心であるかどうかや、神が無力なのではなく、人間の「不信仰」にあるのだと示されたのです。人間には不可能なことも神には可能なのです。
     ここには、あの偉大な聖書の原則が示されます。「イエスは彼らを見つめて言われた。『人間にできることではないが、神にはできる、神は何でもできるからだ。』(10:27)、「神を信じなさい」(11:22)「だから、言っておく。祈り求めるものはすべて既に得られたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになる。」(11:24)これは、聖霊によって与えられた、わたしたちの中にある「キリストの心」を求めることが必要であることを、別な形で言い表したものです。逆に言うと、神に対して絶対的な信頼がないことが不信仰なのだと、いわれているのです。
     しかし、「信じるものには何でもできる。」と言われて、父にとってつかみどころのない希望に思えたに違いありません。息子から霊を追い出してもらうために必要な信仰は、自分は持っていないと思ったでしょう。
     この父は自分の信仰の貧しさを正直に告白し、助けを求めて叫びます。人は、神の中に自分をゆだねきれない「不信仰なわたし」をかかえています。しかし、その「不信仰なわたし」にこだわって・固執して、自分自身にとどまるのか、その「不信仰なわたし」を神の方に、神の力の中に投げ入れるのかが問題なのです。この父は、「信じます」と告白したとき、主イエスが言われるように「自分には信仰のない」ことを自覚して、それに基づいて、神の憐れみを嘆願しています。
     父親が「おできになるなら…お助けください。」と言ったとき、主イエスはこの言葉を叱責されますが、父親はその主のお言葉を聞くとすぐに叫びます。この父は主イエスに息子をいやしていただきたいと実際の助けを求めて、主の中に、つまり主イエスに力があると決断して自分を投げ入れ、自分がそのような助けを受けるのにふさわしい信仰を持っていないことを告白しました。この父が主イエスのところへ来たこと自体、そこから信仰がはじまっているといえるのではないでしょうか、それでも十分だったのです。父親は、主からの語りかけ、すなわち神の言葉によってうながされ、それに応えて、自分に語りかけられた主の中に自分を投げ入れました。この父の信仰は、主イエスの言葉によって引き起こされたのです。ここから思わされるのは、わたしたちが神の働きによって助けをいただけることを考えると、決して、神の働きを待つだけではないのです。むしろ、神に呼びかけて、神の応答を求めていくところから、神の働きにあずかることができるということです。
     神学者E.シュヴァイツァーは「自分自身の不信仰を知ることによってのみ、人間は信仰が神の贈りものであることを、喜びと慰めをもって告白することができる。(なぜなら、彼が神の行為によりたのむ時にのみ、彼は確かだからである。)と記しています。そのとおりではないでしょうか。
    「不信仰な時代」の中に、信仰に生きる人が一人ここに誕生しました、このとき、主はこの人と共に汚れた霊に立ち向かい「ものも言わせず、耳も聞こえさせない霊」に子どもから出ていくように命じられます。人間は神のものです。神は、人間を神以外のものに支配されることをお許しになりません。主が神の権威を持ってこの霊と戦われます。主と汚れた霊との戦いは、主ご自身の猛烈な戦いであると共に、祈りによる神との共闘であったのです。このような祈りによってのみ、信仰の勝利がえられるということでしょう。激しい戦いによって、子どもは二つの力に引き裂かれ死人のようになりました。しかし、「イエスが手を取って起こされると、立ち上がった。」のです。さっき、弟子たちはまさに「死者の中から復活するとはどういうことかと論じ合った。」(10節)ばかりでした。「立ち上がる」という言葉は「復活する」という意味を持って使われます。いま、主は、死んだようになった子どもを復活させ回復させています。ここで、主イエスはご自身の死と復活の意味について初めて具体的に示されたということのように思われます。
     主イエスが家に入られると、弟子たちは、ひそかに主に「なぜ、わたしたちはあの霊を追い出せなかったのでしょうか。」と尋ねます。いつものように、主イエスは弟子たちに教え、ご自身の神の働きをお示しになります。問われて、主は「この種のものは、祈りによらなければ決して追い出すことはできない」とお答えになります。つまり、信仰のたりなさは祈りのたりなさである、ということを教えておられます。弟子たちは、自分たちの悪霊追放の方法や手順が間違っていたのかもしれないとの思いで主にお尋ねしたのですが、主は弟子たちの方法が拙かったのではなく、信仰の基本的なところにたりないところがあるのだと指摘しておられます。
     真の信仰は常に、その小ささと不十分さを自覚しているものです。父親が信仰を告白したのは、十分な信仰を持ったときではなく、からし種ほどの小さなものだったにしてもその信仰にすべてを賭け、自分の不十分さを主イエスの真の満たしにゆだねたときです。「わたしは信じます。どうかわたしの不信仰を助けてください。」
     信仰は神へ全面的に自分自身をゆだねることです、祈りはその行為です。「祈りとは神に向けられた信仰である。」と言われます。祈りは、特定の願いを神に向けて信仰を集中させ導く行為ということです。信仰も祈りも、霊的な力は自分自身にではなく神のみにあることを証し、救いの約束を信頼して待ち望むのです。
    「どのような時にも、“霊”に助けられて祈り、願い求め、すべての聖なるものたちのために、絶えず目を覚まして根気良く祈り続けなさい。」(エフェソ6:18)主イエスご自身は祈りに対する篤い信頼をもっておられたことが示されています。主に従うわたしたちも、神に対して全く開かれ、その力ある恵みを祈りのうちに待望するものでありたいものです。

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8月24日の説教から
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  • 歴代誌下10章1〜19節「御言葉は実現する」
    ヨハネによる福音書14章6節

    2025.8. 24       伝道師 熱田洋子
    歴代誌下10章1節〜19節「御言葉は実現する」
    ヨハネによる福音書14章6節
     歴代誌からみ言葉に聞きます。歴代誌は、ヘブライ語聖書では旧約聖書全体の一番最後に置かれていて、旧約聖書全体の語りと記述を最後に締めくくる重要な役割を果たしています。この書は、バビロン捕囚から戻ったイスラエルの民が自信を持って新しい時代を生きていくことを願って書かれています。自分たちの過去に対する反省や批判は欠かせないことですが、イスラエルが今それ以上に必要としているのは過去と自己との和解であると考えます。深く傷つきひび割れたイスラエル自身の心の癒し、主なる神に対する信仰によって結ばれた共同体としてのイスラエルの健全な自己回復こそが大事であったのです。
     7月20日礼拝では列王記から読みました。列王記と比べると、類似したことが書かれていても、歴代誌は、列王記のように北王国そのものを否定することはなくて、むしろ南北分裂という民族の傷を癒し痛みを和らげようとしています。
     今日の箇所は、歴史の重大な転換点となる出来事をとりあげます。ソロモンの後継者、レハブアムの行動の結果、イスラエルとユダとの王国に分かれたことを思い出させるものです。ここに神が働かれていることを明らかにし、わたしたちを神との正しい関係に導き入れようとするものです。
     ソロモンの子レハブアムは何の問題もなく父の後を継げるものと考えてエルサレムの北50kほどにあるシケム、北方部族の中心の町へ行きます。ところが、事はそのように簡単には運びません。エジプトに逃げていたヤロブアムが帰って来たから、ヤロブアムには列王記のときに話したようにアヒヤから預言を聞かされています。
    そこで、人々と共に、これまでの重税と労役を軽くするようにレハブアムに申し入れます。
     過酷な労働とは、ソロモンが晩年は神に背き、偶像礼拝、諸国から受け入れたたくさんの妻たちの持ってきた異教の神々を礼拝するようになり、出費もかさみ王国の財政が厳しくなって、そのために民に重労働を課したということです。ソロモンの栄華の裏がわがここにあります。
     レハブアムは、父ソロモンの王座を継ぐことになり、それに向けて、今歩み始めます。レハブアムが願うことは何でしょう。王国全体を治める力がほしい、民全体の忠誠も得たい、全土を間違いなく掌握したかったはずです。このとき、選択肢は二つありました。一つは、ヤロブアム率いる人々から願われていることで、長老たちによっても勧められる方法、一方は若者たちが勧める方法です。目的は同じだったのですが、方法が違います。三日後、レハブアムは、やってきた人々を手荒くあしらい、尊大に語りかけ、はるかに過酷な処置を課すと脅します。その結果が、王国の分裂を引き起こし、そして戦争が繰り返され、バビロン捕囚へと歴史は続いていきます。
     わたしたちもレハブアムと同じように人生の岐路に立つことがあります。レハブアムが国を統治することを願ったように、わたしたちも、それぞれに、何かの希望を育み、何かしら自分の好む願望を実現しようとしています。そして、具体的に取り組むとき、二つの可能性に直面します。キリスト者のわたしたちには、聖書の教える道があるのはもちろんのこと、他方には、世の中の人々の見解や思想によって推奨されている道があります。聖書は、わたしたちにとって最高のことは何か、真の人生を生きるのはどうしたら良いかを教えようとします。わたしたちなら、まずよりどころとして聖書を開くのではないでしょうか。神について、イエス・キリストについて、救いの道についてみ言葉を読みますが、それにはとても聞き従うことはできないとなるとその後に、この世とその思想に向かうことになるものです。
     ここでは、レハブアムは神の御前に出て御旨をうかがう様子はみられません。敬虔なダビデなら、主の道を祈り求めたことでしょうが(詩編25:4)。レハブアムはよりどころとして最初に長老たちに相談します。しかし、レハブアムは長老たちの助言を退けて、若者たちのことばを受け入れます。やってきたヤロブアムと人々に対する猛々しい態度から察せられるように、長老たちの助言を軽蔑し、若者たちからの自分に当てはまる方をとったのです。レハブアムは人々の苦しむ状況を真剣に考えて、自分の知性をあげて対応しようとしたわけではありません。その態度からは、先入観、プライドに支配されている様子がうかがいしれます。先入観がなぜあるのでしょう。レハブアムは長老たちの助言が自分を侮辱しているように思えたからと考えられます。この助言の言葉には、まことに正しいこと、みんなにのぞまれることがいわれています。それでも、レハブアムは、この提案を受け入れると、いま自分のいる立場が誤っていると認めることになる、人々の言っていることが正しいと認めると、父ソロモンのやり方が間違っていた、引き継ぐ自分も誤りの中にいる、そう認めることを避けたかったと思われます。
     また、レハブアムのプライドが傷つけられると感じたのは、レハブアムの考える王の職務と役割はこの助言とは食い違うものだったのでしょう。人々からの提案を聞いたり、人々と仲良しになるなど、誰かの提案に合わせて職務を行うことが屈辱的に思えたと考えることができます。先入観は行き着くところプライドによるものです。長老たちのことばに従ったならば王としての威厳を損なう、人々の上にあって威厳を示していたいということです。ここで、わたしたちは、「神と隣人を愛するように」、「神と隣人に仕える」ように言われた主イエスのみ言葉を思い出します。わたしたちに、「仕える」とはこういうことなのだと模範を示されます。主イエスは弟子たちの「しもべとなって」彼らの足を洗われました(ヨハネ13章)。それによって王の権威は損なわれるどころか、ますます照り輝いたのです。
     このレハブアムの姿をとおして、わたしたちが福音のみ言葉を聞くときどうしているだろうかと思わされます。レハブアムは、長老たちが、古から培われた深い知識や経験に基づく助言を先入観を持って聞き入れなかったのです。わたしたちにとってはよりどころである聖書の福音のみ言葉をどのように受け止めているでしょう。
     聖書のみ言葉を聞かされて、わたしは初めの頃、教会、礼拝に居心地の悪さを感じたことがあります。福音は、わたしたちに、いまのままでは間違っていると告げ、その事実を明確に認めるように迫ってくるからです。そうすると、自分のプライドが傷つけられたと感じます。最初から、人の罪や過ちを指摘され、自覚と悔い改めるように求められるからです。そんな中に、み言葉が次々示されます。「あなたがたは新しく生まれねばならない」(ヨハネ3:7)、「正しい者はいない。…人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっています」(ローマ3:10、23)聖書が示す罪の教えは嫌われます。あなたは悪いといわれるのは願い下げにしてほしい。愛や赦しを語る福音なら嫌いではないが、恵みを語る福音は嫌います。わたしたちが愛と憐れみを受けるにはまったくふさわしくないと語るからです。
     しかし、福音は、あなたがたはまちがっていると告げるだけではありません、唯一、福音みの言葉だけが、わたしたちを正すことができるとも告げます。
     実のところ、わたしたちは自分自身とその力を確信しがちです。自分を救いたいと願い、そうできると信じています。いかにして自分を救うかを考え、その手助けをするような教えは歓迎し、一方、「自分で自分を救うことはできない」、「神がキリストを通して救ってくださる」と言う福音は、自分を侮辱されたかのように感じさせられるものです。ここにプライドがあり、先入観もうまれます。このようなわたしたちが先入観から離れるためにもみ言葉からの語りかけを聞くことが欠かせないのだと思います。聖書には、旧約からモーセ、ダビデ、預言者たち、新約のパウロや使徒たち、そして、その中心に主イエス・キリストがおられ、いまも、わたしたちがキリスト者として生きるために語りかけてくださるのですから。
     レハブアムは、長老たちの助言に耳を傾けなくてはならなかったのです。内容は実に真っ当で、公平、正しく、真実にあふれています、王にすすめるのにもっともな助言でした。人々が苦しんでいた圧政や不正はそのままでいいわけはないのです。人々の要求は正しく、真っ当なものです。その事実を見極めないで、正反対の行動を取ることにしたのはレハブアムの過ちとしてあげられます。
     同じことが、福音とその福音が与えてくれる救いの道についても言えます。福音は、わたしたち自身の真実の姿を知らせ、人生についての真実を明らかにし、自分のうちに神を悲しませるもの・罪を自覚させられます。それは、聖なる神の御前で、気づかせ、悔い改めるように導かれます。そして、わたしたちは救われて、幸いに生きることができるようになるのです。
     レハブアムが相談した若者たちは、王宮生活の中で、何の苦労もなく育った者たちで、どう言えば王の気にいられるかを感じ取っていたでしょう。レハブアムは、自分の意見に同意するものを探したとも言えます。神のみ言葉に養われ、祈りの中に整えられていないと、「王は同胞を見下して高ぶる」(申命記17:20)というような誘惑が待ち受けていることを思わされます。レハブアムにも言えることでしょう。
     わたしたちには福音とその福音が与えてくれる救いの道がそなえられています。そこには真理があり、歴史を超えて変わることのない正義が語られていることを思い起こしてみることです。自分の思いを通したいと言っても捨ててはならないものです。福音は神ご自身の真実そのもの、神からわたしたちに神ご自身を明らかに示しておられるからです。
     長老たちの助言は、王と民との関わりから見て、正しいこと、そうあってほしいというもので、レハブアムが受け入れるにふさわしい内容でいっぱいです。まさに、レハブアム自身が心の底で願っていたものを間違いなく手にすることができると保証するものでした。「もしあなたがこの民に優しい態度を示し、好意を示し、優しい言葉をかけるなら、彼らはいつまでもあなたに仕えるはずです。」
     しかし、彼はこの道を拒絶し、自分の考える道の方がもっと良いだろうと思ったのです。正しく真実の道を拒んだ結果は、王国が二つに分かれることになる動機になりました。しかしそれが原因ではなかったのです。原因は、シロ人アヒヤのヤロブアムへの預言(列王上11:29、33)にありました。イスラエルの神、主は言われました。「わたしはソロモンの手から王国を裂いて取り上げ、十の部族をあなたに与える。…わたしがこうするのは、ソロモンがわたしを捨て、異教の神々を伏し拝み、わたしの道を歩まず、わたしの目にかなう正しいことを行わず、父ダビデのようには、掟と法を守らなかったからである。」主が言われたのは、ソロモンの偶像礼拝の罪にほかならなかったのです。神の計らいによるとはこのことです。神は、人間の自由意志、つまりレハブアムが神に聞かず、自分でふさわしいと考え行ったことをも用いられて、ご自分の計画を実現されます。
     歴史を通して神は働いておられます。このような出来事、主の道を守らなかったソロモンのゆえに王国を取り上げることになったことから示されるように、主なる神に対する信仰をもつように求め続けておられることがわかります。わたしたちも一時は自分自身と自分の力に頼ったことがあるのではないでしょうか。しかし、その時は心の平和も安らぎも喜びも神を知る知識も得られなかったのではありませんか。
     人は自分自身を救うことはできません。人は、自力では、幸福と平和と喜びを見出すことや真理を見出すこともできません。さらに言うと、自分の努力や奮闘によっては、神を知ることができないのです。真実のいのちに至る道はただ一つしかないのです。幸福と喜びに至る道はただ一つしかありません。いのちに進む道もただ一つ。自らの父なる神を知る道もただ一つ。死に打ち勝ち、天の御国に至る道もただ一つ。「わたしは道であり、真理であり、命である」(ヨハネ14:6)神の御子イエス・キリストを通しての道しかないのです。そのお方にあってのみ、わたしたちは、自分の願うものを得ることができます、もちろん、それ以上のものを与えられます。神の御前にへりくだって、主が用意してくださる救いの道を受け入れ、自分を神にゆだねるとき、平安、喜び、力をいただけることを信じます。

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8月17日の説教から
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  • マルコによる福音書9章1〜13節「これはわたしの愛する子」

    2025.8. 17             伝道師 熱田洋子
    マルコによる福音書9章2〜13節「これはわたしの愛する子」
    イザヤ書53章11〜12節
     主イエスが神の唯一の御子として父なる神の栄光を現される出来事が弟子たちの前で起こります。「人の子が父の栄光に輝いて来る」(8:38)と約束されたことが起きるのです。直前に、ペトロは「あなたはキリストです。」(8:29)すなわち「主イエスは救い主」と告白した後、主イエスはご自身の受難と復活の予告 (8:31)をされ、従いたい者は自分の十字架を背負ってわたしに従いなさいと命じられました。それを裏付けるような出来事を前に、弟子たちに向けて、主に従う決意を促し、主とともに従う者の苦難が待っていることを明らかにされます。
     六日の後、主イエスは、ペトロ、ヤコブ、ヨハネを連れて高い山に登られました。「高い山」は、神が人間にご自身を表される場所です。そのとき、弟子たちの目の前で主イエスの姿が変わられたのです。並行記事(マタイ17:2)のも合わせると、主のお顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなったのです。この出来事はどのようなことをいっているのでしょう。主は、いま人となられて屈辱を受けられますが、真の神であって聖なる輝きを持っておられるお方です、その主イエスの苦難と栄光の間にあるヴェールを一時的に取り除く瞬間であったといえます。
     そこにエリヤがモーセとともに現れて主イエスと語り合っていた、これはどういうことでしょう。二人は、旧約聖書から主イエスを証ししていると信じられていた預言者の代表です。「また、預言者も皆、イエスについて、…証しています。」(使徒10:43)といわれているのですから。エリヤとモーセがともにマラキ書3:22~23に記されている箇所があります。そこでは、イスラエルの民は神の僕モーセの「教え」を覚えるよう命じられ、その直後に、エリヤは主の日に人々の心を悔い改めに導く預言者として紹介されます。二人ながら主イエスがこの世に来られるのを準備する預言者の役割を思い起こさせます。そうすると、モーセとエリヤの証しは主イエスを指し示していることになります。主イエスは神の御子、イスラエルの歴史と結びついてメシア・救い主が世に来られるという預言が実現することなのです。

     そこに、ペトロは、ここで仮小屋を建てましょうと提案します。ペトロにとっては、起こっていることがよくわかっていないのです。主がいつまでもここに住まいしてくださることを願ったのでしょうか。もしそうなら、神のお住いは、ペトロの前にあるのです。なぜなら、主イエスは神が人間とともに住まいされる新しい幕屋だからです。主イエスが神であることを明らかに示されるのは、「神の幕屋が人の間にあって、神が人とともに住み」(黙示録21:3)ということを証ししているのです。
     そのとき、神の臨在と栄光を象徴する雲が覆います。父なる神は天から御子について証しされます。「これはわたしの愛する子、これに聞け。」主イエスが洗礼を受けられた時の神の子としての宣言を思い起こさせます。洗礼では、主イエスに向かって、神の子であると語られましたが、ここでは、弟子たちへ向けて語られます。「愛する」とは、主イエスが洗礼を受けられた時と同じように「唯一の」御子であるということです。それだから、「これに聞け」と弟子たち、つまり主のものとされている者たちに、主イエスに聞き従うように命じられます。考えてみると、弟子たちが、主イエスを神の御子として受け入れるようになったのは、自分たちの力によるものではありません。(ペトロ二1:17-18)。神のご性質と神のみ業を理解することは、人間の業ではできないのです。主に聞き従うことです。わたしたちにとっても、わたしたちに明らかにされた神の真理を受け入れることが信仰です、信仰によって神を知ることができ、御心に従うものとなれるのです。
     では弟子たちはどのように聞いていくのでしょう。これから、主イエスの身に大きな出来事が起こります、十字架の受難、救い主として苦しまなければならないこと(8:31)が起こるのです、また、弟子たちの上にも思いがけないことが必ず起こり苦しまなければならない(8:34-38)のです。それでも、どのようなときにも、この主イエス・キリストに聞き従うようにと神は命じておられます。神の栄光を現す道は苦難を通るのです。それが神の御心なのです。
     そのように命じられた弟子たちのまわりに、ただ主イエスだけが一緒に残られます。主は、弟子たちが混乱した後でともにいてくださるお方です。弟子たちは、当時も、現在も、この困難があるけれど喜びに満ちた弟子としての道を一人で歩むように求められません。弟子たちが福音の声を聞き、その栄光のもとで自らの貧しさ・足りなさを覚える場所こそ、主イエスがともにおられる場所です。主イエスこそが神の栄光の新しい幕屋なのです、いまここに、その主が弟子たちとともにおられる、弟子たちは、その真理をはっきりわかったことでしょう。
     山を下りながら、主イエスは、「復活するまで、起こったことを誰にも話してはいけない」と沈黙を命じられます。弟子たちには、今は、先日聞かされた主の苦しみと死のことしか頭にないかもしれません。しかし、主ははっきりとご自身の復活のことも語っておられました。そのことに心を向けられないでいる弟子たちに、ご自分が人の子として歩むべき道、そして弟子たちが従わなければならない道を教えられます。主イエス・キリストは、苦しみにあい、十字架の上で死ぬことになっていますが、それで終わらずに、復活の命に移されることも約束されていることを明らかにされます。
     もし、人の子が復活するのなら、まず死ななければならない、このことが主イエスの身に起こるのです。弟子たちは、メシアが栄光に入る前に苦しみと死を経験しなければならないのですが、そのことに心の準備ができていないからです。
    なぜ、黙っているようにいわれているのでしょう。考えられるのは、一つには、主イエス・キリストの十字架への道を妨げられないためではないでしょうか。神は、御子を人として世に遣わされ人類の罪を贖うこと、そのための主イエス・キリストの十字架と復活なのです、それだからエルサレムと十字架への道を避けることはできないことです。
    また、弟子たちは、主の歩まれる道に従う者であることを守るため、弟子たちは主イエスの福音を伝える働きのために召しを受けたのです、そして、主イエスの弟子たちへの愛によって交わりに加えられ支えられているのです。そのような立場にある弟子たちなので、ただ主イエスが導くところに従い続けることです。
     主イエスの周りの人も、復活する、ということを、「終わりの日に復活することは知っていた」(ヨハネ11:24)のでしょうが。弟子たちはどうしても十字架と復活があるのか理解できないので、本当にそうなのかと当惑しています。
    主イエスに尋ねます。
     律法学者たちは、エリヤがまず来るはずだと言っている、そうすると、エリヤが来てすべてを元どおりに回復することになるので、「人の子」つまり主イエスが十字架へ向かうことは必要ないことになるでしょう、と主イエスに投げかけているのです。
    これはマラキの預言のことを言っています。「大いなる恐るべき主の日が来る前に預言者エリヤをあなたたちに遣わす。…彼は父の心を子に、子の心を父に向けさせる。わたしが来て、破滅をもって、この地を撃つことがないように。」(マラキ3: 23-24)です。
     主イエスは確かにエリヤが元どおりに回復するために来る、その役割はその通りだと言われます。「エリヤは来た。」弟子たちが希望をもつのは正しいものです。しかし、主の日に最終的な回復が実現する前に、同じように欠かすことのできないことが起こらなければならないのです。弟子たちには歓迎されないものですが、聖書には、同じように重要な別なことが証しされています。「それなら、人の子は苦しみを重ね、辱めを受けると聖書に書いてある(詩編22:2-19、イザヤ53:3-12)」、それはなぜか、と反問を提起されます。
    「エリヤが来て、すべてを元どおりにする、つまり、もし、すべての人々が待ち望んでいる正義と平和がすぐに元どおりに回復されることなら、なぜ聖書は、主の日がやって来て最終的に回復される前に、正義のために苦難を受ける「人」が必ず先立つと証ししているのでしょうか?」と問いかけられます。
     この正義のための苦難を受けるのはだれのことをいっているのでしょう。「人の子」であり、聖書に彼について書かれている、神のご意志がなるということです。
    人の子の苦しみは、主イエスが誤解しているとか神のご意志から逸脱したものではなく、神のご計画であり、主イエスの使命の一部です。「人の子」が「多くの苦しみを受け、拒絶される」というのは、イザヤの「多くの痛みを負い、苦しんでいる」イザヤ53:3、4)という主のしもべを思い起こさせます。
     もしそうなら、主イエスはこの「苦難のしもべ」として召されている、ご自身の「人の子」としての役割はそのことなのだと証ししておられるのです。
    また、エリヤの苦難はどうでしょう。エリヤの苦難というと、当然ながらマタイ17:13で明示されているように、洗礼者ヨハネの死を指しています。ヘロデがメシヤの先駆者(6:14-29)をこのように厳しく取り扱ったのなら、メシヤの運命はこうなるのだと言われているようです。さらに加えて、キリスト者に対するこのような厳しさは、現在、世界では迫害を受ける教会があるのですから否めないことでしょう。
     そうであっても、主イエスに従う弟子としての受けなければならない苦しみは、神から見捨てられるというしるしではなく、むしろキリストの「苦しみにあずかって、」いる「人の子」・主イエスとの交わりの中に主とともにおかれているというしるしです(フィリピ3:10)
    わたしたちは、使徒信条で、主イエスの地上における御業について「主は苦しみを受けた」と告白します。これは重要な真理です。12-13節において、「人の子」主イエスが「苦しみを重ね、辱めを受ける」、その人の子に先立ってエリヤ・洗礼者ヨハネも苦難を受けたことを弟子たち、そしてわたしたちにも示されます。
     その中で「人の子」主イエスは、十字架への道を進んでいかなくてはならないのです。「メシアつまりキリストはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。」とルカ24:26で復活した主イエスは問われます。
    ここにおいて、主の日の、人々に待ち望まれた贖いは、人の子・主イエス・キリストの苦しみを通じてのみ実現されるのです。わたしたちも、このことを、いつも思い起こさなくてはなりません。
     神は、山の上で輝きに満ちた主イエスのお姿を弟子たちの前に表してくださいました。主がこのようにかえられた姿を弟子たちに表すことによって、この主に従う者たちにも、同じようにかえられていくことを約束してくださっています。ここで使われている「変わる」という言葉は、「わたしたちは皆、顔の覆いを除かれて、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます。」(コリント二3:18)というときと同じ言葉です。弟子たち、そしてわたしたちも、信じる者たちが信仰によって天に上げられて高められたキリストを見つめるとき、聖霊が働いて徐々に主イエスに似た者と造りかえられていくということです。そのことを信じて、主に聞き従っていく一人ひとりでありたいものです。

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8月10日の説教から
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  • マルコによる福音書8章34節〜9章1節「わたしに従いなさい」

    2025.8. 10       伝道師 熱田洋子
    マルコによる福音書8章34節〜9章1節「わたしに従いなさい」
    イザヤ書53章1節
    「神の子イエス・キリストの福音の初め。」マルコによる福音書はこの言葉からはじまりました。そして、主イエスの生涯のできごとがしるされてきたのですが、いまや、十字架への道がはっきりとされてきたのです。
     ペトロは、「あなたはメシアです。」とキリスト告白をしました。それに次いで、主は最初の受難予告をします。31節「それからイエスは、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日ののちに復活することになっている、と弟子たちに教え始められた。しかも、そのことをはっきりとお話になった。」のです。主が殺されるのが必至であるとはじめに語られました。その強い衝撃のゆえに、後の復活の約束がかすんでしまうほどですが、刺激・触発されてペトロが即座に主をわきへお連れしていさめたのも、熱情的なペトロらしい振る舞いに見えます。これまでの伝道の最中、力ある主のみ業が次々となされていたのです。一時そこを離れたところで受難予告を聞かされたのですから、弟子たちにとって突発的な大事件に響いたことでしょう。
     しかし、ここで、主イエスはどういうお方なのか、それと共に、十字架の道によってその使命を果たされるキリスト(メシア・救い主)であることがはっきりと伝えられます。事実、主イエスのご生涯の道筋は、一般にユダヤ人が待望していた強者のメシア像に反して、苦難のしもべに等しい者となられ、復活によって栄光に輝くものとなられたのです。
     さらに、イエスをキリストと告白する者に、キリスト者とはこのように生きるものなのだという方向づけが示されます。
     それは、弟子たちだけでなく群衆も共に主イエスのもとに呼ばれて聞かされます。すべての人々に当てはまることを語られるからです。すでに弟子になっている者でも、もし「神のことを思わず、人間のことを思っている」ならば、主イエスが受難のメシア・救い主であることを理解できないでしょうし、神の救いの約束がどのように実現していくのか考えることもできないのです。
     そこで「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」と主イエスは言われます。主に従うとはどういうことなのかを改めて教えられます。特に、これまで主に従ってきた弟子たちにとっては、従うことの本当の意味、これからどうすることなのかが問い返されることになります。というのも、弟子たちは、この直前まで、主の名声が高まる中で、権威ある者のごとく語られるみ言葉をそばで聞き、また奇蹟のみ業を目の当たりにしながらついてきました。弟子として呼ばれ召されたとき、伝道に派遣されるときも主のお言葉どおりに行ってきて、すべて主により頼んでついてきました。主イエスの存在は絶大なものでした。しかし、今や、主はご自身の受難を予告されたのですから、主に従って歩むことはどうすることなのか、一変することになります。
     このとき、十字架の道を歩まれる主イエスについて行こうとする場合には、自分を捨て、自分の十字架を背負って従うように主は言われます。
     捨てるという言葉は、最後の晩餐の場面でも使われています。主イエスはペトロに向かって、「あなたは、今日、今夜、…三度わたしのことを知らないというだろう。」と言われます(14:30)。ペトロは、決して申しませんと言い張りますが、主の言われた通りになり、ペトロは、主の言葉を思い出して泣き出してしまいます(14:72)。「知らない」と訳されていますが、同じ言葉が使われています。ですから、ペトロは主を放棄する・捨てるのです。
     主イエスは、弟子たちや人々に捨てられたといえるでしょうが、何より、主が「自分を捨て」て、父なる神の御心にまったく従われ、キリストとして十字架を負われるのです。
     その主が「自分を捨て…わたしに従いなさい」と言われます。「自分を捨てる」という言葉は、自己放棄とか自己否定という言葉に言い換えられます。これはもちろん自分の命を断つということではありません。自分を捨てるとは、多くの人が持っている自己を高く見せたいという欲望を捨てて、自分を捨ててもいいと思えるほどの何か大きなものとの出会いや神のような存在があることがわかってそのために自分を用いるということです。いま、わたしたちに自分を捨てて従ってくるようにと言われるお方こそ、たった今ご自身の苦難と死を予告された主イエス・キリストです。その方の後に自分を置き、その方に自分をあずけ、その方のお心に従ってすべてを選びとっていく生き方をすること、それが「自分を捨てる」ということです。
     そして、自分の十字架を負うようにと言われます。主イエスにとって十字架を背負うことは、罪人の罪を担って実際に十字架上で死ぬことです。しかし、その主が、従いなさいと呼びかける者たちに「自分の十字架を負う」ように求められるとき、それは、むしろ、主にしっかりと結びついて、救いの恵みの中に生かされていることを示すようにということではないでしょうか。
     パウロは、十字架を負う苦難にみちた伝道の道を歩みました。その中で、主イエスとの結びつきの深さをますます覚えていきました。「だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。…わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高いところにいるものも、低いところにいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。」(ローマ8:35-39)といっています。
     ここでは主と共に生きることが求められているのです。つまり、自分を捨てて主に従って生きようとする時に、自分自身の身に降りかかってくるさまざまな苦しみや困難や戦いから逃げようとせずにそれを受け止め、それらを耐え忍びながら主イエスから離れることなく結びついていくことです。
     自己放棄をして主イエスに従うことは、文字通り「自分の命を失う(自己中心の生き方を捨てる)」ことになるのですが、そのことが逆に「自分の命を救う」ことになるという、信仰の驚くべき事実、逆転がここで起こります。
    「わたしのため、また福音のために」と言われていますから、主イエスとしっかりつながっているかどうかにかかっています。命を救うか、失うかの分かれ道がそこにあります。
     もし、自分の命を愛し、救うために十字架の道を避けるならば、主イエスとの関わりは絶たれてしまいます。そして、再び罪の汚れの中で、神から与えられた本来の生き方を失ってしまうことになります。しかし、十字架を負うことで命(自己中心的な生き方)が失われたとしても、キリストとの交わりにあずかり続けることによって、その命(キリスト者としての生き方)を新たに見出すことができるのです。捨てられ、殺される主イエスに従うことは、復活された主イエスとの関わりを与えられることだからです「わたしたちは、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きることになると信じます。」(ローマ6:8)(洗礼を授けられること)復活された主イエスがいまもわたしたちのためにとりなしていてくださるのです。
     38節に至って、「人の子」という言い方が再び出てきます。31節では、ご自分のことを言い表すのに用いられましたが、ここでは、ペトロのキリスト宣告をとおして、明らかに、主イエスは「メシア・救い主」と等しいものとされています。
    「人の子」主イエスが終わりの日に栄光のうちに再び来られる・来臨されるとき、「わたしとわたしの言葉を恥じる者は、人の子もまた、…その者を恥じる」と告げられます。十字架を負うことは、恥じる(面目を失う)ことでした。ヘブライ人への手紙では、「このイエスは、…恥をもいとわないで十字架の死を耐え忍び、神の玉座の右にお座りになったのです。」(ヘブライ12:2)そのようなお方だから主イエスを仰ぎ見るようにと励まされます。
     主イエスを恥じる者、十字架を負うことをいやがる者を、やがて終わりの時に恥じる、という何か否定的な言い方をされていますが、ここでは、邪悪な罪深い世にあっても、主イエスを仰ぎ見、自分の十字架を負って、主に従うようにと強く促しているのです。そうすることによって、終わりの日、栄光のうちにキリストと共にあずかるのにふさわしい者とされるからです。
     そうすると、来るべき神の国、すなわち神の救いの完成するときが、確実に力をもって到来するのです。しかも、その時に、「決して死なないものがいる」と終わりの日が近づいていることも告げています。それがいつであっても、その時に備えつつ、主イエスに従うものたちが励まされ、慰められることです。
     そのために、十字架の主イエスに支えられ、主イエスに従うことによって苦難をいやがらずに担い、信仰の生涯を全うすることができるようにとの願いがここには込められています。
    十字架を負って進みゆかれる主イエス・キリストが、わたしたちに向かって後に従うことを求めておられます。そういわれても、「十字架を負って従う」ことに、正直、それは無理だと感じたり、またためらう気持ちがあるのではないでしょうか。
     そのような弱いわたしたちに、「…重荷を追う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。…」(マタイ福音書11:28)と呼びかけられます。「わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」(マタイ11:28-30)ここで、与えようと言われる安らぎは、重荷を負う生活の真中に与えられると、重荷を負って前進することができる力になり元気づけられます。それは「くびき」(荷物をひかせるために二頭の牛をつなぐ道具)の片方を、すでに主イエスご自身が分担して、重荷を共に負っていてくださるからです。
     わたしたちには、信仰の道を先立ち行かれる主イエス・キリストがおられます。
     十字架を負って先立ちゆかれる主イエス・キリストは、従うわたしたち、弱さを覚えるわたしたちには、傍らに伴って、わたしたちの負う十字架のくびきを共にされるお方、同行者となってくださるのです。このようにわたしたちをかえりみてくださる主がおられるゆえに、十字架を負って主に従う信仰が尊いものであり、そしてその深い意味もそこにあるのです
    信仰の道を歩むわたしたちは、救い主を証しし、人々の救いのために仕えること、それが自分の十字架を背負い、主に従っていくことです。そのような一人ひとりでありたいものです。
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8月3日の説教から
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  • マタイによる福音書5章1〜11節「平和をつくる人」

    2025.8.3                             伝道師 熱田洋子
    マタイによる福音書5章1〜11節「平和をつくる人」
    イザヤ書9章6節
     8月に入りました。8月は平和を強く思わされ、平和になるように願い祈りあう時です。なぜ、世界に戦争があるのだろうか。なぜ、これほど絶えず国際間の緊張があるのだろうか。なぜ、次の戦争の危険や不幸、混乱、不和が、人々の間にあるのだろうか。とりわけ、ウクライナの戦禍、中東の紛争の解決の道が定かではない中で、わたしたちは平和を求めて祈り続けています。神に祈るわたしたちに、平和について、聖書がどのように語っているのでしょうか。
     マタイによる福音書のこの「幸いの叫び」に示されているのは、神の御前にわたしたちがどのような者であるのかということです。神に従うことのできない、神に背いているわたしたちに、主イエスは、言葉を変え、繰り返し神の御心を教えておられます。こうして、罪深いわたしたちに聖書が教え、求めていることに目を向けさせられます。わたしたち人間のあらゆる問題をつきつめていくと、人間の欲情、貪欲、利己性、自己中心にいきつきます。これが、あらゆる問題の不一致の原因ではないでしょうか。個人と個人との問題にしても、グループや組織の間のこと、国と国や地域相互間の問題にしても、原因はみなそこにあるといえます。したがって、人と罪に関して聖書が示していることを受け入れること、そこから、現代世界の問題を理解していかなくてはならないと、わたしたちは気づかせられるのです。
     マタイ福音書「山上の説教」の教えを読んでいると、今、世界が必要としているのは、平和をつくる多くの人びとです。わたしたちがみな平和をつくる人であったら、問題は起こらないということでしょう。
     神学者カルヴァンは、「平和をつくる人」とは、単に平和を求め、争いを避けるだけでなく、他者との間の違いを解決するために努力し、すべての人々に平和に生きるよう助言し、憎しみと争いの原因をすべて取り除く者を指す、と述べています。これがもっともなものなのか、具体的に考えてみたいと思います。
     平和をつくる人とは、どのような人でしょう。
     平和を好む人であることがまず考えられます。けんか好きな人は、平和をつくる人にはなれないからです。そして、和解をする人であることです。平和を願い、平和をつくり、維持するためにあらゆる努力を傾ける、人と人との間に、グループや組織との間に、国と国や地域との間に平和がなければならないことを知っている人です。すなわち、すべての人は神との平和を持つべきだということに関心を持っている人です。
     平和をつくるということに、どんな意味が含まれているでしょうか。平和をつくる人になれるのは、きよい心の持ち主です、つまり神のものとされていることをたえず覚え、神のみこころを求めている心持ちでいる人といえます。なぜなら、きよい心を持たない人は、ねたみやしっとやそのほかのあらゆる恐ろしいもので心の中がいっぱいになっている人でしょうから、決して平和をつくる人にはなれないからです。
     人が平和をつくる人となるためには、その前に、まず自己から、利己心から、自己関心から、まったく解放されていなければならないということです。自分自身のことを思い巡らし、自分をかばっているかぎり、平和をつくる業を正しく行なっているとは言えないからです。平和をつくる人であるためには、その人は、絶対に中立であることです。そうして初めて、当事者双方の手を握らせることができるのです。極端に、神経質すぎてもいけない、おこりっぽくてもいけない、自己防御の姿勢をとっていてはならない、そうでなければ、すぐれて平和をつくる人にはなれないのです。
     わたしたちは、どんなことでも、すぐにそれが自分にどんな影響があるだろうか、わたしにとって、どんな意味があるのかと考えるのではないでしょうか。しかし、こう考えた瞬間に、そこに戦いが起こります。なぜなら、他の人も皆、同じように考えているからです。これが、あらゆる争いと不一致との理由です。人は皆、自分を中心とした観点から物事を見るものです。「それは、わたしにとって好都合か。それではわたしは、自分の権利義務を守ることができるか」。関心はここにあります。これが、争い、誤解、論争へと導く心であり、平和をつくる人であることと逆になっていきます。
     平和をつくる人についていくつか考えてきましたが、それでは、平和をつくるとは、どのように行動することでしょうか。大切な方法には舌をおさえることがあげられます。「わたしの愛する兄弟たち、よくわきまえていなさい。誰でも、聞くのに早く、話すのに遅く、また怒るのに遅いようにしなさい。」(ヤコブ1:19)たとえば、人に何か言われて、それに言い返したいという誘惑があっても、そうしてはならないのです。また、人に害を及ぼすことがわかっている場合には、人から聞いたことを別の人に伝えてはならないのはそのとおりです。だれかからあなたの友人に関する不親切な告げ口を聞かされた場合、その告げ口を友人に伝えるなら、あなたは真の友ではもはやなくなり、役に立たない・偽りの友情になってしまいます。舌とくちびるとをおさえなければならないということです。しばしばしゃべりたいと感じることはあるでしょう。しかし、平和のために口を開かない。キリスト者の人が「わたしは自分の思っていることを言い表さなければなりません」というのを聞くかもしれません。みんながそうであったら、いったいどうなるでしょう。そうあってはならない、言い訳をしたり、生まれながらの自分の思いのままに語ってはならないのです。わたしたちは、キリスト者として、新しい人として、生きるように定められています。主イエス・キリストに似たものとして造られたのです。平和をつくるために、最初にすることの一つは、語るときを、語ることをわきまえていることです。「舌を悪から/唇を偽りの言葉から遠ざけ 悪を避け、善を行い/平和を尋ね求め、追い求めよ。」(詩編34:14、15)にもあるからです。
     次に、いつでも、すべての事態を、福音の光・み言葉に照らしてみるということです。紛争に発展しそうな事態に直面したら、その事態を取り上げ、福音・み言葉と関連させて調べ、考えてみるのです。「これは、何を暗示しているのか。巻き込まれるのはわたしだけではない。教会はどうなるのか。それに頼っている人びとや外部の人びとはどうなるのか。」このように考え始めることは、平和をつくり出し始めているといえます。けれども、このことを単に自分だけの側から考えている限り、争いは起こります。
     また、「あなたの敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませよ。」(ローマ12:20)という力強いみ言葉が思い起こされます。ここにあなたの敵がいる。彼はあなたに、ひどいことばかり言い続けてきました。確かにあなたは、彼に言い返しはしなかった。自分の舌をおさえてきました。そればかりでなく、「彼の心の中にいるのは、サタンだとわかります。だから彼に言い返してはならないのです。彼をかわいそうだと思い、神が彼を解放してくださり、サタンにだまされていることを気づかせてくださるように、祈らなければならない」と考えるのです。一歩進んで、彼は飢えている(霊的に見てのこと)。物事は、彼にとってうまくいっていない。いまは、わたしの方から彼の救われる方法を求め始めるときだと気づきます。わたしの方から、言い方によっては、身を低くして、彼に話しかける、口火をきること、わびたり、友人になろうと努めたりして、平和をつくるためにできることは、なんでもしてみるということです。積極的に、進んで平和をつくる方法と手段を探してやってみるのです。愛と交わりを呼び起こすため、わたしたちには福音の中にその手段が与えられていると考えてよいでしょう。
     さらには、どこにいても、平和をつくる人として、平和が広がっていくように努力するということです。それは、わたしの思うところによらないのです、人から愛される人となることによって、他人が近づきやすくなることによって、ことさらに偉そうにしないことによって、そうするのです。そうするなら、人びとから、あの人なら、わかってもらえる、キリスト者らしい見方も教えてもらえる、と感じてもらえるのではないでしょうか。そういう人になりたいものです。そして、苦々しい気持ちを持っていた人も、わたしたちを見て、いくらかでも悪かったという気持ちを感じたり、問題を打ち明けてくれるようになったりするのではないでしょうか。キリスト者は、このような人になることなのです。
     まとめてみると、こういった人びとは、幸いであるといわれます。「その人たちは神の子と呼ばれる。」からです。「呼ばれる」とは、認められることです。「平和を実現する・つくる人々は、幸いである。その人たちは神の子と認められる」から。誰が認めるのでしょう。神が、ご自身の子として、このような人びとを認めてくださるのです。それは、平和をつくる人は、神の子であり、その父に似ているということを言っています。神について、聖書は、「…わたしたちの主イエスを、死者の中から引き上げられた平和の神」(ヘブライ12:20)と記します。そして、「平和の神」という言葉は、ローマの信徒への手紙の中で、「平和の源である神があなたがた一同とともにおられるように…」(ローマ15:33)、「平和の源である神は間もなく、サタンをあなたがたの足の下で打ち砕かれるでしょう。」(ローマ16:20)と語られます。そして、「わたしたちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなたがたにあるように。」(ローマ1:7)祈られています。また、(ローマ15:13)にも。
     キリストが人としてこの世に誕生されたことを思い起こしてみます。なぜ神の子がこの世に遣わされたのでしょうか。それは、神が、きよく、正しく、義であり、絶対であり、同時に、平和の神でもあるからです。ここに、神が御子をこの世に遣わしてくださった理由があります。はじめに見たように、世の戦いは、どこから来るのでしょう。人から、罪から、サタンから来るのです。そのようにして、この世に不一致がもたらされました。もし、神が、ご自身の権利と威厳に固執されていたなら、わたしたちは一人残らず滅ぶことになったでしょう。神が御子を遣わし、わたしたちに救いの道を備えてくださったのは、神ご自身が「平和の神」であるからです。平和をつくる人となることは、神に似ることです。御子に似ることです。御子は、「平和の君」(イザヤ9:5)と呼ばれています。
     そして御子が平和の君として何をなさったかは知っておられることでしょう。「キリストは、…神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。…」(フィリピ2:6-7)主イエスは「平和の君」であったから、この世に来てくださったのです。
     御子は、どのようにして、平和をつくり出してくださったでしょうか。「その十字架の血によって平和を打ち立て」(コロサイ1:20)られました。御子は、私たちが神との平和をいただくために、ご自身を与えてくださいました。それは、わたしたちが心に平和を得るため、他の人々との間に平和を得るためです。「実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにして、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し…」(エフェソ2:14-15)てくださった。
     平和をつくる人になるとは、このようになることです。そのことが語られています。キリストは、ご自身を低くして、人間の姿で現れました。そして、十字架の死に至るまで。へりくだられました。それはキリストが、「めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい。」(フィリピ2:4)とわたしたちに教えておられることです。キリストがわたしたちのためにしてくださった神の平和を心に覚え、主に従っていきたいと願います。それとともに他の人も平和を覚える人になってほしいと願い、その思いをもって祈る者でありたいものです。また、そのために一人ひとりが置かれたところで平和をつくる人となれるように主イエスの柔和でへりくだった霊をそそいでください、と祈り続けていきます。わたしたちが、自分を低くして、主イエス・キリストの御足の跡に従っていくとき、わたしたちを「平和の神」の真の子どもとしてくださることを信じます。 

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7月27日の説教から
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  • マルコによる福音書8章27〜33節「あなたはメシアです」

    2025.7.27                                                                              伝道師 熱田洋子マルコによる福音書8章27〜33節「あなたはメシアです」
    イザヤ書53章6節 
     主イエスは、目の不自由な人の目を見えるようにされて、ご自身の力を証明されました。そのことによって、弟子たちの霊的な目が見えるようになり、そしてこれから歩まなければならない道をはっきり見えるように導かれます。
     主イエスは、人々が、ご自分のことをどのような者として受けとめられているのか、弟子たちに問いかけられます。他の人がこう言っていると述べて答えるのは容易なことでしょう。
     エリヤと洗礼者ヨハネは、キリストの先駆者になりましたが、キリストご自身ではありませんね。そうすると、人々は、まだ、だれも主イエスが救い主・メシアであるという真のご性質を想像していなかったということでしょう。それでも、人々は、主イエスが預言者であるというように受けとめていたのです。
     それぞれの預言者は、その働きを振り返ると、神の御名において権威をもって語り、主のみ言葉を伝え、その言葉が確かであることを証ししています。ヨハネは、さばきを語って、人々に悔い改めるように厳しく促しました。エリヤは、荒野から現れ、身を隠したりして、恐れずに奇蹟を行いました。その祈りは新約聖書を読むわたしたちにとっても、祈りが力になることを示しています(ヤコブ5:16-18)。
     個人的には異なっていましたが、それぞれは、主イエスのひととなりの中に、その一部としてあるといえます。ですから、主イエスのみ言葉や御業を理解しようと思うとき、それぞれ預言者によって、神の御心がどのように明らかにされてきたかをまとめて考えていくことが大切です。預言者の働きは、そのとき実現したわけではなく、後になって、主イエスによって成就され、完成されますので、その準備の役割を果たしていると言われているとおりです。
     そこで主イエスはお尋ねになります。「あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」主が本当にお聞きになりたかったのは、世間の評判ではなく、弟子たちの答えでした。他の人々が、主イエスに関心を持ち、聞いたこと、見たことから、ただ主イエスにレッテルを貼っているのとは違って、弟子たちは、主イエスご自身と出会い、主のもとに引き寄せられているのですから、教えに聞き従うことを求められ、やがて、否応なく「命を救うか、失うか」(8:35)の決断を迫られることになるのです。
     わたしたちも、主イエスに従う者、弟子であるということですから、主イエスがなさること、教えておられることにたえず目を向けていくことです。
     ペトロはただちに答えます。「あなたはメシアです。」ペトロは、主イエスを、キリスト、つまり、油注がれた者、すなわちメシアと呼びます。主イエスをキリストと告白することができるのは、御霊がわたしたちの心にうちを照らしてくださるからです。それで、ペトロのうちに聖霊が働かれたということがわかります。「…聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』とは言えないのです。」(コリント一12:3)とあるとおりです。
     主イエスがキリスト・メシアであるという事実は、ペトロだけでなく、弟子それぞれが個人的に気づき受け入れなければならないことです。やがて、弟子たちがそれに耐えられるように徐々に、主イエスのことが明らかにされていきます。「…あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。」(ヨハネ15:16)とあるからです。主は、みもとに招いた一人ひとりをかえりみていてくださいますから、わたしたちも「あなたはキリスト・メシアです」と信仰の告白ができるように導いてくださるのです。さきほど、一緒に賛美した讃美歌526番1節後半「主はわが身の 救い主」これは、まさに信仰の告白です。「あなたは わたしの 救い主です。」と賛美を通して告白しているのです。 
     このとき、主イエスがキリストすなわち救い主・メシアであるとペトロは告白しました。当時、イスラエルの政治的安定を回復し、世界に対するイスラエルの支配を打ち立てるという、ダビデのような国を支配するメシア到来への待望が広まっていました。(詩編18、イザヤ9章、ゼカリヤ4:6-10)メシアの意味合いはこのような政治的なものがあったので、おそらく、主イエスは、ご自身の宣教中には、このことばを積極的に用いられませんでしたし、また、ペトロが口にすることに対して厳しい態度で臨まれたというが考えられます。
     ペトロは、どのように主イエスを受けとめていたのでしょう。メシアには、政治的な支配や解放の意味とともに、神の救いに通じる内容、つまり救世主の意味ももちろん含まれていました。ペトロは、主イエスと一緒に行動しているうちに、そこに救いの御業を見たのです、民を苦しみ、病から救ってくださる、神の人、奇蹟を行う人として認識していたのではないかと思われます(10:47、11:10、12:35)。それで「あなたは、メシアです。」と告白したのでしょう。
     すると、主イエスは、ご自分のことを「だれにも話さないように」と弟子たちを戒められました。なぜ、主は、他の人に語ることを禁じられたのでしょう。ペトロはじめ弟子たちが思っていた主の働きだけでは、主イエスが真のメシアであることを理解できないからです。
     というのは、主イエスは、イザヤ書52.53章に記される苦難の僕と結びつけられた働き、つまり、救い主の働きを担われるからです。主イエスにおいて、神がこの世と民と共に苦しまれ、へりくだって神の御心に従われる、その道を歩むことになるのです。このことは、弟子たちには、まったく新しく、予想できないことでした。そこで、ご自身が「メシア」であるとはどういうことなのかを弟子たちに明らかにされます。
     主イエスが宣べ伝える神の国とその力の秘密は、主イエスのうちに、主イエスと共にあります。しかし、それは周りの人々にはまだ隠されています。そのベールを破るためには、信仰の目がなくてはなりません、信仰によってしか見ることができないのです。そして、弟子たちのように、主イエスを信じ主に従っていく者、その信仰には十字架を担うことが当然に伴ってくるものです。
     31節、「それからイエスは、人の子は必ず多くの苦しみを受け、…殺され、三日の後に復活することになっている、と弟子たちに教え始められた。」ここに、主の十字架の苦しみと死、そして死からの復活の予告が、短く語られます。わたしたち教会の信仰告白にもあることです。
     人の子とは、主イエスご自身のことです。
    「多くの苦しみを受け」ということは、「キリストは御子であるにもかかわらず、多くの苦しみによって従順を学ばれました。」(ヘブライ5:8)このように、主イエスは、人となられて、父なる神のみ心を行われ、十字架の死に至るまで神に従順に従っていかれました。
    「…ことになっている。」という言い方は必ず起こるべきことを言い表しています。これは聖書にあるからです。イザヤ書の苦難の僕の歌、ダニエル書7章、詩編118:22 など。神の預言者や、神から遣わされた者が、悔い改めない人々から迫害を受けるという、聖書に表わされた神のご意志がそこにあきらかにされているからです。
     しかも、そのこと・主が受難の道を歩むことをはっきりとお話になります。つまり、主イエスと、主の弟子たちにとっての唯一の道が十字架への道であることを公言されたのです。
     ペトロは、そのことがまだわかっていないので、主をわきへお連れしていさめはじめます。「そんなことがあってはなりません」(マタイ16:21)というような強い口調で言ったのでしょう。見方によっては、ペトロの主に対する素朴な愛の表れとも見ることができるものです。自分の主であり、先生である方を死なせてはならないと、守ろうとしている、ペトロの姿が見えるようです。  
     しかし、主はそれに対して、厳しい言葉で、「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている。」と言われました。今度は主がペトロをいさめておられます。ペトロに向かって「サタン」と呼びかけられます。ペトロが神の思いに従った道から、それを拒絶しようとしている。それは、神とは反対方向に導こうとするサタンに引きずられているものだから、それは退けなければならない、と主が思われたのです。主ご自身、十字架を避けようとしているサタンの攻撃を受けておられるからこそ、ペトロのこともよくわかっておられるのです。 
     こうして主はペトロを叱ることによって、主に従う弟子なのだから、主に従う者としてふさわしい位置にもどっていなさい、主をいましめる指導者となろうとするな、ということです。「あなたはメシアです。」と告白した主イエスのあとから従っていくことこそ、ペトロのなすべきことです。
     このとき、主イエスが叱って言われたのは、ペトロだけでなく、すべての弟子たちに向けられています。いま、新たに「メシアであるわたしに従いなさい」と主は招いておられます。この弟子たちの群れは、主を信じているといっても、動機も信頼の仕方もさまざまで、常に神の助けを必要とする弱い人間の集まりです。わたしたち教会の群れに対しても同じように、主は従ってきなさいと招いておられるのです。
     このとき、ペトロはじめ弟子たちは、主イエスが民を救ってくださる方だと信じてついてきました、そのキリストが、「苦難のしもべ」つまり、苦しみを受け殺される、ということを理解できませんでした。ある意味では無理も無いことだと思われます。このことをわかるようになったのも、主イエスの十字架と復活の後です。主イエスの十字架と復活に実際に接し、そして、その後、聖霊の導きを受け、あの受難の主イエスこそ、実にキリストであった、そのキリストが、わたしのために十字架に架かられた、そして復活なさった。その犠牲の愛が、どんなに深いかを弟子たちは体験しました。そのことによって、十字架にかかられた主イエスこそ、まことの救い主であることがわかったのです、弱くて、無力だから、主イエスは十字架にかかられたのではなく、全能の神の子・救い主であるから、敢えて、十字架にかかられたことを、弟子たちが理解するに及んで、神の贖罪愛、主イエス・キリストがわたしたち罪人を贖ってくださって神さまのものとされ、神の愛を受けて生きられるようにしてくださった、そのことを経験することができるようになりました。使徒たちつまり弟子たちが「わたしたちは皆その証人である。」(使徒2:32,5:3)と証ししています。そして、わたしたちキリスト者もその証人です。
     わたしたち、主イエスに招かれている一人ひとり、聖書の言葉と聖霊によって、繰り返し、主イエスのみ言葉と働きを通じて、主に出会うことが求められています。そして、「あなたは、キリスト・救い主です。」と告白し、主に従いゆく者でありたいものです。
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7月20日の説教から
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  • 列王記上14章1〜16節「神の怒りを招く」

          伝道師 熱田洋子
    列王記上14章1〜16節「神の怒りを招く」
    テトスへの手紙2章14節
     サウル、ダビデ、ソロモンの各王によって治められていたイスラエルは、ソロモンの死後、息子レハブアムの思慮の足りない行動によっての十二部族のうち、十部族が反旗を翻して、北王国を樹立しました。ネバトの子ヤロブアムがそのリーダーで、独立後、王となったのです。したがって、ヤロブアムは、イスラエル分裂王国時代の最初の王です。
     かつてヤロブアムに十部族の上に立つイスラエルの王位を約束し(王上11:31)、ダビデの家に反旗を翻すように促したシロの預言者アヒヤが再び登場します。今度は逆に、ヤロブアムの王朝の断絶を予告することになります。
    かつて主なる神はアヒヤを通じでヤロブアムに、「わたしはあなたを選ぶ。自分の望みどおりに支配し、イスラエルの王となれ。」(王上11:37)と激励し、しかも、もしヤロブアムが主の命令に忠実に従うなら、「ダビデのために家を建てたように、あなたのためにも堅固な家を建て」ようとまで約束していたのです。
     そのアヒヤの預言の前半は、王国の分裂と北王国の王へヤロブアムが即位してすでに実現しました。そこで次には,アヒヤの預言の後半にあるように、ヤロブアムが主の命令に従うかどうかが問題になります。
     列王記、歴代誌において、ほとんどの諸王たちの業績には「彼はネバトの子ヤロブアムの道を歩み、イスラエルに罪を犯させたヤロブアムの罪を繰り返した」という言葉で総括されています。そこで、ヤロブアムの犯した罪とはどのようなことだったのでしょう。
     ヤロブアムは王となったとき、ヤロブアムは北王国の都をシケム置いてそこに住みます。それまでイスラエルの人々はエルサレムへ行き、そこにある神殿で神を礼拝することを常としていました。それで、当然、人々はエルサレム神殿で礼拝をささげることを続けたかったのです。しかし、ヤロブアムの心は、この民がいけにえをささげるためにエルサレムの主の神殿に上るなら、この民の心は再び彼らの主君、ユダのレハブアムに向かい、わたしを殺して、帰ってしまうだろう(王上12:26/27)、と思ったのです。そこで、ヤロブアムは、エルサレムに対抗する聖所としてベテルとダンに神殿を築き、民には、礼拝を守るためにエルサレムへ上る必要はない「見よ、イスラエルよ、これがあなたをエジプトから導き上ったあなたの神である。」といって、金の子牛を二体鋳造し神殿におき(王上12:28)、かつてエルサレムでやっていたのと実際同じことをこの金の子牛に対してできるのだと民に勧めたのです。
     ヤロブアムの罪とは、神への信仰を捨てる罪ではなく、むしろ、神を信じてはいるのですが、神のご命令を自分の都合の良いようにわざと緩め、形を変えさせてしまう罪です。神がいかにして礼拝すべきか示しておられるのに、そのご命令を無視して、それに代えて、自分自身の計画や目的に合うように、自分で礼拝の仕方を考えて、それを民に押し付けたということです。
     けれども、幼いわが子が病気になった時に、神が求めておられる礼拝の仕方を思わされることになります。そこで、ヤロブアムが神の前にどうあったか、真実の姿がさらけ出されます。ヤロブアムは聖所をおいたダンにもベテルにもいかなかったのです。二体の金の子牛のどちらのところにも赴かなかったのです。
     なぜでしょう。自分が建て上げた聖所、神殿で礼拝するように民衆には強いても、それが空しい虚構で何の役にも立たないことを知っていたから、鋳造した二体の金の子牛が人の命を助けることなどできないと知っていたからです。
     そして代わりに、妻を預言者、自分に王になると告げたその人のもとに遣わします。
    選んでくださった神、すなわち、わたしたちの神は、主の戒めに聞き従い、主の道に歩み、主の目にかなう正しいことを行うように願っておられるのに、ヤロブアムの態度には、神を侮辱し、自分自身をあざむいていることがみてとれます。
     わたしたちは神を信じ、救いを願います。そして、困難が生じると神に向かいます。聖書を読み、愛について、憐れみについて言わねばならないほどのことを信じています。神の寛容や赦しを受け入れ、天国に行きたいと思い、神のもとに近づきたいと願っています。聖書が語る重要なテーマについては受け入れています。しかし、同時に、聖書が語る真理、義、聖さについて、‘聖なるものとなりなさい’というような奨めや、戒めに従うように促されることはすべていやがるのではないでしょうか。神を信じてはいても、それは自分なりのやり方、自分なりの考えによることでしょう、聖書を読みますが、そこから引き出すのは自分に都合の良いことばかりということになっていないでしょうか。
     それではヤロブアムのように、神を礼拝していると思っていても、それは、自分なりの仕方であって、神の望まれるような仕方ではないかもしれないのです。物事がうまくいかなくなると、いつでも神を思い出し、祈ります。しかし、順調にうまくいっている時には、神のことなどきれいに忘れ、聖なる者へと導かれることなど自分たちの心の底に閉じ込めてしまいます。
     神の語っておられることを、わたしたちなりに考えて、あるものを重要で正しいとみなし、あるものをたいしたことではないとみなすこと、こうしているうちに、心の底の底では、何が真実で正しいのかを知っていながら、わざと誤ったことを行い、自分自身に対しては、これで何も問題などないと言い聞かせているのです。
     このとき、ヤロブアムが自分を欺いていたことも明らかです。アビヤの病気を前にして、ヤロブアムは、自分が作り出した神殿、金の子牛のもとで礼拝するやり方など役に立たないことをよく知っていました。でも、何とか愛する息子を助けたかったのです。そこで、意を決して、妻を預言者のもとに遣わしました。自分では行かなかったのです。
     それは、どうしてでしょう。このとき、妻を貧しい人に変装させ贈り物をもたせました。自分の今を預言してくれた預言者が、ヤロブアムの妻だと気づいたとき、何と言われるか恐ろしかったのです。ヤロブアムは自分の知恵を過信していたのです。事実、ヤロブアムがだますことができたのは、他ならぬ自分自身だと気づかねばなりません。
     この預言者は、まだ、ソロモンが生きているうちに、ヤロブアムに対して将来イスラエルの王となることを予告した(11:31)、それほど未来を見通すことのできる人物です。神の力によって未来を読み取り、何か起こることを告げることのできる奇蹟的な力をもっています。そう考えておきながら、ヤロブアムはだますことができると思ったのも愚かなことです。それはわたしたちにも言えることではないでしょうか。人間は何と愚かなもので、いかに自分のことを賢いと思い込んでいることでしょうか。
     わたしたちは、神のおきてをいいかげんに扱い、人生を自分の好きに生きられると思っているものです。そうしていながら、人生の危機が迫ると、そして最後にいたって神を必要とする最悪の時にだけ、神に向かおうとします。神をだませると思い込み、「というのは、神の言葉は生きており、力を発揮し、どんな両刃の剣よりも鋭く、精神と霊、関節と骨髄とを切り離すほど刺し通して、心の思いや考えを見分けることができるからです。更に、神の御前では隠れた被造物は一つもなく、全てのものが神の目には裸であり、さらけ出されているのです。この神に対して、わたしたちは自分のことを申し述べねばなりません。」(ヘブライ4:12-13)このことを忘れてしまってはいないでしょうか。
     わたしたちは、神を信じますと言います。神が全能であり、絶対者であられると告白します。それでいて神に従わないのです。ヤロブアムは、その点で罪を犯しました。神は全能のお方で、わたしたちのすべてを知っておられます。
     また、ヤラブアムは自分のはずかしさを感じたでしょう。息子の病気が深刻になった時、自分がしてきたことに直面させられました。一連の行動がいかに役に立たないものだったか気づかされ自分が嫌になったのではないでしょうか。それもあって、神の人に直接会うことに恐怖心、何と言われるか、と恐ろしかったということではないかと思います。
     妻は、災いと嘆きに満ちた恐るべきメッセージを持ち帰ります。息子アビヤは死に、ヤロブアムはすべてを失うことになります。
     わたしたちも苦難や問題の中で神に向かいます。自分のやりたいように生きてきたことを考えて、都合の良い時だけ神に立ち返り、自分を喜ばせるためにだけ、自分の便利のためにだけ、神を用いようとしているなら、愚かな者ではないでしょうか。
     とはいえ、他に助かる手段はまったくなく、神にすがることしかないことをわかっています、ヤロブアムのように。神の力を知り始め、自分の罪を自覚し始めています。あまりにもおそまつで見下げ果てた自分の行いは罰に値すると認めなければならないと感じるのではないでしょうか、そのことなしに、あるいは、恐れやはずかしさなしに、生きておられる神の御前に願いをもって立つことのできる者などいないのです。
     ヤロブアムは悔い改めることはついにしませんでした。もし、彼が悔い改めて、自分自身で預言者のもとに出向き、自らの罪と愚かさと恥とを告白したなら、まったく違った結末を迎えたのではないかと、推測することはゆるされると思います。
     しかし、わたしたちの場合に言えることは推測ではありません。わたしたちが、神に従えなかったことを心から認めて、はずかしさと悲しみの思いで神に告白し、神の憐れみにすがり、罪を告白します、赦してくださいと願い求め、悪しき道、背きの道を捨て去り、ただ神に喜んでいただけるように生きます、と約束するなら、その時、神は、わたしたちを受け入れてくださいます。そればかりではありません。無限の赦しをもってわたしたちを赦してくださる、限りない恵みを注いでくださいます。
     そのように確かに言えるのは、わたしたちには、神のひとり子、主イエス・キリストがおられるからです。主イエスはこの地においでくださり、人として生きられ、十字架で死なれましたが、よみがえってくださいました。わたしたちを罪から贖い出し、赦し、自由を与えるためにです。
     イエス・キリストがいのちを投げ出してくださったことにより、わたしたちの罪が赦される道が開かれ、天の国への希望が与えられました。それだけではありません。「キリストがわたしたちのために御自身を献げられたのは、わたしたちをあらゆる不法から贖い出して清めるためだったのです。」(テトス2:14)
     すべては十字架にあります。讃美歌142番にそのことが見事にうたわれています。
    十字架を真摯に見上げ、その意味を考えてこの讃美歌を心から賛美できるでしょう。
     わたしたちは、神が命じておられる聖い生き方を嫌い、神のおきてを無視し、他のものを求め、心をひかれ・とらわれるものがありがちです。しかし、こうした一切、自分が大切に思っている物事を十字架の光に照らして見つめ直してみたらどうでしょう。
     それらがいかに空しいことか気づくのではありませんか。そうしたことを後生大事にし、神とその聖いみこころと取り替えてしまっている、そこにあるのは、わたしたちの真の姿、罪深い姿です。
     イエス・キリストは死んでくださった。すべてをわたしたちに与え、ご自身すら与えてくださった。キリストは、わたしたちを救い、新しく造り替え、神と和解させてくださるために死んでくださった。
     5節で、うたわれている応答以外の応答などはたしてあるでしょうか。
     わたしたちの魂、わたしたちの人生、わたしたちのすべてを、神におささげする一人ひとりでありたいものです。

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7月13日の説教から
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  • マルコによる福音書8章22〜26節「はっきり見えるようになった」

    2025.7.13
          伝道師 熱田洋子
    マルコによる福音書8:22〜26「はっきり見えるようになった」
     この前のところでは、弟子たちは自分たちの当面の肉の糧・パンの必要に心を奪われていましたので、主イエスは、「まだ、分からないのか。悟らないのか」と問いかけられました。いまや、弟子たちは信仰に至るために霊的な真理の目が見えるようになることが必要です。
     そのような弟子たちのために主がなさることがここで具体的に示されます。ベトサイダとありますが、弟子の一人ペトロの郷里(ヨハネ1:44)ですから、そこで起きたこととして伝えられたのかもしれません。
     人びとが一人の目の不自由な人を主イエスのところに連れて来て、触れていただきたいと願いました。主イエスのところに、いやしてもらいたいと、誰かがいやしの必要な人を連れて来るという話は前にも記されています。触れていただきたい、主が触れるといやされると信じていたのです。つまり、ここには、目の不自由な本人はもとより、周りの人々のそのような信仰も含まれているということでしょう。ここでも主が引き受けてくださったのですから、わたしたちも、誰かのいやしのために主にお願いすることはゆるされているということです。肉体的に病に苦しむ人びと、また、霊的に目の開かれていない人のためにも、わたしたちも神に執り成しの祈りをすることを怠らないようにしたいものです。そのとき、その祈りが主のもとに引き上げられ、願いが受け入れられることがここからも保証されているのだと思います。
     そこで、主は、この人の手を取って、村の外へ連れ出します。主がなさることを理解できるように連れて行かれたのでしょう。その人が主の御業を受け入れるためです。主の仕草は、前に見たように(7:33)、「開け」という思いをもって、その人の目に唾をつけ、両手をその人の上に置かれたことでしょう。それから、「何か見えるか」とお尋ねになりました。
       すると、この人は、見えるようになって、「人が見えます…」と答えます。この人は、見ることができるようになった、つまり、視力が回復してきたのでしょう。そして見ていたが、ぼんやりとしていながら、「人が見えます。木のようですが、歩いているのがわかります。」というのを聞くと、見えることが十分正確に伝えられています。そこで、主はもう一度両手を目に当てられます。
       主イエスが繰り返しその御業をなさって初めて、この人の目ははっきりと開かれます。いやしが徐々になされたことが伝わってきます。「その日には、…盲人の目は暗黒と闇を解かれ、見えるようになる。」(イザヤ書29:18)このことが現実となったのです。その人がはっきり見えるようになった目で最初に見えたのは主イエス・キリストだったでしょう。
     この箇所には、「見えるか」に始まって、24節「見えるようになって」、「見えます」、25節「見えてきて」、そして「よく見えてきて」、「はっきり見えるようになった」と、「見える」ようになっていく様子を言い表すのに
    工夫されていることが感じられると思います。この言葉遣いはマルコ福音書に特有の箇所の一つと言われます。段階を踏んで変わっていく様子が、あることを象徴しているからです。
     「何か見えるか」と尋ねられたのは、17節主イエスが弟子たちに「分からないのか。悟らないのか。」と問いかけたことばを反響しているように聞こえます。主イエスが目の不自由なこの人をいやされたように、弟子たちの信仰の目も開かれていくことにつながっています。
     つまり、「目があっても見えないのか。耳があっても聞こえないのか。」と言われた弟子たちでしたが、主イエスによって、信仰の真理の見えなかった者からはっきり見えるように変えられていく、そのプロセスがここに始まっているのです。
     ベトサイダでなされた目の不自由な人のいやしは、福音書で唯一、段階的に行われていきます。この奇蹟は即座に効果を現さないのです。主イエスは、なぜ両手を二度その目に当てられることが必要だったのでしょう。このいやしが、いかに困難なものだったからでしょうか。そうではないでしょう。それは、この人が完全にいやされるまで、主がいやしの御業をやめられなかったということです。「あなたがたの中で善い業を始められた方が、キリスト・イエスの日までに、その業を成し遂げてくださる」(フィリピ1:6)と、パウロも確信しています。
      その当時、目の不自由な人の置かれていた生活がどのようなものだったでしょう、いろいろな面で周りの人々からも疎外されていたのではないかと考えられます。前の時も聖書からみたところですが、主イエスは、生まれつき目の見えない人を見かけられたことがありました。そのとき、弟子たちから「…目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。」と尋ねられたのに答えて「本人、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。」(ヨハネ9:1-3)と言われたことを覚えておられるでしょう。この人の上に、主イエスの愛の業がなされます。それは一方的な恵みの業です。そしてまったくいやされて帰っていくことができる者とされたのです。
       主は、この人に「何か見えるか」と尋ねられたのも、まだこの人にいささか信じることが十分ではないと受け止められたように思われます。それは弟子たちの様子と重ねているようです。弟子たちはそばにいて見聞していても、主のみ言葉と御業を、まだぼんやりとしか見えていないのです。
       まだ、弟子たちは、主イエスがどのようなお方で、どのような道を歩まれるのか、十分に理解していません。そのような弟子たちにこそ、主イエスによって、再び手を当てていただく必要があるということです。そして主イエスをはっきりと見ることができるようになり、弟子としての生き方を学んでいくためです。主は弟子たちが信仰に至るように進めていかれます。
    「目があっても見えない、耳があっても聞こえない」と言われる弟子たちも徐々に、主の真の働きを見たり聞いたりできるようになるのですが、それは自分たちの力では起こりません。肉体の視力も、霊的な視力も、それを回復させるのは人間の能力ではなく、まったく神の贈り物です。この人の目がはっきり見えるようになるのは段階的に行われていきましたが、それも主イエスが繰り返し触れられた御業によってです。それは、弟子たちにも当てはまります。主から「心がかたくなになっているのか」と言われたときは、まだぼんやりしたままであったでしょう。
       このときは、弟子たちは主イエスが救い主としてこの世に来られたことをまだ理解していないからです。まもなく主が十字架の道を歩まれるのが分からないのです。
    この箇所は、マルコ福音書の分かれ目になるところです。16章の中間にあって、内容でいうと、これまでは主がなさったことを中心に記されてきました。神の子イエスが神から遣わされた方であることを明らかにしています。この後は、29節でペトロの「あなたは、メシアです。」という信仰告白があって、それに続いて、主イエスの死と復活の受難予告が31節とそれに続いて2回(9章31節、10章33節)繰り返されて十字架の死へ向かっていくのです。それによって主がどのような意味で救い主でおありになるのかが明らかにされていきます。
       このいやしは、弟子たちに大きな印象を与えたことでしょう。
    やがて、主の十字架と復活において、弟子たちは、このベトサイダの人のようにはっきり見えるようになりますが、それは神の恵みによって、弟子たちの信仰の視力が回復していきます、つまり信仰が成長していく過程を通じてようやくわかるようになるということです。
    26節、イエスは、「この村に入ってはいけない」と言って、その人を家に帰された。」この箇所は、「村では誰にも語ってはならない」という読み方もできるといわれます。同じように解釈して良いと思います。
       いずれにしても、目が不自由だったこの人が、いやされて願うのは家族の家に帰ること、そして社会へ復帰することでしょう。それなのに出身の村に入ってはいけないと言われたのはどうしてでしょう。以前にも、いやしの出来事でいやされた人に、主がこのことを誰にも言わないように口止めされたことがあります。しかし、それが守られることは決してないことを主は知っておられたのではないでしょうか。肉体になされたいやしの奇蹟は得難い知らせですが、良き知らせ、すなわち福音ではないでしょう。それで言い広められるのをやめさせようとされたのではないでしょうか。福音は、主イエスを通して与えられるみ言葉とともに伝えられるもの、そのみ言葉に従うようにと主イエスの招きと共に生じるものです。これこそが宣べ伝えられなければならない奇蹟なのです。ですから、主は単に奇蹟だけを行う者として知られることを望んでおられなかったのです。
       読んできて分かるのは、弟子たちは主イエスのみ言葉と御業を見聞きしながら、主でなければできない働きのことが段階を追って分かるようになり、真の主に近づいていきます。わたしたちは主イエスが救い主であり、神の御子であることを覚えても、現実の生活の中で信仰をもって生きる上では弟子たちの姿とそれほど違わないように思います。わたしたちが生きるこの世はさまざまなまどわしがあって主を信じる思いがゆがめられてしまうことがありえるからです。主の御心がわからず、素直に従えない、背きそうになる、そのようなとき、主から「まだ分からないのか」と言われることがあるでしょう。そのように言われる主は、それをきっかけにして、わたしたちの信仰を次の段階に進ませようとしておられるのです。主の思いが分かるように、導きの手を置いてくださいます。
       主は憐れみ深いお方です。そのとき、わたしたちの心に聖霊が働きかけてくださって信仰を少しずつ深めていくことができるのです。導いてくださる主を信じて従っていきたいものです。わたしたち一人ひとりの上に、主の愛の御業、恵みの御業が与えられますように。


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6月29日の説教から(抜粋)
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  • マルコによる福音書8章1〜10節「人びとがかわいそうだ」

    2025.6.29       伝道師 熱田洋子
    マルコによる福音書8:1〜10「人びとがかわいそうだ」
     パンの奇跡が二度目に出てきます。前回は「五つのパンを五千人に裂いたとき、集めたパンくずは十二の籠にいっぱいになった」(6:30-44)のでしたが、今回は、七つのパンを四千人に裂いて配ったら、残ったパンくずを集めると七つの籠にいっぱいになった」というのです。二つの出来事は大変にかよったところもありますが、違うところもいろいろあります。それにしても二度も出てくるのですから、食事ということが大事なことを主イエスご自身も大切なことと考えておられたのではないでしょうか。
     今回の出来事は、ゲネサレト湖の近郊のこと、前の時とは違ってユダヤ人と異邦人が混在して住んでいたので、異邦人にも福音を伝えられていったということです。
    そこに大勢集まっていた人びとはどういう人だったのでしょう。一部の人は近くの村から来ていましたが、他の人びとは遠くからやってきていて帰るためには長い距離を戻らなければなりませんでした。それでも、この人びとは、もう三日間も主の説教をまずもって熱心に聞き続けていたのです。
     主はある所で、「あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ。」(ヨハネ6:26)と言われたことがありましたが、この人びと、単に主イエスが与えてくださる食べ物を求めていたのではないことは確かです。そうではなく、この人びとは、空腹になった頃に食物を与えられただけでなく、み言葉の糧を与えられました。「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。」(マタイ6:33)ということを自分の身に実感することになりました。主イエスは肉体のパンにも心を寄せられ、奇蹟を行われて、人びとが第一に求めなかった食物を与えようと思われたということでしょう。
     その人びとに対して、食べ物がない状況を主は「かわいそうだ」と感じられたのです。それは、五千人のパンの奇跡の時、大勢の群衆を見て深く憐れまれたことと同じ言葉遣いです。主イエスは、だれかが寒さや空腹、病気や悩みに苦しんでいるのをご覧になると、お心が愛と憐れみをもってその人に向けられることがわかるのではないでしょうか。この純粋な、やむにやまれぬお心のうちの思いは、「キリストの愛」です。それは、わたしたちの中にも働くことになるのです。「キリストの愛がわたしたちを駆り立てている。」(コリント二5:14)といわれるように「キリストの愛」によってわたしたちも奉仕へと導かれていきます。
     だからといって、主イエスは、イスラエルのすべての病人を奇蹟によっていやそうとしたものでもなければ、すべての飢えた者を養おうとしたのでもないことがわかります。主の働きは、一貫して神のご計画に従って行われ、御心にかなったものとして進められていったからです。
     主イエスは、「人々を空腹のまま家に帰らせると、途中で疲れ切ってしまうだろう」と言われ、今回は自ら、弟子たちにパンを手配するように求めておられます。人びとの様子を見て、何も食べる物がなかったので、このように察知されたのも主イエスです。弟子たちの態度は前の時と同じように主に促されてようやく動きだします。弟子たちは、「こんな人里離れた所で、いったいどこからパンを手に入れて、これだけの人に十分食べさせることができるでしょうか。」と戸惑って答えます。ですが、この言い方は、「…これだけの人に十分食べさせることができる者は誰か?」と訳すことができます。そうすると、この問いかけに答えられるのは、もちろん、人びとを満たすことができるのは主イエスをおいてほかにはおられません。
     しかし、主を前にしての弟子たちの様子を見ると、弟子たちは人間的なとらえ方でしか物を考えていないことが明らかです。弟子たちは当惑しています。自分たちはパンを非常にわずかしか持っていなかったからです。ここでも主イエスのことを考慮に入れていませんでした。五千人のパンのときどうなったのか学んでいないようです。前の奇蹟は弟子たちに何の印象も残さなかったかのように、弟子たちの態度は少しも変わっていません。彼らは依然として主イエスの思いやどうなさるのか理解できなかったことが明らかです。
     主に命じられてパンを集めると、七つありましたし、小さい魚が少しありました。主イエスは、パンを取り、感謝の祈りを唱えて、これを弟子たちに配らせます。ここで使われている言葉から伝わってくることがあります。主イエスは、「七つのパンを取り、感謝の祈りを唱えてこれを裂き、人びとに配るようにと、弟子たちにお渡しになった。」弟子たちは群衆に配った。また、小さい魚が少しあったので、賛美の祈りを唱えて、それを配るようにと言われた。
     ここで主イエスがなさったことから二つのことがあげられます。
     まず、「配る」という言葉が重ねて言われています。実際に配るのは弟子たちなのですが、主イエスご自身が、空腹で倒れそうな人びとのために生命の糧をもって執り成しておられる、憐れみのお心がここに強調されているように思います。というのも、この「配る」という言葉は、食事を供して厚いもてなしをする意味合いを持って使われる言葉だからです。
     また、このとき、「七つのパンを取り、感謝の祈りを唱えてこれを裂き、人びとに配るようにと、弟子たちにお渡しになった。」このように、主イエスは、感謝の祈りを唱えて、パンを裂いたのです。このやり方は、コリント一11:24の主の聖餐と正確に一致しています。パンの奇跡の出来事も、聖餐という聖礼典のもとに見られるのです。つまりは、主イエスの贖罪によって与えられる救いこそ、真の生命の糧であり、来るべき神の国の食卓において配られた食物をもって満たされるしるしであるということが、ここからもわかるのです。
     群衆に食物を供える奇蹟は、旧約聖書以来の馴染み深いテーマです。出エジプトの折には、荒野で‘マナ’と‘うずら’とをもって、神はイスラエルの先祖を養われました(出エジプト16:1-36)。また、パンを取る、感謝する、祝福するという言葉は、主イエスの当時においては過越際を思い起こさせるものであったでしょう。そして、神の国での食卓というイメージは主イエスのたとえ話にもユダヤのラビたちの話にも出てくる‘終末の期待’の具体的な表現であったのです。そのときに、お腹を空かせた人びとが食べて満腹したというのですから、主イエスが配ってくださった食物がどれほど恵み豊かなものであったかがわかるというものです。それを人びとは食べて満腹したが、残ったパンの屑を集めると、七籠にもなったのです。
     パンの奇跡を主イエスは天の父に願って行われました。そこに主のこの世に遣わされた使命があることが伝わってきます。主は、父なる神はどのようなお方なのか、恵み深いお方であると、神の愛を伝え、罪人を救い、神の国の食卓に招いてくださる神であることを告げ、示し、触れさせるために、このようになさったのです。そして、主イエスは、ついには、十字架に架けられ、罪人のわたしたちのために犠牲になられる、そこまでご自身をささげられた主イエスの生き方がここに表されています。
     このとき集まった人びとの姿は、現在のわたしたちの姿と無関係ではないのです。信仰生活においても霊的飢え渇きのために疲れきってしまうのではないかという人びとがわたしたちの周りにもいることでしょう。そこから救われ、満たされ、恵みにあふれて家路につくことができるように、つまり人生のあゆみを続けることができるように主の福音を伝えていくことが求められているのです。そのことを教会の働きに関わって考えさせられます。
     わたしたちの周りにも霊的パンに飢えている人びとがいることでしょう。み言葉を聞いても恵みに満たされない、霊的に飢え渇いている、主を求めても平安が与えられないと、満たされない思いの方もおられるでしょう。あるいは、わたしたちにも、そんなときがあるかもしれません。
     礼拝において、説教において、聖餐において、この主イエスが配ってくださる霊の糧を満喫していないとしたら。教会の働きはどのようなものでしょう。
     わたしたちは、弟子たちのように「こんな人里離れた所で、誰が満たしてくれるだろうか?」とつぶやきそうになるものです。しかし、主イエス・キリストは教会のかしらです。「空腹のまま家に帰らせたくない」といわれる憐れみ深い主がおられます。主は、お腹を空かせたものが食べて残るほどに満腹させてくださることがおできになる方です。
     わたしたちの教会も、主イエスが配ってくださるパンの奇蹟を覚え、霊の糧で教会とわたしたちを満たしてくださるように祈ることです。何より、礼拝を、説教を、聖餐を、主が教えてくださったように正しく行っていく教会であるように主の導きを祈り求めていきます。そのようにして、主を証しし、神の恵みの御言葉を正しく語り伝えていくことができますように心から願います。
     主イエスの配られた恵みは豊かです。十字架の恵みを無駄にしないようにしていきたいものです。
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7月6日の説教から(抜粋)
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  • マルコによる福音書8章11〜21節「まだ悟らないのか」

    2025.7.6                                                                               伝道師 熱田洋子マルコによる福音書8:11〜21「まだ悟らないのか」
     弟子たちの無理解に加えて、今回はファリサイ派の人びとの不信仰が取り上げられます。ファリサイ派、つまり律法を大事としている人びとが来て、主イエスを試みます。この人々も、直前に行われた四千人のパンの奇蹟のような、すでにガリラヤで行われた奇蹟のいくつかを聞いていたに違いないのです。その場で主イエスは、言葉と行いにおいてご自身のうちにもっておられる神の権威をあらわされているのですが、しかし、ファリサイ派の人びとは、主イエスのみ業を、律法の枠の中で理解しようとします。天からのしるしを求める、すなわち神の権威がその主イエスの言葉と行いに示されているか議論をしかけたということでしょう。天からのしるしが主イエスにおいてすでに与えられているにもかかわらず、そのことを見ても理解し受け容れようとしなかったということです。
     このさまを見て、主イエスは、信じようとしない人間の傲慢さに対して怒りを口にされます。創造主である神のご意思によってなされる神の業を、人間が自由にできると思い込む傲慢な思いがみられたからです。そして、世においてそれが人間社会に悲惨な出来事をもたらすことになっているように思われます。神ならぬ者が神を僭称し、そのように振舞う際に、繰り返し起こっている歴史が今に至るまであるのではないでしょうか。
     しるしは、キリストご自身、あるいは、終わりの出来事(マタイ24:3、30)、あるいは神の権威を証明することです。そのような「しるし」は、人びとが求めることで決して与えられるものではなく、神の側からそうされることによってのみ与えられるものです。この人々は主イエスに対して不信仰を現します。このとき、主イエスは「しるし」を示すことをなさらずに、この人々をそのまま後に残します。
     これとは対照的に、キリスト者にとっては、「信じることは、見ることである。」といわれます。ヘブル11:1「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。」信仰の目は、未来において実現することを、今ここで実際に存在していることとして見ているのです。ペトロはこの後、状況が変わらないにもかかわらず、主を信じる信仰を告白することへと導かれていきます。
     舟に乗り込むと、主イエスと弟子たちのやりとりが始まります。主は、「ファリサイ派の人びとのパン種とヘロデのパン種によく気をつけなさい」と弟子たちを戒められました。 弟子たちはパンを持ってこなかったので、自分たちの配慮の足りなさに主イエスからお叱りを受けたと思ったかもしれません。しかし主イエスはそのことを戒められたのではなかったのです。そうではなくて、ここでは弟子たちの信仰の足りなさを見て戒められたのです。
     「パン種」は、普通のパンに用いられるパン種という本来の意味のほかに、一般のユダヤ人は、堕落させるもの、汚すものの源と考えていたようです(ガラテヤ5:9、コリント一5:6-8)。旧約聖書の宗教的祭りには種入れぬパンを用いること(レビ記2:4)が記されています。また、パウロの手紙の中には、過越を祝う前にパン種を取りのぞくユダヤ人の習慣に言及ふれて「古いパン種を取り除きなさい」(コリント一5:7)とあります。そこから類推すると、「パン種」は神の奉仕には何かふさわしくないものです。その「パン種」を主イエスがこのとき象徴としてつかわれています。それは、天の御国についてのたとえにあるように、単に目に見えないけれど危ういものが影響力を持って広がること(マタイ13:33)を示しています。
     このとき、弟子たちの小さな群れ、当時の初代の教会に影響を及ぼすような危険とはどのようなものだったのでしょう。ファリサイ派の人々のパン種とは、宗教上の偽りの教えと偽善的な態度によって、人々を真の神から引き離そうとする勢力を示しているといってよいようです。弟子たちがそれに引きづられないようにと配慮されて、主イエスは鋭く注意し、警告されたということでしょう。キリスト者と教会の歴史をみると、それぞれの段階において、危険の源と性質は変化するものですが、危険それ自体は継続しています。そうすると、世にあるわたしたちは、真の神から離れないために、主のみ言葉にあるように常に目を覚ましていることが必要です(14:38)。
     このときも、たとえの意味を弟子たちは理解していません。主イエスはこのようなパン種のことを言っておられるのですが、弟子たちはこの世のパンのことしか頭にありません。わたしたち人間の日常的な有様はそうなのです。主イエスは、弟子たちのパンを持っていないことをまったく問題にされません。そうではなくて、弟子たちには信仰と霊的に認識する力が欠けている、そのことによって議論していたと戒められたのです。主イエスはこのことを憂えたのです。
     以前、弟子たちを伝道旅行に送り出すときにパンも持って行かないように(「パンも持たず…」(6:8))と言われました。それでも弟子たちの肉体的な必要は満たされたはずです。そのときの経験さえ、身についていなかったのではないでしょうか。
     このような弟子たちの姿に気づいたので主は言われます。「まだ、分からないのか。悟らないのか。心がかたくなになっているのか。…」もう一度4:11-12の言葉を思い出させます。「あなたがたには神の国の秘密が打ち明けられているが、外の人びとには、すべてがたとえで示される。それは、『彼らが見るには見るが、認めず、聞くには聞くが、理解できず、こうして、立ち帰って赦されることがない』ようになるためである。」と言われています。
     そして、この言葉は五千人のパンの奇蹟の後で言われた言葉「パンの出来事を理解せず、心が鈍くなっていたからである。」を裏付けるものです。
    「心がかたくなになっている」と「心がにぶくなっていた」とは原典では同じ言葉が使われています。心がかたくなになっているとは、キリストのみ業を深く考えていないことで、心の鈍さをパン不足の不安と結びつけているのです。弟子たちのこのような心の状態は不信仰といえるものです。主イエスは、ほかのところ、安息日に手の萎えた人をいやされるときに、批判的な目で見ていたファリサイ派の人びとに怒りの思いで、そのかたくなな心を悲しまれたのです (3:5) 。同じことばで弟子たちにも指摘されています。
     かたくなな心は、隣人を愛し、隣人に関心を持つ情熱も失われて、他者から愛されることをも期待しなくなる、そのような心でしょう。さらに自然界からも人間社会からも心を閉ざしてしまうことになりかねないのです。そうなると、神がわたしたちに語りかけていてくださる究極の言葉・救いのみ言葉に聴くことも、救いの時と出会うチャンスをも失うことになるということです。目があっても見ず、耳があっても聴こうとせず、体験しても記憶に留めようとしないからです。弟子たちの理解は群衆とほとんどかわらないのです。
     18節のことばは、4:12で、神の国の救いから外れている「外の人びと」について言われているのと同じ『彼らが見るには見るが、認めず、聞くには聞くが、理解できず』という言葉が、ここに加えられています。もう一度、五千人のパンの奇蹟のとき、四千人のパンの奇蹟のときのことも、思い出しましょう。そのとき、神は、ご自分でおできになるあらゆることをなさいました。何千人もの人に食物を与えられました、弟子たち、すなわち、不信仰から無理解で、信仰の目が見えず、信仰の耳が聞こえない弟子たちのために骨を折られたのです。
     弟子たちの姿から、わたしたち人間はこういう者なのだということではないでしょうか。わたしたちは深く自分自身の世界と思い煩いの中にとらわれている者たちです。ですから神の救いのみ言葉を文字通りに受け取り、それによって信仰に導かれていくことにはならないことを思わされます。
     信仰とは、わたしたち人間が自分の言葉や考え方の中にとらえることのできない方、ただ出会う(18-20節)ことしかできない方に身をゆだねることです。だから「外の人びと」、つまりこのときの弟子たちであり、わたしたちが立っているところに、その方・救い主イエス・キリストも常に繰り返し立っておられる、まさにそのことを信仰は知っているのです。そこで常に繰り返し与えられる神の奇蹟のみが、人を不信からひきもどす、不信仰から信仰へと導き入れるのです。わたしたちは暗い知性の者ですから、わたしたち自身がすすんでこのことをするのでは決してないのです。
    「心のかたくなな」という言葉は、他の箇所からも不信仰な心のことをあらわしています。さらに、その心はキリストにおいて取り除かれるまで続く(コリント二3:14)とありますので、つまり取り除かれる希望がそなえられるのです。そこには福音だけが唯一の救いであることが伝えられます。イエス・キリストの福音は、聖霊とともに働いて、かたくなな石の心をとかし、信仰の目が、信仰の耳が開かれて主の恵み・喜びを回復させてくださるのです。そのことを期待して福音のみ言葉を聞いていきましょう。
     神はイエス・キリストにおける神の救いのみ業をどのような世の権力によっても妨げられることなく遂行されます。  
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6月22日の説教から(抜粋)
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  • サムエル記下12章1〜13節「わたしは主に罪を犯した」

    2025.6.22       伝道師 熱田洋子
    サムエル記下12:1〜13「わたしは主に罪を犯した」
     今日の聖書に記されるダビデは、旧約聖書の中で、偉大な人物の一人、誰からも賞賛されるだけでなく愛されるような魅力的な人で、誠実、信仰深く、献身的でもありました、サウル王からの侮辱、虐待、嫉妬さらには殺意や執念深い追跡にもかかわらず、変わることなくサウル王に対する心からの尊敬の思いを口にし、この王に仕えることを良しとしました。ついにサウル王の死が告げられた時には驚くべきことに悲嘆に包まれます。ダビデ自身にとっては、王座につくことも王国を手にすることも、願っていたことではなかったですし、サウル王の死後、遺児たちに対して、その幸せや名誉に心配り、赦すということに最大の配慮を示します。ダビデのうちにこそ善良にして信仰深く、気高い魂、真の王たる者の姿を見ることができるのです。
     この全く同じ人が、卑劣で悪意に満ち、完璧に利己主義に取り付かれ、見下げ果てた行動、すなわち邪魔となった者・ウリヤを殺させようと恐ろしい策略をめぐらします。その姿は、実に信じられないことですが、しかし事実です。真に恐るべきことは、そういうことが、このような偉大な人にすら起き得る、という事実です。
     これほど偉大な人、この人が象徴しているような一切のことと全く矛盾する行動に走ってしまう、何があるのだろうか。奥底にある根深くて恐ろしいもの、圧倒的な力とでも呼べるもの、罪の真実と深刻な性質がここに現されています。
     それは、いつでも同じ形をとって現れるとはかぎりません。しかし、必ずあるものです。それは、わたしたちの心のうちにもあるのです。自分を振り返ってみると、自分の心のうちで絶えず起きている葛藤、心の中に折に触れて湧きあがり、自分を支配する空しい思いや願望を思い起こすことができるのではないでしょうか。わたしたちは、そんな自分の思いのすべてを大っぴらに言い表そうという気持ちにはなれないものです。とはいえ、今日の箇所のダビデがそうだったように、自分が何者であり、どう生きてきたのかを絶えず思い出させられる時がそなえられるとしたら。ナタンの前に立つダビデに自分の姿を重ねつつ考えてみることができるのではないでしょうか。
     罪は、人間の弱さや無知・気の迷いといった程度のことではないのです。わたしたちを束縛し、意のままに操り、わたしたちが想定していたことや決意をひっくり返し、思うがままのことをわたしたちに信じ込ませます。ダビデにはこうした罪のいっさいがはっきりと示されています。一つの思い、一つの欲望にまんまとはまってしまい、その他の一切を犠牲にしてもいいのだと思うようになっています。
    「王の僕ヘト人ウリヤも死にました」(サムエル下11:21)との戦いの報告を聞いた時、ダビデは通常であれば、一国の王として、全軍の安否や勝利を案じていたことでしょう。しかし罪に捕らわれた今は、こうしたことには関心を失って、国の誇りも、戦いの勝利の野心も吹き飛んでしまっています。高い地位にある偉大な人物のよくある恐るべき転落の物語、そして、わたしたち誰しもが置かれることがある恥ずべき状況のひとコマです。それ以外のものに対する関心の一切をかたわらに追いやって自分の願いがかなったことだけがわたしを支配します。
     わたしたちの犯してきたすべての罪は、ある意味で、自分のうちにあるより正しい判断力に背く罪であるということができます。怒り、苛立ち、悪意、残虐、欲望、渇望その他の何であれ、罪を犯した後で、いったいどうしてそんなことをしてしまったのか、自分がただただ理解できず、茫然自失の状態が生まれるのではないでしょうか。そこでは善悪の知識は罪から守ることになっていません。律法によっては、かえって罪の自覚は生じるのです(ローマ3:20)。気づかせはしますが、対処するわけではないのです。「わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている。もし、わたしが望まないことをしているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです。」(ローマ7:19・20)。使徒パウロの告白です。知識はすばらしいものです、けれども、悪い者が放つ火の矢(エフェソ6:16)に対しては盾とはならず、防御の意味をなしていません。
     また、罪について注意しなければならないことは、人間は罪から完璧に守ることはできないし、罪は罰に値するものです。 預言者ナタンがダビデに向かって語りかける中で、その点を明らかにしています。ナタンはダビデが自分自身の行動について、私利私欲の入らない公明正大な判断を下すように仕向けています。罪の問題でいちばん難しいのは、わたしたちはこのような公平な立場から判断することはまずないという点です。
     わたしたちは、常に自分を守ろうとしますし、だれでも自分のしたことを言い抜けるためならば、実に賢く行動するものです。しかし、自分の真実の姿を理解し、他の人々に向けるのと同様のことばをもって自分自身を責めることができるほどに賢くはないのです。
      ナタンがダビデに一つのたとえを語った時(サム下12:1-4)、ダビデはいささかの躊躇もなく、そして、自分のこととも思わず、即座に正しい評価を下しました。それがいかに罪深いことであり、厳罰に値するものであるかがわかったと言い、これは言い訳などできないことだ、どんな形であれ弁護などできない、極めて忌むべき行為だ、と言ったのです。
     直ちにこの判断を自分自身の最悪の行動に向けることはしませんでした、しかし、このことで自分の逃げ場を失ったダビデは、自分の罪が全く言い逃れできないものであり、罪も、そしてその罪を犯した自分自身も罰に値することを認めざるを得なかったのです。
     さらに罪の重要で本質的なことがあります。義なるお方、力あるお方である神もまた、しかし、「ダビデのしたことは主の御心に適わなかった。」(サム下11:27)と、罪を同じようにさばきに値するものと明言しておられる事実を知ることです。
     神はきよい神です。罪を憎み、徹底して忌み嫌っておられ、聖なる怒りを現されます。罪は言い逃れできない、裁きに値するものであることを明確に語っておられます。
     わたしたちの前に一つの事例が出されます。人から多大な親切を示された人がいるとします。実に、気前の良い形で大切なものを託されました。この人は、非常に価値あるものの取り扱いを任されたのです。ところが、この大切なものを失くしてしまいました。持ち主はどうしたでしょう。任せていた人を、その不誠実さにもかかわらず、罰することなく赦します。そして失敗を見逃し、職を取り上げるどころか、もう一度チャンスを与え、実際、さらによい待遇を与え、それなりの配慮をしてあげました。
     ところが、その人は感謝するどころか、自分の都合の良いように受け取り、都合の悪い部分は頬かむりを決め込んで、寛大にも許してくれた持ち主の気持ちを踏みにじってしまいました。
     この人のしたことは恩知らずで不誠実、感謝など眼中にありません。振る舞いは横柄で、自分に愛と寛大さを示してくれた恩人を全く無視し、傷つけようとさえしています。それまで与えられていたもののすべてを剥ぎ取られても当然であるばかりか、厳罰にも値するようなこの人を、わたしたちはどう判断するでしょうか。行動は弁護できるようなものではないし、罰せられるのも当たり前だと思うのではないでしょうか。
     この人を、深い愛に満ちて行ってくれたことを拒んだ愚か者だとわたしたちは受け止めるかもしれません。しかし、振り返ってみると、クリスチャンになる前のすべての人間が置かれている状況こそがこの事例に当てはまるといえます。神の子、ナザレのイエスが、人となってわたしたちのところに住まわれました。神の限りない愛により遣わされて、主イエスはこの世においでくださった。わたしたちの罪のために死んでくださった。その人生で苦しみを受けられ、残酷な死を味わわれた。すべてはわたしたちのためでした。キリストにあって神は、わたしたちの過去の一切の罪を、それがどのようなものであれ、赦してくださり、そればかりか祝福を与えてくださるのです。わたしたちは、それに対する感謝の思いをどれほど言い表しているでしょうか。キリスト者とされたわたしたちは、心の思いをすべて注いで、すべての点で、そしてあらゆる形で、神に喜んでいただくように生きることができる一人ひとりです。そうすることによって、わたしたちは神に感謝をささげているでしょうか。
     ナタンはダビデに向かって、イスラエルの神、主のことばを伝えます。主は過去のダビデに対する恵み深い行いを思い起こさせます。神は信実なお方であったし、未来にはもっと多くのことをしてくださるだろう。ダビデをサウルに代わる王としたことも、それらのことは、すべて主が認めてくださったから成し遂げられたことであったのです。ここから気づかされるのは、ダビデは、自分は神から自律したものだと思ってしまったということです。だから、主の言葉を侮り、主の御心、すなわち律法の戒め(殺してはならない、姦淫してはならない、隣人の家をむさぼってはならない)に背いたのです。
     すべての人に定められていることがあります。すべての人は罪を犯しているからです。人は皆、神のものを奪い、神の御声を踏みにじり、神の招きを拒み、神の限りない愛に敵意と頑なさで応えています。そして滅びに向かっています。たとえそのようなものであっても、言い訳はできません。ナタンに対するダビデのことばはわたしたちのものでもあるのです。「わたしは主に罪を犯した。」ダビデは、ナタンに逆らいませんでした。ダビデは土壇場で、自分自身を律法を守る者であると認めたのです。ダビデは、悔い改め、ただ慰めと助けの源へと向き直り、主の憐れみの上に自分自身を投げ出すことができました。詩編32:5のとおりです。「わたしは罪をあなたに示し 咎を隠しませんでした。わたしは言いました『主にわたしの背きを告白しよう』と。そのとき、あなたはわたしの罪と過ちを赦してくださいました。」
    主は、そのような人間にまで憐れみを広げられる神です。
     神からの答えもまた、ナタンの口から出たと同様、いや、それ以上の限りない寛容さをもって、わたしたちに語りかけられています。「その主があなたの罪を取り除かれる。あなたは死の罰を免れる。」(サム下12:13)。
     徴税人ザアカイが罪を悔い改めて、主イエスの救いに与った(ルカ19:8)ことを思いだしてください。わたしたちにはイエス・キリストがおられます。神は、わたしたちの罪を、神のひとり子のきよく、罪なき肩に負わせることによって、「罪と何のかかわりもない方を、神はわたしたちのために罪となさいました。」(コリント二5:21)。
     罪によって、わたしたちは死ぬことがないのです。キリストがわたしたちに代わって死んでくださり、わたしたちのために完全な贖いを完成させてくださったからです。そして、その死により、わたしたちは新しく生きることができるようになったのです。それによって与えられる力により、わたしたちは、罪という恐るべき敵との戦いに勝利することができるのです。キリストが人としての人生において罪に勝利なさったからです。
     わたしたちは、生涯、罪の思い、罪の力、罪の汚染する力に悩まされるものです。覚えておきたいのは、唯一の解決は、キリストのうちに十字架につけられたキリストのうちにあります。キリストこそがわたしたちの罪の思いを消滅させ、罪の力を打ち破り、わたしたちの性質を新しく造り変えてくださいます。「言葉では言い尽くせない贈り物について神に感謝します。」(コリント二9:15)
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6月15日の説教
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  • マルコによる福音書7章31〜37節「神のことばが聞こえた」

    2025.6.15     マルコによる福音書7:31〜37「神のことばが聞こえた」伝道師 熱田洋子
     マルコによる福音書から連続してみ言葉を聞いています。前回の7章24〜30節は2月23日でしたから、久しぶりにマルコ福音書にもどってきました。今日の聖書箇所は、「それからまた」とはじまります。これまでのところと話がつながっています。
     地名も出来事とともにたどることができます。主イエスはガリラヤ湖の付近の村を巡り歩いてお教えになっておられましたが、そこから異邦人の住んでいる地方へ行ったり来たりして、病の人をいやし、汚れた霊に取りつかれた人から悪霊を追い出したりしておられます。そこで主でなければできない力ある働きをしておられるのです。ティルスの地方は、前回、異邦人の女性に頼まれて、幼い娘から悪霊を追い出しました。また通り抜けたデカポリスの地方、そこは異邦人も住んでいるところです。そこでは汚れた霊に取りつかれた人をいやしたところ、その人がデカポリス地方に主イエスのことを言い広め始めました(5:20)。主イエスが行くところには人びとがうわさを聞いていやしを願い集まってきます。そうすると、主イエスの働きと教えがユダヤ人ばかりでなく、異邦人の地にも伝えられて広がっていくように思われます。
     さて、「人びとは耳が聞こえず舌の回らない人を連れて来て、その上に手を置いてくださるようにと願った。」のです。周りの人にはこの人をどうしてやることもできない絶望的な状況です。それで、何とかすぐにでもここから救ってもらいたいという人びとの願いが感じられます。「手を置いてくださるようにと願った」人びとというと、思い出すのは、四人の男が中風の人を運んできた(2:3)出来事です。人びとは主イエスなら救ってくださるだろうと信じて連れてきたということでしょう。この人は、耳が聞こえず舌の回らない人(ギリシア語では、話すことに困難のある、という意味です。)ですから、主のお言葉を、耳が聞こえなくて聞くことのできない人でした。
     主イエスは、7章14節後半で「皆、わたしの言うことを聞いて悟りなさい。」とおっしゃいました。しかしこの人は聞くことができません。聞くと悟ることができるようになるのです。前回、異邦人の女性は、主イエスから、神の御わざが異邦人の自分たちにはまだ与えられないと聞かされました。それでも、それをわきまえた上で、つまり主のお言葉の真意を悟って、主イエスのありあまるほど豊かな恵みが自分たちにも及ぶことを心から願いました。この女性は「神の言葉」を聞くことによって、娘を救ってもらったのです。
     主イエスは、この人だけを連れ出されます、この人を唯一かけがえのない一人として接しておられるのです。主が直に手を引かれたということは、そこに聖霊も働かれ、主のあたたかい手に導かれて、この人は何か好ましいことが起こるのではないかという目を向けたことでしょう。主は、ご自分の指をその人の両耳に差し入れ、それから唾をつけてその舌に触れられました。主イエスの深いあわれみがこの人の身体に触れられます。特に主が、唾をつけてこの人の舌に触れられたというのですが、主はほかにも唾を用いられることがあります(8:22〜26)。生まれつき目の見えない人の目に唾をつけて見えるようにされます。古代では、唾はいやしの力を秘めたものと信じられていましたから、見ている人を安心させることもあったのでしょうか。そのように、耳が聞こえず、口のきけない人さえもわかるようになさったのです。
    そして、天を仰いで深く息をつき、その人に向かって「エッファタ」と言われました。主は天の父なる神を仰ぎ祈られます。この前にあった出来事を思い出します。五千人にパンを供えるときも、主は天を仰ぎ讃美の祈りを唱えてから、パンを裂いて弟子たちに配らせました(6:41)。
     このとき、主のなさる「いやし」はどこからくるものなのか、いやし手の力は人ではなくそれをはるかに超えた源から来ることが見て取れます。
    主は深く息をつかれて、この人の持つ苦しみをかえりみられます。神が人を創造され祝福されたはずです。それなのに目の前にいる人は、不自由さの中に置かれているではありませんか、そのための嘆きのうめきではなかったでしょうか。この苦しんでいる人への深い憐れみと、主の言葉のもつ権威によってこの人はいやされました。
     『エッファタ』という言葉はアラム語で、「開け」という意味です。主イエスのお言葉によって、この人の「耳が開き、舌のもつれが解け、はっきり話すことができるようになった。」のです。原典のギリシア語は、はっきりと、具体的に、「舌の鎖が断たれた・断ち切られた」と記します。「鎖」は、最も頻繁に使われるのは囚人を縛る鎖や手錠を指します(使徒16:26,20:23など)。主イエスが鎖を断つ・断ち切るということはそれまでの束縛から解き放つ(ルカ13:16)ことをいっています。それと同じように、この人は、はっきり話すことができるようになったということは、それまでの苦しみや困難が取り除かれたということです。この人は、耳と口の不自由さのために、人びととの交わりから断絶され、疎外されていたことでしょう。そのような社会で生きづらさをかかえていたに違いありません。この人がたとえ主イエスに近づこうとしても、それもかなわなかったのです。
     ところが、人々に連れられてきて、主イエスの前に導かれたときに、大きな変化がこの人の身に起こりました。
     主イエスの祈りに応えて父なる神が働いてくださるとき、イザヤが述べている「そのとき、見えない人の目が開き、聞こえない人の耳が開く」(イザヤ35:5〜6)という預言が成就します。
     イザヤ書は先立つ34章において人類が滅亡するというような神のさばきについて宣言され、まことに暗い面が描かれるのですが、それを背景にして、35章では明るい未来の姿が示されます。主が世に現れて救われた者だけでなく、すべて主が造られたものの喜びへと移っていきます。その中にある言葉です。 
     主イエスがなさったことがどういうことなのかがイザヤの預言にとてもよく表されています。
    (5〜6節)「そのとき、見えない人の目が開き、聞こえない人の耳が開く」、「そのとき…口の利けなかった人が喜び歌う。」というのです。
     聞こえない人の耳が開く、口の利けなかった人が喜び歌うことができるようになるとは、不自由な中にあった人にとってどれほどすばらしい、新しい世界が開くことだったでしょう。
    ここに耳が聞こえず、舌の回らない人の苦しみを思わされるのですが、その上、目も不自由という三重苦のヘレン・ケラー女史のことも思い出します。ヘレン・ケラーさんのもとに、サリバン先生がやってきて、指と指とを触れ合わせて物には名前があることを知ることとなります。そのときのことを著書(『わたしの生涯』)の中にかけがえのない瞬間として記しています。真にイザヤ書のこの言葉が自分において成就したことを確信したということにほかなりません。
     このように書かれています。「サリバン先生の指の動きに全身の注意を注いでいたとき、 w- a- t- e- r、自分の片手の上を流れているふしぎな冷たい物の名であることを知った瞬間です。この生きた一言が、「私の魂をめざめさせ、それに光と希望と喜びを与え、私の魂を解放することになったのです。その日、たくさんの言葉を覚えました。ことばこそじつに花さくアーロンの杖(民数記17:8)のように。私のためにこの世を花園と化してくれたものです。…私は生まれて初めて、きたるべき新しい日を待つことを知りました。」
     この世に言葉があって物の名を知ることができたこと、それが自分にもたらされた喜びであるといいます。この瞬間からヘレン・ケラーさんの新しい世界が広がっていきました。指話により、さらに点字も覚えコミュニケーションの手段を広げていきます。聖書を愛し、点字がすりへるほど読んでいたといいます。そして、神の慈愛の心をもって、生涯を、心身に不自由さのある人びとの幸福のためにささげ尽くされました。(『わたしの生涯』)。
    (36節)主イエスは、このとき、ご自分の働きを、だれにも話してはいけないと、人びとに口止めをされました。しかし、主が口止めをされればされるほど、人びとはかえってますます言い広めたので、その知らせと評判が困ったことに広まったといいます。主は、単に奇跡を行う者として知られることを望んではおられませんでした。
     主イエスの奇跡がどこから来るのか人びとは十分にわかっていないからです。つまり、主がどういうお方なのか、そして、神の国を宣べ伝えること、主を信じ主に従うとはどういうことなのか、弟子たちさえもわかってはいないのです。それは、主の苦しみと十字架を通じてのみもたらされる究極の出来事、ご自分の十字架への道が成し遂げられた際に、明らかにされなければならないことで(15:39)、今まだそれにほど遠いということを暗に言っておられるのです。
     そうであっても、主イエスの御業を完全に押し隠すことができないということが人びとの言葉から伝わってきます。
    (37節)この人の身に起きたことを見て、人びとがすっかり驚いたのです。そして「この方のなさったことはすべて、すばらしい。」と告白します。この言葉は、神が天地を創造されたときに、ご自身の業をご覧になって
    「見よ、それは極めて良かった。」(創世記1:31)と宣言された、その言葉を思い起こさせます。神がなさったすべての創造の業は完全です。
    御子イエスも神として果たされるので、贖いの業・救い主としての働きは、父の創造の業と同じように、当然に、良く行われ、何一つ欠けるところのないものです。それなのに、人びとは主イエスのなさったことに驚きはしても、主が人となられた神であることを認めることはまだできなかったのです。

     主イエスは「皆、わたしの言うことを聞いて悟りなさい。」と願っておられます。主が触れたことによって主の言葉を聞くことができるようになった人のことを考えると、「聞く」ことも主が働かれることによってのみ実現することがわかります。聞くことは、それだけではありません。何より神の言葉を聞くことができるようになったのです、そして語るという霊的な耳と口が新たにされて、神を讃美するものとされるのです。
     このときいやされた人は、人びとによって主イエスのもとに連れて来られました。そうすると、その人を主イエスご自身が憐れみをもって接してくださるのです。この人は、しばられていたものから解放され、神の言葉を聞いて生きることができるようにされました。
    今の時代にも、神の言葉を聞くことができない、また、神の言葉を語り合うことができない人たちが多くいます。さらに、身近なことを思うと、神の言葉を聞かせたいと日頃から願っている誰かがわたしたちにもいることでしょう。主はこのような状況をご存じです。わたしたちは、主の語りかけを受け止めるとき、この人に起こったことを教会のこととして考えることができるように思います。次のみ言葉が思わされます。
    「聞いたことのない方を、どうして信じられよう。また、述べ伝える人がなければ、どうして聞くことができよう。…実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです。」(ローマ10:14、17) 
     誰かを主のもとに連れていく働き、それも主によってたてられています。
    連れられて行って主のもとに立つと、人は神の言葉を聞くことができます。
    そうすると、主はみ言葉によって一人一人を大切な一人としてその人の心に触れてくださいます。
     一人ひとりに信仰を与えること、いやし、救ってくださるのは主です。主イエスと出会う人が一人でも増し加えられるように願うとき、そのための働きをわたしたちも行うことができるのではないでしょうか。そのためにも、わたしたちの聞く耳が開かれ、語り伝えることのできる口が開かれるように主のかえりみを願うとともに、神のことばを聞くことのできる人がさらに起こされるように祈り続けるものでありたいものです。
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6月の「一粒の種」から
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  • 聖霊が注がれて教会ができた

    『聖霊が注がれて教会ができた!』
    使徒言行録2章1〜47節
     主イエス・キリストの復活の出来事から数えて五十日目、散らされていた弟子たちが再び一つに集められ、彼らの上に聖霊が降り注がれました。今や彼らは、ガリラヤからエルサレムへと歩まれたお方を通して行われた「神の偉大な業」(使徒言行録2:11)を大胆に語り始めます。使徒言行録が伝えるペンテコステの出来事です。
     これまでわたしたち人間の目に隠されていたことが、上からの力によってあらわにされて神に対して目が開かれるという霊的な経験をしています。そこには、まぎれもなく神が働かれたのです。疑いと迷いの中にいる人間が、どうして自分の力でそれを乗り越えることができるでしょう。上からの力に満たされる以外に、疑い迷いのベールが取り払われるはずはありません。
     聖霊は、わたしたちの、理解するのに難しく、つまずきやすい暗い知性を照らし、さめている心を熱く燃え立たせてくれる、そのようにわたしたちのうちに働きかけてくれます。それは人間的な感情のたかぶりや単なる精神の高揚とは違います。
    霊は霊によってのみ知られます。わたしたちのうちにその霊が注がれると、十字架につけられ死に渡された方が、まさしく人となられてこの世に来られた神であり、受肉した神の言葉そのものであることが心に示されます。そうすると、わたしたちにはつまずきでしかなかったような神の御旨の深い真理があきらかにされ、そのことを信仰をもって受けとめることができるようになります。
     しかし、霊が注がれることは、すでにイスラエルの民に伝えられていた神の働きの中に約束されていた事柄でした。「その後、わたしはすべての人にわが霊を注ぐ」(ヨエル3:1)。「わたしはお前たちに新しい心を与え、お前たちの中に新しい霊を置く。わたしはお前たちの体から石の心を取り除き、肉の心を与える。また、わたしの霊をお前たちの中に置き、わたしの掟に従って歩ませ、わたしの裁きを守り行わせる。…お前たちはわたしの民となりわたしはお前たちの神となる。…」(エゼキエル36:26–28)。そのことが今、散らされた後に再び一つに集められた群れの中で確かに実現しています。重要なことに、この約束されていた霊の注ぎが、死に渡された方のよみがえりと高く挙げられるという出来事により起こっているということです。「それで、イエスは神の右に上げられ、約束された聖霊を御父から受けて注いでくださいました」(使徒2:33)。
     しかも、この「御子をわたしに示して」(ガラテヤ1:16)くださるのは、聖霊がわたしたちのうちに働きかけられたからで、そのことは、わたし一人だけの体験には終わりません。聖霊の注ぎが起こる時、そこに神の共同体、すなわち教会が誕生したのです。
    聖霊の注ぎが起こって誕生した教会の働きを聖書ははっきりと記しています。教会とは人びとの集まりです。使徒言行録2章を読んでいくと、二階座敷に集まっていた人びとの上に聖霊が下り、彼らは他国の言葉で話し始めました。聖霊に満たされた様子は、人びとからは驚き怪しまれます。人びとはそれを見るためにあらゆる所から集まり、ある者は、彼らをぶどう酒を飲んでよっぱらっているとあざけりました。そのような中、ペトロは立ち上がり、偉大な説教を始めました(使徒2:14-36)。
     そしてペトロが説教すると、聞いていたある人びとの中に何かが起こったのです。
    「きょうだいたち、わたしたちはどうしたらよいのですか」
     何が起こったのでしょう?
     ペトロの説教を聞いた人びとは、このメッセージが自分に直接語られていることに気がつきました。きわめて個人的なこととして聞いたのです。すると、自分のしていることに目覚めさせられ、罪人としての自覚をはっきりと経験したのです。
    「…わたしたちはどうしたらよいのですか」
     人びとは、神の御霊によって取り扱われていることに気づき、自分自身に直面させられます。イエス・キリストを少し前には、あざけり、有罪の宣告をし、十字架につけた、そのイエス・キリストに対する邪悪な態度に気づいて、魂の苦悶の中から助けを求めて叫んだということでしょう。
    「悔い改めなさい」このペトロの言葉を受け入れた人びとは、単に罪を悟り、罪を自覚しただけではなく、悔い改めました。そして主イエス・キリストに関するメッセージを信じ、それを喜び、その中に幸いを見出したのです。人びとが信じるようになったとき、教会に日々加えられていきました。そして、毎日、心を一つにして集まったのが、真の教会の特徴でした。
    何のために集まるのでしょう。使徒たちの教えを固く守り続け、そして交わりをし、パンを裂き、祈るためでした。「使徒の教え」が最初に来ています。ここに集まった人びとは使徒の教えを聞いたことからはじまって聖霊がこの人びとに働き、その結果としてこのような新しい状況が起こっているからです。
     初代教会に加えられたこれらの人びとは、使徒の教えにとどまりつづけました。なぜなら、使徒たちは主イエスの物語のうちに共に生きてきて、主に喜ばれることが何かを指し示すことができる主イエスの証人だったからです。使徒の教えにとどまりつづけることこそが真のキリスト者の際立った特徴といえるとすれば、わたしたちも使徒の教え、わたしたちにとっては聖書から離れてはならないのです。
     今はどのような時代でしょう。不確かな、不信にあふれ、恐るべき時代に生きているといえます。その中にあって、この世に唯一希望があるのです。それは教会とここで語られる説教です。世界がどのような状況になっても、教会は出発点にかえらなければならないということです。ペトロの説教からはじまった初代教会がそうであったように。そこでは、使徒の教えになんと熱心だったことでしょう。その理由は、そこには、新しい生命が初代教会の人びとの中にあったからです。生まれたばかりの赤ん坊や生まれたばかりの動物をみると、生命のしるし、新しい生命の最初のしるしは乳を求めること、それは本能的なものです。これがわたしたちキリストにつながる新しい生命も求めなくてはならないことです。「生まれたばかりの乳飲み子のように、混じりけのない霊の乳を慕い求めなさい。これを飲んで成長し、救われるようになるためです。」(ペトロ一2:2)とあるように。わたしたちの教会において、神のみことばへの飢え渇きが、語る者も聞く者にも真実なこととしてあるように、たえず問い、求めつづけていかなくてはならないのです。
     このとき、聞いて心砕かれた人びとの心を打ったのはペトロの説教でした。彼らの心を照らし出したのは、ペトロの言葉すなわち使徒の教えだったのです。聞いた人びとは、それまで、自分たちの魂が飢え乾いていることに気づかなかったでしょうし、神との真実な関係のことなど考えてこなかったのです。キリストの十字架の死の事実、罪の裁きと赦し、贖うとはどういうことなのかに直面してこなかったのです。しかし、いまやこの人びとはこのことに目覚めました。わたしたちも、神との正しい関係を保ちつづけているでしょうか、確かめてみることから逃げないようにしたいものです。
     人びとは使徒の教えに忠実にとどまりつづけました。この素晴らしい事柄をもっと聞きたかったのです。自分自身の罪の悔い改めの事実に気づいただけでなく、使徒ペトロの説教を通して、神がお立てになった偉大な贖いのご計画に目が開かれたからです。
    わたしたちは恵みとキリストに関する知識において成長していきます。「わたしたちの主、救い主イエス・キリストの恵みと知識において、成長しなさい。…」(ペトロ二3:18)たえず恵みに成長していること、これが教会と教会につながる者たちの特質といえます。
    これまでみてきたように、「使徒の教え」は最優先されることです。これによって教会はキリストのからだである教会を建てあげていくことになるからです。「…よこしまな曲がった時代の中で、…世にあって星のように輝き、命の言葉をしっかり保つでしょう。…」(フィリピ2:15-16)このとおり、かつてそれが真理であったのなら、今もそれは真理であることに変わりありません。
     これは明白な使徒の教えです。使徒たちはみな同じ方向に向かいました。パウロさえ、後から加わったのですが、いつも、自分が語ったことは他の人びともまた語ったことであると熱心に語っています。それは新約聖書全体にわたる普遍的メッセージです。
    そういうわけで、わたしたちは使徒の教え、聖書のみ言葉に求めることを第一にします。その後に交わりが起こされます。交わりは、使徒の教えから生じてくるものです。わたしたちの教会においても説教のみ言葉をもとにして交わりがあるのです。
    キリスト者のわたしたちは新しく生まれ、新しい願い、そしてそれは同じ願い、同じ希望、栄光の望みを抱いています。みな、同じ偉大な主に仕え、ただひとりのイエス・キリストに従っています。だからいつも主を真ん中にして相互の交わりを持ち、語り合います。これこそがいつの時代でも変わらないことです。
     パンを裂くことは、主の聖餐のことです。キリストが再び来られるまで、キリストの死を宣べ伝え、自分たちがすべてをこのことに負っていることを忘れないようにしようとしたのです。パンを裂いたのは、キリストの死を覚えて祝ったということ、それを彼らは喜んで行ったのです。彼らは一つのパンのかたまりでした。そして祈りの中にあったのです。
    祈ることは教会には欠かせません。わたしたち日本キリスト教会の最初の教会の始まりが、祈祷会から始まったということはとても有名な話です。また、英国のある説教者は、祈祷会はあなたの教会の発電所になっているだろうかと、問いかけました。祈祷会は教会の力を起こすものです。わたしたちの上に聖霊の御力が臨むことが必要だからです。説教したペトロは漁師だったのですから、人びとはペトロに力が必要なことを知っていました。そこに集まった全員が力を必要としていたのです。神の力のみが、弟子たちが語る説教を聞く人びとの心を動かし権威あるものにすることができることを知りました。そうして神の栄光を現すことになります。そこで、人びとは教えを聞き、交わり、パンを裂くためばかりでなく、祈るために時間を費やしたのです。これらのことを熱心に行いました。
     誰でも祈ることができます。わたしたちは祈るために召されています。この世にある教会の働きを覚え、救われる人が起こされるために、わたしたちはこの重荷を負っているでしょうか、この熱心を心に抱いているでしょうか。いつも問われているように思います。
    救いをもたらすことができるものは、ペンテコステの日にペトロと他の人びとに臨んだ聖霊の御力によります。そこには、み言葉が力と勢いをもって前進することを明らかに示しています。しかし、そのために、わたしたちの祈りが必要なのです。それが初代教会の特徴だったように今も変わらず熱心に祈り続ける教会でありたいものです。
     そして、「毎日ひたすら心を一つにして神殿に参り、家ごとに集まってパンを裂き、喜びと真心をもって一緒に食事をし、神を賛美していたので、民衆全体から好意を寄せられた。」(使徒2:46-47)のです。ここには喜びがあり心からの神への讃美があります。その様子を周りの人びとは好意の目で見ていたのです。人びとが教会に導かれるのは何によるのでしょう。教会に集まるわたしたちの喜びにみち、感謝しつつ神をほめたたえる姿を見るからではないでしょうか。かつて、わたしも信仰の先輩たちのこのような生き方を見知って、新しい生き方への希望をもち期待して教会に入ったことを思い出します。
     世界をみても、また身近なところでも、あいかわらず不安があり、年齢の別なく、働くことや生活する上での厳しさ、生きづらさをかかえ、容易に希望を見出せない、このような世の中に住んでいるといわれても、他の人がわたしたちキリスト者を見るとき、話す言葉や行なうことにおいて喜びに満たされていて、世間ではあまり見聞しないような何かをわたしたちの内に見出すとき、同じような生き方をしたいとの願いを持って教会にやってくることになり、わたしたちがイエス・キリストを救い主として信じて救いに導かれたように、他の人びとにも同じように主が働かれて、救いの道を指し示し救いへと導かれることになるのです。その結果、「主は救われる人びとを日々仲間に加え一つにされたのである。」(使徒2:47)


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6月1日の説教から
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  • 6月1日 召天者記念礼拝
     「この最後の者にも」 

     2025.6.1 召天者記念礼拝               伝道師 熱田洋子
    マタイの福音書20:1〜16「この最後の者にも」
     天の国は、ある家の主人や、ぶどう園で働くように雇われた者たちが比べられて語られるこの物語に似ているとされています。 当時のパレスチナの労働時間は自然のリズムに合わせて作られていて、太陽の輝き昇りはじめから星が空に上がってくるまでと記されています。その中で、1日働くと、労働法に従って正当に支払われ、市場で労働者と雇おうとする者たちとの調整が行われていたのでしょう、そこに失業者がいることは当時のパレスチナの一般的情景だったと思われます。
     ある家の主人が、ぶどう園で働く労働者を雇うために夜が明けるとともに出かけていき、労働者を1日1デナリオンの約束でぶどう園に送り込みます。また、9時ごろに労賃の額の取り決めをせずにぶどう園に行かせ、その後、12時ごろ、3時ごろの二度繰り返されます。そして、労働の終わり時間直前に、立っている人びとがいたのでその理由を尋ねますが、答えにならないまま、ぶどう園へ行かせます。このときは収穫の時期だったのかもしれません。それにしても通常のことではないように思えます。最後の人には何一つ約束されていません。
     最後の人に「なぜ、何もしないで、一日中ここに立っているのか」と尋ねたとき、「だれも雇ってくれないのです。」といっています。「最後の者たち」は他の雇い主からその働きに値しないのか、働きを期待されないので雇われなかったということでしょう。その人びとにも主人は、「あなたたちもぶどう園に行きなさい」と同じように招いています。ここにいる人びとは日雇い労働者で、おそらく貧しい人であったと思われます。ですから、仕事がないということは、その人と家族が飢えに直面することになりかねません。
     この労賃の支払いは、レビ記や申命記によれば、貧しい人たちが窮乏して困ることのないように、その日の夕方に行うことを定められていました。ここで、最後の者たちが最初に支払われるだけでなく、最初の者たちと同じ額、それぞれ1デナリオンずつ支払われました。ここがこの話の衝撃的な点で、現実の労働の報酬の話ではないと気づかされます。
     一日中働いた者たちは、最後の者たちが1デナリオンずつ受け取ったのを見て、当然ながら自分たちは最後に来た者たちよりも「もっと多く」もらえるだろうと期待したのです。しかし、彼らも1デナリオンずつを受け取り、それ以上はなかったのです。自分たちは12倍も働いたばかりでなく、その際に、暑さにも辛抱しなければならなかったのに、主人が最後に来た人びとを、自分たちと同じに扱ったと憤激したのです。
     主人は、憤慨する者たちに答えて、一日中働いたものの一人にやさしく『友よ』と呼びかけます。自分のしていることは最初の契約の条件を守ったため、労働者に対して真の不正はなかった(したがって、彼は賃金を受け取り満足すべきだ)、ということと、もう一つ主人は「この最後の者」を特別に、すなわち、朝早くから働いた人びとと同じように扱うことです。ここには、恵み(神の恵み)とはこういうものだとの明確なニュアンス「わたしはあなたと同じようにやってやりたいのだ」という主人の意志が感じられます。「最後の者たち」は、実際、最初の者たちが12時間働いたのに比べると1時間ですが、彼らの報酬は他の人びとと同額だったので、これは主人の意志のみによってそうなったのです。
     ぶどう園の所有者である労働者の雇い主の主人は、自分のものに対して自由に振る舞う権利をもっています。もし、最後の者たちに同じように与えることを望むなら、そのことで誰に申し開きをするようなものではないのです。
     もうひとつ、主人が、最後の者たちに気前がよい・寛大なのだ(「わたしは気前がよい・寛大だ」)という言い方からわかります。ここには、神の善さ19:17、すなわち神のいつくしみがあらわれています。そして、それを「ねたむのか」と問い返します。ねたみは、最初に雇われた労働者たちが「自分たちは不公平に扱われている」と憤慨したと同じことで、「恵み」が与えられるのとまったくちがうのです。
     こんなことになるとは思わなかった主人の寛大さにわたしたちも驚きます。この報酬の与え方は、わたしたち人間の考えでは理解できないものです。しかし、ここでは、神の寛大さを示すのに報酬をとりあげていることからあきらかなことがあります。主人に雇われたことによって、これらの労働者は自分と家族に必要なものを得ることができるのです。すでに、主人の寛大さがこの人たちになされているといえます。そして、雇われたからには自分たちのデナリオン・労賃を期待することは間違っていません。
     この話は、二人の息子のたとえにとても近いのです。放蕩して失われたと見られていた息子の方は、父に迎え入れられ喜びの宴席に座ることができました、しかし、まともな方の兄は怒って家に入ろうとしません。(ルカ15:11〜32)。
     このように、まさに理解しがたい神の寛大さは、兄息子のように(自分は父に仕え父の言いつけに背いたことは一度もないと主張します。)自分の功績を主張し、自分は神の前に義しい者なのだという思いから抜けられない人にとってはつまずきとなるでしょう。この話「後にいる者が先になり、先にいる者が後になる。」は、最初のもの、つまり一日中働いた者たちが報酬を受ける時期、すなわち後から来た者たちよりも後に報酬を受けるかどうかではなく、最後に来た者たち、すなわち、よそでは「その働きに望まれていない」と見られる者が、一日中働いた者たちと同じ報酬を受けることがわかります。したがって、最後に来る者は時間的に最後ではなく、その働きに求められた順位において最後と考えてよいのでしょう。神の恵みは、「最後に来る者」、他ではその働きに望まれていないと見られる者にも与えられるのです。ここには、どのくらいの間、どれだけたくさん働いたかが問題ではなく、時間的に先に来たこともほとんど意味を持ちません。ぶどう園に行くように言われた労働者のように、この主人に雇われた、つまり招きを聞いたということ、それだけでもう恵みなのです。神がわたしたちすべてに恵みを備えようとしておられるという事実がわかるのです。
     もし、わたしたちが、最初に来た者の不満ももっともだなと共感するなら、神さまがどういうお方かわからないまま、最初の者と同じ立場に立つことで、わたしたちが本来、愛もあわれみの心も持たない者になってしまいます。神は、わたしたちの理解をはるかに超えた、寛大な、あわれみに満ちたお方です。
     聖書からわかるのは、わたしたちは罪人で、自分で救いを達成できる基準、神さまが厳しいお方でその基準をもっていたとしたら、とてもそれには及びません、したがって、わたしたちの方には救いへの権利はないということです。しかし、最後に来た者が、自分の報酬を1日分請求する権利はなかったにもかかわらず、それを得たように、罪人は救いに権利はないのです。救いは常に恵みの御業なのです。
     神が、わたしたちが神の前にどれだけ正しいことを行なってきたかに基づいて取り扱われないことは、罪赦された罪人のひとりであるわたしたちが真に感謝すべき事実です。神の愛は、そのすべてが罪人のわたしたちに注がれています。それは、わたしたちは自分たちが受けるに値するよりも限りなく多くを受け取っています。神はこの話を通しても恵みへと導いていてくださいます。
     この話を、主イエスは弟子たちを前に語られました。天の国でだれがいちばん偉いのかと人を比べたがる弟子たちに、神の寛大さ、神がすべての人を招いておられることを教えられます。当時、教会の中には、ここに「最後の者」といわれるような「小さい人たち」を受け入れなかったり軽蔑したりすることがあったのかもしれません。主イエスは、人びとが、このような人たちが迷っているのを放っておいたり、また、自分は憐れみをもらったのに仲間をどこまでも十分に赦すことをしなかった(18:21、32〜33)のをご覧になったのでしょう。そこで、主イエスは、小さい者たちを受け入れるように、また、神の憐れみをいただいている者は、だれに対しても憐れみを与えるように教えられるのです。
     この聖書箇所は、わたしの信仰の先生である北海道家庭学校創設者・留岡幸助が大切にしていたところです。留岡幸助は1934年に召天しましたが、わたしは、牧師であった先生から受け継いだ信仰の働きによって伝道に導かれています。ここで語られる「最後の者」は小さい者といえるでしょう、先生は、そのような者たちにも神の恵みが与えられることを、家庭学校の働きを通して実際に教えてくれました。
     留岡幸助は17歳でキリスト教の洗礼を受け、同志社英学校、新島襄のもとで学び、“世に光を”の志しをもって牧師の働きを始めました。刑務所の教誨師をした時に、大罪を犯した人の中に、家庭環境に恵まれず、教育も受けられなかった人がいることを知って、非行に走る子どもたちに家庭環境と教育の機会を用意しようと1914年遠軽町に北海道家庭学校を創設しました。 
     いま、家庭学校は、問題行動があるとして、家庭に、学校に、地域に居場所がなくなった、小中学生の男の子たちが、家庭的雰囲気のもと、敷地内の分校で学校教育を受け、2年くらいで育ち直し、自立できるよう生活を立て直して巣立っていきます。2012年、家庭学校にクリスチャンの職員が一人もいなくなったときに、わたしは、神の御計らいにより務めるようになり、足掛け9年、子どもたちと生活(食事も作業もあり)を共にしてきました。わたしの大事な役割は、子どもたちと毎週日曜日午前10時30分から礼拝堂で礼拝を守ることでした。聖書の話しをし賛美します。一人ひとり、神から与えられた命を大切にすること、とりわけ生きづらさをかかえる子どもたちのこと、周りの人たちと仲良くして生きていけるようにと祈りつづけました。子どもたちは、やがて社会に出ていきます、それでなくても生きづらい世の中とはいえ、人は人に支えられて生きるもの、生活する中で、神の愛をもって接してくれる人と出会い、支えられるようにと願い、イエス・キリストの福音を伝える働きを志し、いま導かれています。
     いまも、厳しい環境で育つ子どもたち、生きづらさをかかえる人たち、ともすれば、最後の者、小さい者と見られる人たちに、わたしたちは出会います。主イエスは、わたしたちの日常生活の中で出会う、小さい一人のために、わたしたちができることをするようにと願っておられます。
     この教会は、信仰の先達の皆さんが、教会に集うことを喜びとし、恵みを語り合うことを楽しみとして、心を合わせて教会を支えてきてくださったことを感謝します。
     これからも、神が招かれる「小さい者たち」を受け入れて、心から喜ぶことができ、主が教えられたように教会として愛するきょうだいと共に生きていくことができますように、神の偉大な寛大さ、その恵みをいただきながら教会生活、信仰生活を続けていく教会とお一人おひとりでありますように。   
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5月25日の説教から
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  • 5月25日「わたしの平和を与える」 

    2025.5.25                       伝道師 熱田洋子
    ヨハネの福音書14:23〜29「わたしの平和を与える」(抜粋)
      いま、肉の体をもった地上の主イエスと弟子たちは別れる時を迎えています。弟子たちは主イエスと別れた後は、主との確かな出会いはなくなり、いつも不確かな、おぼろげでしかありません。そこで、主イエスは、弁護者、聖霊を遣わすと約束されました。
     今日の聖書箇所は、主イエスが弟子たちと別れて去っていくとき、ご自分が共におられない世界で弟子たちが生きていくための準備をさせる別れの説教(13:31〜14:31)を締めくくるところです。
     まず、「わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る。」と言われます。わたしの言葉、つまり主イエスの言葉は、主が人びとに救いをもたらすために告げられたことのすべてです。「わたしを愛する人」・その人のところには、父なる神と御子イエス・キリストも行く、つまり、キリスト者のところには、父なる神もキリストも共に来られるということです。神が信仰者と共に住まわれる、父なる神も子なる神キリストも、永遠にキリスト者と「一緒に住」まわれるというのです。エフェソ3:17「信仰によってあなたがたの心のうちにキリストを住まわせ、あなたがたを愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者としてくださるように。」、これは父と子がこのことにおいて結びついていて、キリスト者の中に子なる神が住まれること証ししています。 
      そして、「あなたがたが聞いている言葉」、つまり、主イエスのメッセージのすべては、ご自身の言葉ではなく、父なる神の御心を表していると言われます。父なる神と御子イエス・キリストは全く一つのお方なのですから、神の御子イエス・キリストが世に遣わされたのは、この世を、神は救おうとされていることです。この世の被造物すべてが救われること、そのことが神の御旨であり、究極の目的であることを忘れてはならないのです。
     しかし、いまの神に背いたままの形で救われることではないのです。福音の光に照らされて、神に背いている実情、罪の実態がはっきりと明るみに出されなくてはなりません。そして、世が自らの罪を知って、悔い改めることによって初めて救われるのにあたいするものとなるのです。 しかしながら、この世にはいまも悪の力の支配があります。悪の力は主の十字架の死の出来事によって根源において滅ぼされましたが、まだその残された力がこの世を、世の人びとを脅かしています。
     それゆえ、しばらくの間、一人ひとりが信仰の戦いの末に、その力から脱して、福音に聞き従うという道を取らざるを得ないのです。そのようにして悔い改めた人は、神の救いに入れられることは当然のことです。この救いに与るのは、現実にはキリスト者ではなくても、すでに、キリスト者を目指して歩んでいる人も含まれ、いまは教会に属していなくても、すでに教会に属することを予定された人なのです。というのは、神の救いは、教会を通してなされます。ですから、教会は伝道に励む務めがあり、キリストの福音を正しく生きたものとして伝えるための働きがここにあります。
     教会の外でも、内にあっても、「わたしを愛さない」、つまり、福音を信じない人たちは、聖書にあるように、終わりの日に、神の永遠の刑罰を受けなければならないのです。一方、教会の一員となったからといって、決して安心することのできない信仰生活の一面も示されます。わたしたちの信仰がぐらつきそうなとき、主に従い続ける気力がうすれそうになると、思い起こしてもらいたいのです。わたしたちの信仰の基、イエス・キリストは、神の教会を建てるために自ら十字架にかかり死なれたからです。ですから、教会に属するわたしたちキリスト者はキリストから聞いた言葉から離れてはならないのです。そのためには、自らの信仰をかえりみ、そして、絶えず、世の力に押し流されることのないように、聞かされていることを、いっそう強く心に留めることです。ヘブライ2:1「だから、わたしたちは聞いたことにいっそう注意を払わねばなりません。そうでないと、押し流されてしまいます。」聞いたこととは、主イエスの言葉にほかなりません。
     また、詩編のみ言葉を思い出します。詩編103:2「わたしの魂よ、主をたたえよ。主の御計らいを何一つ忘れてはならない。」とあるように、わたしたちもこの呼びかけを自分の魂に繰り返ししていかなければならないのです。そうはいっても、小さな信仰のわたしたちのこと、感謝なことには、主は、その霊を送って、わたしたちが思い起こすことができるようにしてくださいます。なにより、主ご自身が、わたしたちを思い起こしてくださるからです。 主イエスから弟子たちへの別れの言葉も結びに近づきます。
    「わたしは、あなたがたといたときに、これらのことを話した。」今、弟子たちと共にいる間に、別れを目前にして話し始められます。わたしの言葉を聞くことがなくなる時が来る。最後の食卓に共にとどまっておられるこのとき、主の別れの時がくることを暗黙のうちに語られます。だからこそ、再び弁護者を派遣すると約束されます。父がわたしの名によって「お遣わしになる」とは、キリストに代わって、その働きを委ねられるのですから、キリストのみわざが引き続いて行われることです。
     主イエスが肉体をもって弟子たちのところにとどまる歩みはやがて終わります。そこで主は聖霊の派遣を願われたということです。主イエスに代わり、イエスさまの御名によって働かれるという聖霊の働きは「教える」ことと「思い起こさせる」こと、すなわち、主イエスが語られた、すべてのことを思い起こさせ、その内容を理解させてくださるのです。主が地上で弟子たちに語られたすべてが、今のわたしたちには、その時の弟子たちよりももっとよくわかります。主イエスの死と復活、そして聖霊の与える出来事によってそのことがおこるからです。ペンテコステに聖霊が降り、ペトロや弟子たちが力強く立ち上がれるようになったこと、そして、そのことにより、わたしたちも福音を伝えるようになり、教会がその働きを負うことになったからです。
     しかし、この時、弟子たちには主イエスが共におられないということは不安を呼び起こします。ここでは、弟子たちより主の方がそのことをよく承知しておられます。しかし、主にとってここに残したいのは、不安ではなく、それに打ち勝つ平和です。「これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」(16:33)と「平和」が与えられると約束されます。また「平和」という言葉は、この後、復活のキリストによって語られます。「…イエスが来て真ん中に立ち、『あなたがたに平和があるように』といわれた。」(20:19,21,26)
     「平和があるように」(シャローム)は日常のあいさつですが、別れて去っていく主イエスの口から告げられ、復活ののち再会に際して語られたことに特別の思いが込められています。ここでも「わたしの平和」が繰り返され、まったくイエス・キリストだからこその「平和」です。なぜかというと、その与え方が違うのです。振り返ると、13章では、主は僕となって弟子たちの足を洗われました。その最後の食卓において、主が言われる平和とはどういうことなのか教えられたのです。それは、神と教会・信じる者たちの集まるところ、そこにおいて主と信じる者たちの間に結ばれる新しいきずなから生まれる平和とはこのことなのだと。
     弟子たちに残された平和は、その後の教会の伝統になり、今に至るまで引き継がれてきたはずです。それは世が与えるようなものとは違うということです。しかし、わたしたちは、教会につながっていても、いつの間にか、世に求めるのと同じような平和を期待することが多いのではないでしょうか。そうなると、主イエスの残してくださった平和がみえなくなり、わたしたちが世のものになってしまいます。では、主が与えてくださる平和をわたしたちはどこに見るでしょうか。それを、問われているように思います。そしてそこでも、主の言葉を思い起こさせていただかねばならないのです。
     続けて、「心を騒がせるな。おびえるな。」と言われます。「心を騒がせるな。」が、1節に続き、もう一度繰り返されます。主イエスは去っていかれます、しかし、また、帰って来られます。それだから、主の死は、悲しむべき別れだけではないのです。むしろ、それに続く新しい再臨のことを思えば喜びです。27節の平和と並べて、ここでは喜びが語られます。平和と喜びは深く関わり合い、喜びは、主を愛する者ならばわかるものです。
     さて、「主への愛」とは、主のいましめを守ることであると、繰り返されてきました(14章15、21、23節)。わたしたちに聖霊が働かれることによって主の言葉を思い起こします。そこで主の御心に従って行こうとするとき、そこにあるいましめに生きることになるのです。いましめとは何でしょう。主が弟子の足を洗われた出来事からわかることがあります (13:14〜)。弟子の足を洗われた主が、主また教師として教えることはこれに尽きると言われました、主と同じ愛の行為を行うようにということです。「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」(13:34)
     また、このとき、「愛しているなら」という言葉に心を止めます。復活されたキリストが、ペトロに、「わたしを愛するか」と三度も問われたことを思い起こさせられます(21:15〜)。繰り返し語らせたということ、まるで心に刻みこませるかのようです。別れを告げられる主イエスは、ここでも、わたしたちの愛、教会の愛をこのように行うように残されたということです。それは、弟子たちが今まで知ることがなかった愛です。それが聖霊の働きによって現実のものとなり、信じる者たちが主に従って行うことができるように導かれるのです。
    「父はわたしよりも偉大な方だからである。」この言葉は、わたしたちを慰め、励ましてくれます。「父なる神の大きさ」とは、いっさいの出来事、すなわち、主イエス・キリストをわたしたちのところに遣わされ、またその御子を迎えられ、これに栄光を与えられるという、他に比べようのない大きさを知り、この方が、わたしたちの父なる神であり、そのお取り計らいの中で生かされていることこそ信じる者の喜びです。
     主がこれから歩まれるのは、死を突き抜けて、この父なる神のもとに行くことによって栄光をお受けになるのです。今、別れの悲しみにある主の弟子たちも、この神の大きな栄光につつまれます。それは、弟子たちに、教会に、喜びを与える栄光の望みと言ってよいのです。この望みがなければ、これから起こることに弟子たち、そして教会も、わたしたちも耐えられないでしょうから。この教会に与えられるイエスの愛は、主が、父を愛するがゆえに、その父の命じられたとおりに行われます。それは十字架の死であり、死に至るまで忠実な愛に生きられました。そして、わたしたちの主への愛は、聖霊によって教えられ、思い起こさせられた、主の言葉に生きることです。
     一例をあげれば、主のみ言葉に従い、互いに足を洗い合うとき、そこでわたしたちは、主イエスを愛するのです。そして、そのように主を愛して生きることは、世が与えるのではない平和に生きることであり、そのことによって、主の教えられる愛に生きることを証しする者となるのです。
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5月18日の説教から
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  • 5月18日「神が人と共に住む」 

    2025.5.18 ヨハネの黙示録21:1〜6 「神が人と共に住む」抜粋  伝道師 熱田洋子
     ヨハネ黙示録には、キリストの復活と昇天から、その再臨と、全世界に対するその支配の確立にいたるまでの、終わりの出来事の経過が述べられています。
     この世界は終わる、しかも神によってすすめられることをこの黙示録は語ります。わたしたちの信仰は、この世界は、神によって造られ、神によってはじまっていて、世界全体に対する神のご支配、主権が明確に示されます。わたしたちの救いの根拠はそこにあります。
     そして神によってこの世界が終わるとは、神のご支配・神の国が完成すること、すなわち、そのことによってわたしたちの救いが完成することです。
     神によってこの世界が終わることは、わたしたちが信じている最終的な救い、「日本キリスト教会信仰の告白」で「救いの完成される日」までとある日のことです。わたしたちは、この究極的な希望において生きている者たちです。神によって、この世界が終わることこそ、わたしたちの救いの完成であり、そこに究極の希望があります。
     今の世界が終わるのです。今わたしたちが生きているこの世界は、神によって造られた「最初のもの」であって、神によって「去って行き」ます。この世界と歴史のすべてが神のご支配の下にあるということ。わたしたちは神によって「過ぎ去る」世界を生きています。わたしたちはこの世界を生きている限り、世界に渦巻いているさまざまな力によってとらえられ、支配され、翻弄されているといえます。
     しかし、それらすべてのものは「去って行く」のです。 “この世界を造られ、それを終わらせる、ただ一人の真の神がおられ、このお方こそが支配しておられる”、このことを信じる時に、わたしたちはこの世界のさまざまなものの支配から解放されます。
      今、世界の終わりというと、ある意味で現実的なこととして見つめられているのでなないでしょうか。多くの人が危機感を抱いていると思います。地球温暖化による異常気象が頻発するようになり、東日本大震災のような思いがけない災害、コロナ禍と新たに伴う病気のリスクも高まり、地球における人間の存在が脅かされつつあること、また福島第一原発の事故の恐ろしさ、戦禍や紛争の終わりが定かではないことや核兵器が用いられると人類が滅びることも、現実的な危機としてあります。現代を生きるわたしたちは、「この世の終わりのような破局」がいつ起こるかもしれないという危機感を覚えます。
     この世界には終わることはないと思っている人々も、人間の生きるこの世界には終わりが来るかもしれないと恐れをもっているのではないでしょうか。
     しかし、わたしたちはこの世の終わり滅亡として恐れている人々に本当の終わりを示すことができるのです。この世界の本当の終わりは滅亡ではなくて、神による救いの完成であるという「福音」を語るのです。それがわたしたちキリスト者の使命です。
     新しい世界において救いは完成します。ここでは、今この世界が終わり、新しい世界が神によってもたらされるというのです。どのような世界でしょう。今のこの世界とはどこが違うのでしょうか。
     救いの完成は、神が「新しい天と新しい地」を与えてくださることです。新しい天と新しい地の到来は、イザヤ書65:17に記された期待が成就されること。「見よ、わたしは新しい天と新しい地を創造する。…」、神が民を罪と抑圧からだけでなく、これらの可能性そのものから救い出すという、神の民の求める渇望に応えています。新しい世界において無くなるものを語っているのが「もはや海もなくなった」(1節)ことです。
    「海」は、旧約聖書において海が「混沌」の象徴とされていたことの関連を見ることができます。東日本大震災における津波を体験した人びとの間で、この言葉が新たな意味を持って読まれているということも聞かされます。
     さらに、聖なる都、新しいエルサレムが天から降ってきます。これは神の住まいであり神の民の住まいで、神がご自身に属する教会のために故郷として用意されたのです。「新しい天と新しい地」と新しいエルサレムとはどちらも新しい、同じように考えられますが、新しいエルサレムの方に重点が置かれます。創造の初めから天上に存在していると考えられていたものです。
     そのとき、大きな声が聞こえます。今、見た「新しい天と新しい地」が具体的に信徒たちに何をもたらすかを述べます。それが真実であり、信用できることであると、神ご自身によって、すべてを新たにすると宣言されたのです。それは、これから起こることであるとともに現在の教会、教会のわたしたちに向けて勧告の意味もあきらかにみてとれます。
     玉座からの声は、神は時の終わりに人びとに対する新しい関係を立てられ、そのことが人びとに何をもたらすかを語りかけます。
    1「神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。」神の民というと、エゼ37:27「わたしの住まいは彼らと共にあり、わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。」を引き継いでいます。ここでは神の幕屋より“神の民”の方に大きな関心をもっています。
    2「人と共にいて」というのは、注目に価します。“人と共にいて”という言い方がここで繰り返され、神と人間との関係の密接さをよく表しています。また、「神が人と共に住み、…神は自ら人と共にいて、その神となり」と言われ、神が人とともにいることをいかに重要視しているのかを示しています。
    3「彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。」とあるのは、イザヤ25:8「死を永久に滅ぼしてくださる。主なる神は、すべての顔から涙をぬぐい …これは主が語られたことである。」の影響を受けています。「新しい天と新しい地」を述べるとき、これらのものは、今、この世界においてわたしたちを捕え、苦しめているものです。とりわけ、「死」はこれらすべての根源にある「最後の敵」(コリ一15:26)です。死を中心とするこれらのものが、今のこの世で生きているわたしたちを捕え、脅かし、苦しめているのですが、その世界が神によって「過ぎ去り」新しい世界が与えられる時に、それらのものは、もはやなくなるのです。
     すると、玉座に座っておられる方である神が「見よ、わたしは万物を新しくする」と宣言されます。イザヤ43:19「見よ、新しいことをわたしは行う…」によっています。それに万物と加えます。イザヤ書は現在の世界の存続を前提しているのに対し、ここは、現在の世界の完全な終わりを考えています。この宣言から、すべてのものを新しくするとは、神ご自身の業であること、神が人と共にいて、その神となるとの発言の後で語られることにより、神による創造と救いとが一つであることを明らかにしています。
     そして「事は成就した」のです。その直前に、「書き記せ。これらの言葉は信頼でき、また真実である」と言われます。これらの言葉とは、この黙示録全体のことを念頭に置いていて、先の神の発言のことでしょう。神の宣言は、“万物を新しくする”、それによって信徒の救いが完成するということです、これは、この使信の中心ともいうべき事柄で、真実であることをはっきりさせるためにここで言われたのでしょう。
    「成就した」と神が語られ、信仰者に救いの完成をもたらします。神は創造者であり完成者としての全能を簡潔に表わすために、アルファとオメガという定式を用いています。
     神は、最初のものは去って行ったと言われ、人々の運命に注意を向けます。このとき、忠実な信仰者たちの運命、つまりキリスト者は、渇いている者と呼ばれます。忠実な者の運命、つまり渇いている者には、もはや死はない、イザヤ55:1 にあるように、「渇きを覚えている者は皆、水のところに来るがよい。」価なしに、飲ませようと呼びかけられます。
     キリスト者の生き方を示しています、“渇き”は救いを強く求めます。キリスト者はこの世にあって “渇く” 、つまり生活する上で、辛い生活を耐えねばならない、苦難を通ることもあったでしょう、しかし、終末に際して、もはや渇くこともなくなるのです。「価なしに」と言われて、救いが基本的には神の恵みであることを示しています。
     新しい世界の「新しさ」とは、神と人との関係が新しくされること、神が人と共にいてくださり、人をご自分の民にしてくださる。しかも、それは神ご自身が恵みによって与えてくださることです。これこそが、新しい世界において実現する「救い」です。実はこの救いは、神の独り子イエス・キリストによって、すでに実現し、与えられているものです。イエス・キリストによって「インマヌエル(神はわたしたちと共におられる)」(マタイ1:23)という救いが実現したのです。
     復活された主イエスは「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(マタイ28:20)と約束してくださいました。キリストを信じて洗礼を受け、新しい神の民である教会に加えられることによって、わたしたちはこの救いにあずかり、キリストが打ち立ててくださった神との新しい関係を生き始めることができるのです。
     そして、「信仰の告白」において、復活の主は「救いの完成される日までわたしたちのために執り成してくださいます。」とあるように、救い主イエス・キリストを信じる者の側に立って、神の赦しをいただけるよう執り成していてくださいます。ですからわたしたちは滅びに向かうものではなく「救いの完成」へと希望をもって向かうことができます。
     今のこの世界においては、キリストによって実現した、この救いは隠されていて、目に見える事実ではないのです、「望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認すること」(ヘブライ11:1)が信仰です。しかし最後には、この世界が終わり、神によって新しい世界が与えられる時が来ます。そのときには、今は隠されている救いが完成し、誰の目にもはっきりとあらわになります。教会は、この希望に生きている群れです。わたしたちも救いの完成される日の希望を持って信仰を深める一人ひとりでありたいものです。
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5月11日の説教から
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  • 5月11日「永遠の命を与える」 

    2025.5.11 ヨハネによる福音書10:22〜30 「永遠の命を与える」伝道師 熱田洋子
      神殿奉献記念祭は、エルサレムの神殿における神礼拝が回復された記念の祭りです。紀元前164年に、マカベア家のユダがシリアのアンティオコスの暴政からエルサレムを奪還して、ギリシアの偶像の神々を神殿から追い出し、ユダヤの祭司たちを神殿に取り戻してくれた、そのことにより律法にふさわしい神礼拝が回復されたことを記念する、神殿の清めの祭りのことです。この祭は「光の祭」とも呼ばれます。祭りを祝う灯りが、「わたしたちがほとんど希望を抱けなかった時に、礼拝の権利がわたしたちに現れた・輝いた」というヨセフスの言葉(『ユダヤ戦争史』)にちなんで用いられました。 当時のユダヤの人びとは、それから1世紀半を超えるのに待望のメシアはまだ出現しない、あいかわらず外国の支配下にあるという、もどかしさとあせりがあったのではないかと推察できます。
     ユダヤの人びとは、歴史を通して、神が、アブラハムに語りかけ、モーセを召し、士師たちに、預言者や祭司たちにご自身をお示しになったことを知っています。そして、いま、自分たちにも神が現われて御言葉の語りかけがなされることを切に願っていたのです。そこに、光の祭りの真の主であるお方、すべての人を照らすまことの光である方が入ってこられました。主イエスは神殿の中のソロモンの回廊を歩いておられます。
     そこで主イエスに「いつまで、わたしたちに気をもませるのか。もしメシアなら、はっきりそう言いなさい。」との問いを投げかけます。主イエスはこのとき、歩きながら教えておられるのに、そこに、取り囲んでというのは、教えを聞こうとするようには見えません、問いつめ、せめよるように感じられます。人びとは、この世の中に頼るべきもののないことを知り、来るべき方を長いこと待ちわびていたのです。ですから、その方がおいでになっているとしたら見逃しては大変だという、心にひそむ信仰の不安から口に出しただけなのか、あるいは、イエスについての混乱を早く終わらせたいというつめたさも見えます。
     これに答えて主イエスは事実をもって示されました。主ご自身が神の言葉の受肉された方、主の行いこそ、神のお言葉のわたしたちへの語りかけそのものです。主は、どのような人にもご自身をまったく明快にお示しになります。それでも、かたくなな心をもつ人びとには主の教えはむずかしくてわかりにくく感じるのですが、信じようとする正しい心をもつ者にとって、主の教えはわかりよく容易に理解できるものです。これまで、主は、ユダヤ人の中で公にご自分がメシアであると主張されたことはありませんでしたが、言葉と行いを通じて、ご自分が誰であるかを示してこられました。
       ニコデモに、「あなたがたは新しく生まれなければならない。」と言われた主は、ご自分が天から降った「人の子」であると告げ(3:13-14)られました,安息日にいやしを行われたときには、ユダヤの指導者たちには、ご自分が行った業は父の業であること(5:17)、さらに、神が、裁きの一切を子にゆだねられ、与えたいと思うものに命を与える業を子に任せられたと述べておられます(5:22,24-26)。これはどちらも神のもっておられる特権で神でなければなされないことです。38年間体が麻痺していた人の回復、生まれつき目の見えない人のいやし、ここには単に主のご意志のみならず、主の力をも示されています。しかし、これらのすべてにもかかわらず、「あなたたちは信じない。」と言われます。信じないユダヤの人びとには信仰のない態度がみえますので、自ら、神がイエスと結ばれた者たちに属していないことをさらけだしているようなものです。では、ユダヤの人びとはイエスについてどう考えたらよいのでしょうか。人びとが期待したメシアには、当時のこの地域において政治的・軍事的な意味の含みがあったので、主ご自身は常にそう受け取られることを避けておられました。ご自分を王にしようというのを知って退かれたことも記されます。今、目の前におられる主イエスのお言葉や行いを通して、苦難の僕や神の国の支配のことを教えられてもメシアに即座に結びつけられない、イエス・キリストを神の子だと信じないということだったでしょう。主イエスのすべての業、つまり言葉と行いは、それらが父である神の名において行われ、父のご意思と父の御力を現していることで、父がイエスを子として遣わされたことをはっきり示しているのですが、ユダヤの人びとは、このことを理解しようとしていない、信じないのです。
     なぜ人びとは信じないのでしょう。それはこれらの人びとが主イエスの羊ではないからです。主は先に、「わたしは良い羊飼いである、わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。」(14節)と言われました。主イエスを知るということ、その信仰は、わたしたちがもっているのではなくキリストの賜物です。主はわたしたち“主イエスの羊” のことを知っておられます。羊飼いが羊の名を呼んで青草に連れて行くように、知っているというのは、交わりをもっていることです。主イエスは、わたしたちのところに来てくださいました。そして交わりをもたれました。ある時には師・先生として、ある時には友だちとして、ある時には、弟子たちの足を洗われたように、わたしたちの下にあるものとなられた。そして、決定的には、わたしたちにご自分の生命を与えられる救い主として、交わりを持たれました。それだから、わたしたちは、主の御声に聞き従うのです。従うとは「ついていく」こと、主はわたしたちに先立ち行かれます、また弱く遅い者のためには、そのしんがりとなりつつ、わたしたちと歩みをともにされます。一方、信じない人びとは、主イエスの羊ではないからです。主は「わたしをお遣わしになった父が引き寄せてくださらなければ、だれもわたしのもとへ来ることはできない。」(6:44)と言われたことがあります。これら不信仰な人々の上にも、いまはそうならなくても、神の主権が働いていて引き寄せられるのです。
     ここに“わたしの羊”には、つまり主イエスに知られ、その交わりの中に入れられ、主について行くと永遠の命を与えられるのです。永遠の命は主イエスの賜物です。永遠の命とはどのようなものでしょう、この福音書の中にいくつか示されています。 渇いた者にとっての水「わたしが与える水を飲むものは決して渇かない。…その人の内で泉となり、永遠の命に至る水が湧き出る。」(4:14,7:37-38)、②今体験されるもので、最後の日の復活にクライマックスになるもの「わたしの言葉を聞いて、わたしをお遣わしになった方を信じる者は、永遠の命を得、…父は、御自身のうちに命を持っておられるように、子にも自分の内に命を持つようにしてくださったからである。」(5:24-26)③飢えた者にとってのパン「朽ちる食べ物のためではなく、…永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。これこそ、人の子があなたがたに与える食べ物である。…」(6:27)、そして④生きておられる神との関係「永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ること」(17:3)です。永遠の命とは、単に永遠に続く命ではありません。真実なことは、永遠の命は終わりがないということ、主イエスが賜物として永遠の命を与える者たちは決して滅びないのです。つまり、わたしたちは主の手に安全に守られているのです。わたしたちの救いを守っていてくださるからです。主は、わたしたちの救いが主の御手に委ねられているとはっきり言っておられます。もしこれが十分でなければ、父の力によって安全に守られると言われます。計り知れない恵みです。わたしたちが主イエスを選んだのではなく、反対にイエス・キリストがわたしたちを選んでくださったことを覚えます。ですからすべての選ばれた者の救いは、神の力が何者にも侵されないものであると同じように、確実であることを教えてくれています。そして、神である父が父であるからこそ、御子に与えてくださったものは、すべてのものより偉大だ・大いなる物と言われています。それは、御子に与えられた“主イエスの羊の群れ”に言われていることです。つまり、主イエスを信じる者たちは神からの賜物で、すべてのものより大いなる物・大切なものだということです。神の御目からご覧になってこう言われるのです。創造主なる神が罪人のわたしたちとその群れである教会を他の何物にも勝るものと見ておられる。このようにわたしたちが神から受け止められていることは、わたしたちにとって強い慰めと確信が与えられるのではないでしょうか。
      主イエスがなさるすべてのこと、言葉も行いも、父のご意志が現れているものです。主イエスは十字架の死に至るまで父である神に従順に従っていかれました。それにより主イエスの救い主としての御業を確実にされました。それは、主イエスと結ばれている者に完全な平安と失われることのないいのちとを与えられます。なぜなら、主イエスは、その約束をもってわたしたちに呼びかけ、その恵みによってわたしたちをゆるし、王として働かれてわたしたちを生かす時、御父に導かれ、御父の御旨にとどまっているからです。そこでは、主イエスひとりで働いておられるのではないです。むしろ御父と一つになり、御自身が語られ行うことを御父の宝庫から取り出されます。こうして御父もまた、主イエスと一つであって、御子の手にその豊かな富をゆだね、主イエスの言葉と行いに力を与えて、救いの完成が確かなこととされます。この祝福のもとにわたしたちは置かれています。
     このようなわたしたちですが、「わたしは主イエスの羊ではないかもしれない」と言ってはならないのです。主イエスの羊であるとは、第一に、羊飼いの声を聞きます。今わたしたちは、イエス・キリストの御言葉、御声を聞いています。そして、主は「わたしに従う」、ついてくるようにとおっしゃいます。主についていく、つまり、羊飼いである主との交わりに置かれると永遠の命が与えられるからです。なぜなら、主はわたしたち罪人のために十字架にかかり命を捨てられますが、復活されてわたしたちを復活の命によって生かしてくださるためです。「わたしの羊はわたしに従う。」と言われて、主は一つの群れを導かれます。わたしたちが、イエス・キリストのあとについて行くなら、詩編23編にあるように、主は、わたしたちの魂を生き返らせ、災いや苦しみのときも共にいて力づけ、恵みの中にとどまらせてくださるのです。しかも主イエスは、「わたしの父は今もなお働いておられる。だから、わたしも働く」(5:17)と約束しておられます。今も働かれる主にわたしたちの群れもわたしたちも従って行き、永遠の命を信じて今週もまた信仰を深めていく一人ひとりでありたいものです。
  • ヨハネによる福音書10:22〜30 「永遠の命を与える」        伝道師 熱田洋子
      神殿奉献記念祭は、エルサレムの神殿における神礼拝が回復された記念の祭りです。紀元前164年に、マカベア家のユダがシリアのアンティオコスの暴政からエルサレムを奪還して、ギリシアの偶像の神々を神殿から追い出し、ユダヤの祭司たちを神殿に取り戻してくれた、そのことにより律法にふさわしい神礼拝が回復されたことを記念する、神殿の清めの祭りのことです。
     この祭は「光の祭」とも呼ばれます。祭りを祝う灯りが、「わたしたちがほとんど希望を抱けなかった時に、礼拝の権利がわたしたちに現れた・輝いた」というヨセフスの言葉(『ユダヤ戦争史』)にちなんで用いられました。
     当時のユダヤの人びとは、それから1世紀半を超えるのに待望のメシアはまだ出現しない、あいかわらず外国の支配下にあるという、もどかしさとあせりがあったのではないかと推察できます。
     ユダヤの人びとは、歴史を通して、神が、アブラハムに語りかけ、モーセを召し、士師たちに、預言者や祭司たちにご自身をお示しになったことを知っています。そして、いま、自分たちにも神が現われて御言葉の語りかけがなされることを切に願っていたのです。そこに、光の祭りの真の主であるお方、すべての人を照らすまことの光である方が入ってこられました。主イエスは神殿の中のソロモンの回廊を歩いておられます。
     そこで主イエスに「いつまで、わたしたちに気をもませるのか。もしメシアなら、はっきりそう言いなさい。」との問いを投げかけます。主イエスはこのとき、歩きながら教えておられるのに、そこに、取り囲んでというのは、教えを聞こうとするようには見えません、問いつめ、せめよるように感じられます。人びとは、この世の中に頼るべきもののないことを知り、来るべき方を長いこと待ちわびていたのです。ですから、その方がおいでになっているとしたら見逃しては大変だという、心にひそむ信仰の不安から口に出しただけなのか、あるいは、イエスについての混乱を早く終わらせたいというつめたさも見えます。
     これに答えて主イエスは事実をもって示されました。主ご自身が神の言葉の受肉された方、主の行いこそ、神のお言葉のわたしたちへの語りかけそのものです。主は、どのような人にもご自身をまったく明快にお示しになります。それでも、かたくなな心をもつ人びとには主の教えはむずかしくてわかりにくく感じるのですが、信じようとする正しい心をもつ者にとって、主の教えはわかりよく容易に理解できるものです。これまで、主は、ユダヤ人の中で公にご自分がメシアであると主張されたことはありませんでしたが、言葉と行いを通じて、ご自分が誰であるかを示してこられました。
     ニコデモに、「あなたがたは新しく生まれなければならない。」と言われた主は、ご自分が天から降った「人の子」であると告げ(3:13-14)られました,安息日にいやしを行われたときには、ユダヤの指導者たちには、ご自分が行った業は父の業であること(5:17)、さらに、神が、裁きの一切を子にゆだねられ、与えたいと思うものに命を与える業を子に任せられたと述べておられます(5:22,24-26)。これはどちらも神のもっておられる特権で神でなければなされないことです。38年間体が麻痺していた人の回復、生まれつき目の見えない人のいやし、ここには単に主のご意志のみならず、主の力をも示されています。
     しかし、これらのすべてにもかかわらず、「あなたたちは信じない。」と言われます。信じないユダヤの人びとには信仰のない態度がみえますので、自ら、神がイエスと結ばれた者たちに属していないことをさらけだしているようなものです。
     では、ユダヤの人びとはイエスについてどう考えたらよいのでしょうか。人びとが期待したメシアには、当時のこの地域において政治的・軍事的な意味の含みがあったので、主ご自身は常にそう受け取られることを避けておられました。ご自分を王にしようというのを知って退かれたことも記されます。今、目の前におられる主イエスのお言葉や行いを通して、苦難の僕や神の国の支配のことを教えられてもメシアに即座に結びつけられない、イエス・キリストを神の子だと信じないということだったでしょう。
     主イエスのすべての業、つまり言葉と行いは、それらが父である神の名において行われ、父のご意思と父の御力を現していることで、父がイエスを子として遣わされたことをはっきり示しているのですが、ユダヤの人びとは、このことを理解しようとしていない、信じないのです。
     なぜ人びとは信じないのでしょう。それはこれらの人びとが主イエスの羊ではないからです。主は先に、「わたしは良い羊飼いである、わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。」(14節)と言われました。主イエスを知るということ、その信仰は、わたしたちがもっているのではなくキリストの賜物です。主はわたしたち“主イエスの羊” のことを知っておられます。羊飼いが羊の名を呼んで青草に連れて行くように、知っているというのは、交わりをもっていることです。主イエスは、わたしたちのところに来てくださいました。そして交わりをもたれました。ある時には師・先生として、ある時には友だちとして、ある時には、弟子たちの足を洗われたように、わたしたちの下にあるものとなられた。そして、決定的には、わたしたちにご自分の生命を与えられる救い主として、交わりを持たれました。それだから、わたしたちは、主の御声に聞き従うのです。従うとは「ついていく」こと、主はわたしたちに先立ち行かれます、また弱く遅い者のためには、そのしんがりとなりつつ、わたしたちと歩みをともにされます。
     一方、信じない人びとは、主イエスの羊ではないからです。主は「わたしをお遣わしになった父が引き寄せてくださらなければ、だれもわたしのもとへ来ることはできない。」(6:44)と言われたことがあります。これら不信仰な人々の上にも、いまはそうならなくても、神の主権が働いていて引き寄せられるのです。
     ここに“わたしの羊”には、つまり主イエスに知られ、その交わりの中に入れられ、主について行くと永遠の命を与えられるのです。永遠の命は主イエスの賜物です。永遠の命とはどのようなものでしょう、この福音書の中にいくつか示されています。
    ①渇いた者にとっての水「わたしが与える水を飲むものは決して渇かない。…その人の内で泉となり、永遠の命に至る水が湧き出る。」(4:14,7:37-38)、
    ②今体験されるもので、最後の日の復活にクライマックスになるもの「わたしの言葉を聞いて、わたしをお遣わしになった方を信じる者は、永遠の命を得、…父は、御自身のうちに命を持っておられるように、子にも自分の内に命を持つようにしてくださったからである。」(5:24-26)
    ③飢えた者にとってのパン「朽ちる食べ物のためではなく、…永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。これこそ、人の子があなたがたに与える食べ物である。…」(6:27)、
    そして④生きておられる神との関係「永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ること」(17:3)です。永遠の命とは、単に永遠に続く命ではありません。真実なことは、永遠の命は終わりがないということ、主イエスが賜物として永遠の命を与える者たちは決して滅びないのです。つまり、わたしたちは主の手に安全に守られているのです。わたしたちの救いを守っていてくださるからです。
     主は、わたしたちの救いが主の御手に委ねられているとはっきり言っておられます。もしこれが十分でなければ、父の力によって安全に守られると言われます。計り知れない恵みです。わたしたちが主イエスを選んだのではなく、反対にイエス・キリストがわたしたちを選んでくださったことを覚えます。ですからすべての選ばれた者の救いは、神の力が何者にも侵されないものであると同じように、確実であることを教えてくれています。
     そして、神である父が父であるからこそ、御子に与えてくださったものは、すべてのものより偉大だ・大いなる物と言われています。それは、御子に与えられた“主イエスの羊の群れ”に言われていることです。つまり、主イエスを信じる者たちは神からの賜物で、すべてのものより大いなる物・大切なものだということです。神の御目からご覧になってこう言われるのです。創造主なる神が罪人のわたしたちとその群れである教会を他の何物にも勝るものと見ておられる。このようにわたしたちが神から受け止められていることは、わたしたちにとって強い慰めと確信が与えられるのではないでしょうか。
     主イエスがなさるすべてのこと、言葉も行いも、父のご意志が現れているものです。主イエスは十字架の死に至るまで父である神に従順に従っていかれました。それにより主イエスの救い主としての御業を確実にされました。それは、主イエスと結ばれている者に完全な平安と失われることのないいのちとを与えられます。なぜなら、主イエスは、その約束をもってわたしたちに呼びかけ、その恵みによってわたしたちをゆるし、王として働かれてわたしたちを生かす時、御父に導かれ、御父の御旨にとどまっているからです。そこでは、主イエスひとりで働いておられるのではないです。むしろ御父と一つになり、御自身が語られ行うことを御父の宝庫から取り出されます。こうして御父もまた、主イエスと一つであって、御子の手にその豊かな富をゆだね、主イエスの言葉と行いに力を与えて、救いの完成が確かなこととされます。この祝福のもとにわたしたちは置かれています。
     このようなわたしたちですが、「わたしは主イエスの羊ではないかもしれない」と言ってはならないのです。主イエスの羊であるとは、第一に、羊飼いの声を聞きます。今わたしたちは、イエス・キリストの御言葉、御声を聞いています。そして、主は「わたしに従う」、ついてくるようにとおっしゃいます。主についていく、つまり、羊飼いである主との交わりに置かれると永遠の命が与えられるからです。なぜなら、主はわたしたち罪人のために十字架にかかり命を捨てられますが、復活されてわたしたちを復活の命によって生かしてくださるためです。
    「わたしの羊はわたしに従う。」と言われて、主は一つの群れを導かれます。わたしたちが、イエス・キリストのあとについて行くなら、詩編23編にあるように、主は、わたしたちの魂を生き返らせ、災いや苦しみのときも共にいて力づけ、恵みの中にとどまらせてくださるのです。しかも主イエスは、「わたしの父は今もなお働いておられる。だから、わたしも働く」(5:17)と約束しておられます。今も働かれる主にわたしたちの群れもわたしたちも従って行き、永遠の命を信じて今週もまた信仰を深めていく一人ひとりでありたいものです。
  • ヨハネによる福音書10:22〜30 「永遠の命を与える」        伝道師 熱田洋子
      神殿奉献記念祭は、エルサレムの神殿における神礼拝が回復された記念の祭りです。紀元前164年に、マカベア家のユダがシリアのアンティオコスの暴政からエルサレムを奪還して、ギリシアの偶像の神々を神殿から追い出し、ユダヤの祭司たちを神殿に取り戻してくれた、そのことにより律法にふさわしい神礼拝が回復されたことを記念する、神殿の清めの祭りのことです。
     この祭は「光の祭」とも呼ばれます。祭りを祝う灯りが、「わたしたちがほとんど希望を抱けなかった時に、礼拝の権利がわたしたちに現れた・輝いた」というヨセフスの言葉(『ユダヤ戦争史』)にちなんで用いられました。
     当時のユダヤの人びとは、それから1世紀半を超えるのに待望のメシアはまだ出現しない、あいかわらず外国の支配下にあるという、もどかしさとあせりがあったのではないかと推察できます。
     ユダヤの人びとは、歴史を通して、神が、アブラハムに語りかけ、モーセを召し、士師たちに、預言者や祭司たちにご自身をお示しになったことを知っています。そして、いま、自分たちにも神が現われて御言葉の語りかけがなされることを切に願っていたのです。そこに、光の祭りの真の主であるお方、すべての人を照らすまことの光である方が入ってこられました。主イエスは神殿の中のソロモンの回廊を歩いておられます。
     そこで主イエスに「いつまで、わたしたちに気をもませるのか。もしメシアなら、はっきりそう言いなさい。」との問いを投げかけます。主イエスはこのとき、歩きながら教えておられるのに、そこに、取り囲んでというのは、教えを聞こうとするようには見えません、問いつめ、せめよるように感じられます。人びとは、この世の中に頼るべきもののないことを知り、来るべき方を長いこと待ちわびていたのです。ですから、その方がおいでになっているとしたら見逃しては大変だという、心にひそむ信仰の不安から口に出しただけなのか、あるいは、イエスについての混乱を早く終わらせたいというつめたさも見えます。
     これに答えて主イエスは事実をもって示されました。主ご自身が神の言葉の受肉された方、主の行いこそ、神のお言葉のわたしたちへの語りかけそのものです。主は、どのような人にもご自身をまったく明快にお示しになります。それでも、かたくなな心をもつ人びとには主の教えはむずかしくてわかりにくく感じるのですが、信じようとする正しい心をもつ者にとって、主の教えはわかりよく容易に理解できるものです。これまで、主は、ユダヤ人の中で公にご自分がメシアであると主張されたことはありませんでしたが、言葉と行いを通じて、ご自分が誰であるかを示してこられました。
     ニコデモに、「あなたがたは新しく生まれなければならない。」と言われた主は、ご自分が天から降った「人の子」であると告げ(3:13-14)られました,安息日にいやしを行われたときには、ユダヤの指導者たちには、ご自分が行った業は父の業であること(5:17)、さらに、神が、裁きの一切を子にゆだねられ、与えたいと思うものに命を与える業を子に任せられたと述べておられます(5:22,24-26)。これはどちらも神のもっておられる特権で神でなければなされないことです。38年間体が麻痺していた人の回復、生まれつき目の見えない人のいやし、ここには単に主のご意志のみならず、主の力をも示されています。
     しかし、これらのすべてにもかかわらず、「あなたたちは信じない。」と言われます。信じないユダヤの人びとには信仰のない態度がみえますので、自ら、神がイエスと結ばれた者たちに属していないことをさらけだしているようなものです。
     では、ユダヤの人びとはイエスについてどう考えたらよいのでしょうか。人びとが期待したメシアには、当時のこの地域において政治的・軍事的な意味の含みがあったので、主ご自身は常にそう受け取られることを避けておられました。ご自分を王にしようというのを知って退かれたことも記されます。今、目の前におられる主イエスのお言葉や行いを通して、苦難の僕や神の国の支配のことを教えられてもメシアに即座に結びつけられない、イエス・キリストを神の子だと信じないということだったでしょう。
     主イエスのすべての業、つまり言葉と行いは、それらが父である神の名において行われ、父のご意思と父の御力を現していることで、父がイエスを子として遣わされたことをはっきり示しているのですが、ユダヤの人びとは、このことを理解しようとしていない、信じないのです。
     なぜ人びとは信じないのでしょう。それはこれらの人びとが主イエスの羊ではないからです。主は先に、「わたしは良い羊飼いである、わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。」(14節)と言われました。主イエスを知るということ、その信仰は、わたしたちがもっているのではなくキリストの賜物です。主はわたしたち“主イエスの羊” のことを知っておられます。羊飼いが羊の名を呼んで青草に連れて行くように、知っているというのは、交わりをもっていることです。主イエスは、わたしたちのところに来てくださいました。そして交わりをもたれました。ある時には師・先生として、ある時には友だちとして、ある時には、弟子たちの足を洗われたように、わたしたちの下にあるものとなられた。そして、決定的には、わたしたちにご自分の生命を与えられる救い主として、交わりを持たれました。それだから、わたしたちは、主の御声に聞き従うのです。従うとは「ついていく」こと、主はわたしたちに先立ち行かれます、また弱く遅い者のためには、そのしんがりとなりつつ、わたしたちと歩みをともにされます。
     一方、信じない人びとは、主イエスの羊ではないからです。主は「わたしをお遣わしになった父が引き寄せてくださらなければ、だれもわたしのもとへ来ることはできない。」(6:44)と言われたことがあります。これら不信仰な人々の上にも、いまはそうならなくても、神の主権が働いていて引き寄せられるのです。
     ここに“わたしの羊”には、つまり主イエスに知られ、その交わりの中に入れられ、主について行くと永遠の命を与えられるのです。永遠の命は主イエスの賜物です。永遠の命とはどのようなものでしょう、この福音書の中にいくつか示されています。
    ①渇いた者にとっての水「わたしが与える水を飲むものは決して渇かない。…その人の内で泉となり、永遠の命に至る水が湧き出る。」(4:14,7:37-38)、
    ②今体験されるもので、最後の日の復活にクライマックスになるもの「わたしの言葉を聞いて、わたしをお遣わしになった方を信じる者は、永遠の命を得、…父は、御自身のうちに命を持っておられるように、子にも自分の内に命を持つようにしてくださったからである。」(5:24-26)
    ③飢えた者にとってのパン「朽ちる食べ物のためではなく、…永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。これこそ、人の子があなたがたに与える食べ物である。…」(6:27)、
    そして④生きておられる神との関係「永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ること」(17:3)です。永遠の命とは、単に永遠に続く命ではありません。真実なことは、永遠の命は終わりがないということ、主イエスが賜物として永遠の命を与える者たちは決して滅びないのです。つまり、わたしたちは主の手に安全に守られているのです。わたしたちの救いを守っていてくださるからです。
     主は、わたしたちの救いが主の御手に委ねられているとはっきり言っておられます。もしこれが十分でなければ、父の力によって安全に守られると言われます。計り知れない恵みです。わたしたちが主イエスを選んだのではなく、反対にイエス・キリストがわたしたちを選んでくださったことを覚えます。ですからすべての選ばれた者の救いは、神の力が何者にも侵されないものであると同じように、確実であることを教えてくれています。
     そして、神である父が父であるからこそ、御子に与えてくださったものは、すべてのものより偉大だ・大いなる物と言われています。それは、御子に与えられた“主イエスの羊の群れ”に言われていることです。つまり、主イエスを信じる者たちは神からの賜物で、すべてのものより大いなる物・大切なものだということです。神の御目からご覧になってこう言われるのです。創造主なる神が罪人のわたしたちとその群れである教会を他の何物にも勝るものと見ておられる。このようにわたしたちが神から受け止められていることは、わたしたちにとって強い慰めと確信が与えられるのではないでしょうか。
     主イエスがなさるすべてのこと、言葉も行いも、父のご意志が現れているものです。主イエスは十字架の死に至るまで父である神に従順に従っていかれました。それにより主イエスの救い主としての御業を確実にされました。それは、主イエスと結ばれている者に完全な平安と失われることのないいのちとを与えられます。なぜなら、主イエスは、その約束をもってわたしたちに呼びかけ、その恵みによってわたしたちをゆるし、王として働かれてわたしたちを生かす時、御父に導かれ、御父の御旨にとどまっているからです。そこでは、主イエスひとりで働いておられるのではないです。むしろ御父と一つになり、御自身が語られ行うことを御父の宝庫から取り出されます。こうして御父もまた、主イエスと一つであって、御子の手にその豊かな富をゆだね、主イエスの言葉と行いに力を与えて、救いの完成が確かなこととされます。この祝福のもとにわたしたちは置かれています。
     このようなわたしたちですが、「わたしは主イエスの羊ではないかもしれない」と言ってはならないのです。主イエスの羊であるとは、第一に、羊飼いの声を聞きます。今わたしたちは、イエス・キリストの御言葉、御声を聞いています。そして、主は「わたしに従う」、ついてくるようにとおっしゃいます。主についていく、つまり、羊飼いである主との交わりに置かれると永遠の命が与えられるからです。なぜなら、主はわたしたち罪人のために十字架にかかり命を捨てられますが、復活されてわたしたちを復活の命によって生かしてくださるためです。
    「わたしの羊はわたしに従う。」と言われて、主は一つの群れを導かれます。わたしたちが、イエス・キリストのあとについて行くなら、詩編23編にあるように、主は、わたしたちの魂を生き返らせ、災いや苦しみのときも共にいて力づけ、恵みの中にとどまらせてくださるのです。しかも主イエスは、「わたしの父は今もなお働いておられる。だから、わたしも働く」(5:17)と約束しておられます。今も働かれる主にわたしたちの群れもわたしたちも従って行き、永遠の命を信じて今週もまた信仰を深めていく一人ひとりでありたいものです。
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5月18日の説教から
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  • 5月18日「神が人と共に住む」 

    2025.5.18 ヨハネの黙示録21:1〜6 「神が人と共に住む」抜粋  伝道師 熱田洋子
     ヨハネ黙示録には、キリストの復活と昇天から、その再臨と、全世界に対するその支配の確立にいたるまでの、終わりの出来事の経過が述べられています。
     この世界は終わる、しかも神によってすすめられることをこの黙示録は語ります。わたしたちの信仰は、この世界は、神によって造られ、神によってはじまっていて、世界全体に対する神のご支配、主権が明確に示されます。わたしたちの救いの根拠はそこにあります。
     そして神によってこの世界が終わるとは、神のご支配・神の国が完成すること、すなわち、そのことによってわたしたちの救いが完成することです。
     神によってこの世界が終わることは、わたしたちが信じている最終的な救い、「日本キリスト教会信仰の告白」で「救いの完成される日」までとある日のことです。わたしたちは、この究極的な希望において生きている者たちです。神によって、この世界が終わることこそ、わたしたちの救いの完成であり、そこに究極の希望があります。
     今の世界が終わるのです。今わたしたちが生きているこの世界は、神によって造られた「最初のもの」であって、神によって「去って行き」ます。この世界と歴史のすべてが神のご支配の下にあるということ。わたしたちは神によって「過ぎ去る」世界を生きています。わたしたちはこの世界を生きている限り、世界に渦巻いているさまざまな力によってとらえられ、支配され、翻弄されているといえます。
     しかし、それらすべてのものは「去って行く」のです。 “この世界を造られ、それを終わらせる、ただ一人の真の神がおられ、このお方こそが支配しておられる”、このことを信じる時に、わたしたちはこの世界のさまざまなものの支配から解放されます。
      今、世界の終わりというと、ある意味で現実的なこととして見つめられているのでなないでしょうか。多くの人が危機感を抱いていると思います。地球温暖化による異常気象が頻発するようになり、東日本大震災のような思いがけない災害、コロナ禍と新たに伴う病気のリスクも高まり、地球における人間の存在が脅かされつつあること、また福島第一原発の事故の恐ろしさ、戦禍や紛争の終わりが定かではないことや核兵器が用いられると人類が滅びることも、現実的な危機としてあります。現代を生きるわたしたちは、「この世の終わりのような破局」がいつ起こるかもしれないという危機感を覚えます。
     この世界には終わることはないと思っている人々も、人間の生きるこの世界には終わりが来るかもしれないと恐れをもっているのではないでしょうか。
     しかし、わたしたちはこの世の終わり滅亡として恐れている人々に本当の終わりを示すことができるのです。この世界の本当の終わりは滅亡ではなくて、神による救いの完成であるという「福音」を語るのです。それがわたしたちキリスト者の使命です。
     新しい世界において救いは完成します。ここでは、今この世界が終わり、新しい世界が神によってもたらされるというのです。どのような世界でしょう。今のこの世界とはどこが違うのでしょうか。
     救いの完成は、神が「新しい天と新しい地」を与えてくださることです。新しい天と新しい地の到来は、イザヤ書65:17に記された期待が成就されること。「見よ、わたしは新しい天と新しい地を創造する。…」、神が民を罪と抑圧からだけでなく、これらの可能性そのものから救い出すという、神の民の求める渇望に応えています。新しい世界において無くなるものを語っているのが「もはや海もなくなった」(1節)ことです。
    「海」は、旧約聖書において海が「混沌」の象徴とされていたことの関連を見ることができます。東日本大震災における津波を体験した人びとの間で、この言葉が新たな意味を持って読まれているということも聞かされます。
     さらに、聖なる都、新しいエルサレムが天から降ってきます。これは神の住まいであり神の民の住まいで、神がご自身に属する教会のために故郷として用意されたのです。「新しい天と新しい地」と新しいエルサレムとはどちらも新しい、同じように考えられますが、新しいエルサレムの方に重点が置かれます。創造の初めから天上に存在していると考えられていたものです。
     そのとき、大きな声が聞こえます。今、見た「新しい天と新しい地」が具体的に信徒たちに何をもたらすかを述べます。それが真実であり、信用できることであると、神ご自身によって、すべてを新たにすると宣言されたのです。それは、これから起こることであるとともに現在の教会、教会のわたしたちに向けて勧告の意味もあきらかにみてとれます。
     玉座からの声は、神は時の終わりに人びとに対する新しい関係を立てられ、そのことが人びとに何をもたらすかを語りかけます。
    1「神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。」神の民というと、エゼ37:27「わたしの住まいは彼らと共にあり、わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。」を引き継いでいます。ここでは神の幕屋より“神の民”の方に大きな関心をもっています。
    2「人と共にいて」というのは、注目に価します。“人と共にいて”という言い方がここで繰り返され、神と人間との関係の密接さをよく表しています。また、「神が人と共に住み、…神は自ら人と共にいて、その神となり」と言われ、神が人とともにいることをいかに重要視しているのかを示しています。
    3「彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。」とあるのは、イザヤ25:8「死を永久に滅ぼしてくださる。主なる神は、すべての顔から涙をぬぐい …これは主が語られたことである。」の影響を受けています。「新しい天と新しい地」を述べるとき、これらのものは、今、この世界においてわたしたちを捕え、苦しめているものです。とりわけ、「死」はこれらすべての根源にある「最後の敵」(コリ一15:26)です。死を中心とするこれらのものが、今のこの世で生きているわたしたちを捕え、脅かし、苦しめているのですが、その世界が神によって「過ぎ去り」新しい世界が与えられる時に、それらのものは、もはやなくなるのです。
     すると、玉座に座っておられる方である神が「見よ、わたしは万物を新しくする」と宣言されます。イザヤ43:19「見よ、新しいことをわたしは行う…」によっています。それに万物と加えます。イザヤ書は現在の世界の存続を前提しているのに対し、ここは、現在の世界の完全な終わりを考えています。この宣言から、すべてのものを新しくするとは、神ご自身の業であること、神が人と共にいて、その神となるとの発言の後で語られることにより、神による創造と救いとが一つであることを明らかにしています。
     そして「事は成就した」のです。その直前に、「書き記せ。これらの言葉は信頼でき、また真実である」と言われます。これらの言葉とは、この黙示録全体のことを念頭に置いていて、先の神の発言のことでしょう。神の宣言は、“万物を新しくする”、それによって信徒の救いが完成するということです、これは、この使信の中心ともいうべき事柄で、真実であることをはっきりさせるためにここで言われたのでしょう。
    「成就した」と神が語られ、信仰者に救いの完成をもたらします。神は創造者であり完成者としての全能を簡潔に表わすために、アルファとオメガという定式を用いています。
     神は、最初のものは去って行ったと言われ、人々の運命に注意を向けます。このとき、忠実な信仰者たちの運命、つまりキリスト者は、渇いている者と呼ばれます。忠実な者の運命、つまり渇いている者には、もはや死はない、イザヤ55:1 にあるように、「渇きを覚えている者は皆、水のところに来るがよい。」価なしに、飲ませようと呼びかけられます。
     キリスト者の生き方を示しています、“渇き”は救いを強く求めます。キリスト者はこの世にあって “渇く” 、つまり生活する上で、辛い生活を耐えねばならない、苦難を通ることもあったでしょう、しかし、終末に際して、もはや渇くこともなくなるのです。「価なしに」と言われて、救いが基本的には神の恵みであることを示しています。
     新しい世界の「新しさ」とは、神と人との関係が新しくされること、神が人と共にいてくださり、人をご自分の民にしてくださる。しかも、それは神ご自身が恵みによって与えてくださることです。これこそが、新しい世界において実現する「救い」です。実はこの救いは、神の独り子イエス・キリストによって、すでに実現し、与えられているものです。イエス・キリストによって「インマヌエル(神はわたしたちと共におられる)」(マタイ1:23)という救いが実現したのです。
     復活された主イエスは「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(マタイ28:20)と約束してくださいました。キリストを信じて洗礼を受け、新しい神の民である教会に加えられることによって、わたしたちはこの救いにあずかり、キリストが打ち立ててくださった神との新しい関係を生き始めることができるのです。
     そして、「信仰の告白」において、復活の主は「救いの完成される日までわたしたちのために執り成してくださいます。」とあるように、救い主イエス・キリストを信じる者の側に立って、神の赦しをいただけるよう執り成していてくださいます。ですからわたしたちは滅びに向かうものではなく「救いの完成」へと希望をもって向かうことができます。
     今のこの世界においては、キリストによって実現した、この救いは隠されていて、目に見える事実ではないのです、「望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認すること」(ヘブライ11:1)が信仰です。しかし最後には、この世界が終わり、神によって新しい世界が与えられる時が来ます。そのときには、今は隠されている救いが完成し、誰の目にもはっきりとあらわになります。教会は、この希望に生きている群れです。わたしたちも救いの完成される日の希望を持って信仰を深める一人ひとりでありたいものです。
  • ヨハネによる福音書10:22〜30 「永遠の命を与える」        伝道師 熱田洋子
      神殿奉献記念祭は、エルサレムの神殿における神礼拝が回復された記念の祭りです。紀元前164年に、マカベア家のユダがシリアのアンティオコスの暴政からエルサレムを奪還して、ギリシアの偶像の神々を神殿から追い出し、ユダヤの祭司たちを神殿に取り戻してくれた、そのことにより律法にふさわしい神礼拝が回復されたことを記念する、神殿の清めの祭りのことです。
     この祭は「光の祭」とも呼ばれます。祭りを祝う灯りが、「わたしたちがほとんど希望を抱けなかった時に、礼拝の権利がわたしたちに現れた・輝いた」というヨセフスの言葉(『ユダヤ戦争史』)にちなんで用いられました。
     当時のユダヤの人びとは、それから1世紀半を超えるのに待望のメシアはまだ出現しない、あいかわらず外国の支配下にあるという、もどかしさとあせりがあったのではないかと推察できます。
     ユダヤの人びとは、歴史を通して、神が、アブラハムに語りかけ、モーセを召し、士師たちに、預言者や祭司たちにご自身をお示しになったことを知っています。そして、いま、自分たちにも神が現われて御言葉の語りかけがなされることを切に願っていたのです。そこに、光の祭りの真の主であるお方、すべての人を照らすまことの光である方が入ってこられました。主イエスは神殿の中のソロモンの回廊を歩いておられます。
     そこで主イエスに「いつまで、わたしたちに気をもませるのか。もしメシアなら、はっきりそう言いなさい。」との問いを投げかけます。主イエスはこのとき、歩きながら教えておられるのに、そこに、取り囲んでというのは、教えを聞こうとするようには見えません、問いつめ、せめよるように感じられます。人びとは、この世の中に頼るべきもののないことを知り、来るべき方を長いこと待ちわびていたのです。ですから、その方がおいでになっているとしたら見逃しては大変だという、心にひそむ信仰の不安から口に出しただけなのか、あるいは、イエスについての混乱を早く終わらせたいというつめたさも見えます。
     これに答えて主イエスは事実をもって示されました。主ご自身が神の言葉の受肉された方、主の行いこそ、神のお言葉のわたしたちへの語りかけそのものです。主は、どのような人にもご自身をまったく明快にお示しになります。それでも、かたくなな心をもつ人びとには主の教えはむずかしくてわかりにくく感じるのですが、信じようとする正しい心をもつ者にとって、主の教えはわかりよく容易に理解できるものです。これまで、主は、ユダヤ人の中で公にご自分がメシアであると主張されたことはありませんでしたが、言葉と行いを通じて、ご自分が誰であるかを示してこられました。
     ニコデモに、「あなたがたは新しく生まれなければならない。」と言われた主は、ご自分が天から降った「人の子」であると告げ(3:13-14)られました,安息日にいやしを行われたときには、ユダヤの指導者たちには、ご自分が行った業は父の業であること(5:17)、さらに、神が、裁きの一切を子にゆだねられ、与えたいと思うものに命を与える業を子に任せられたと述べておられます(5:22,24-26)。これはどちらも神のもっておられる特権で神でなければなされないことです。38年間体が麻痺していた人の回復、生まれつき目の見えない人のいやし、ここには単に主のご意志のみならず、主の力をも示されています。
     しかし、これらのすべてにもかかわらず、「あなたたちは信じない。」と言われます。信じないユダヤの人びとには信仰のない態度がみえますので、自ら、神がイエスと結ばれた者たちに属していないことをさらけだしているようなものです。
     では、ユダヤの人びとはイエスについてどう考えたらよいのでしょうか。人びとが期待したメシアには、当時のこの地域において政治的・軍事的な意味の含みがあったので、主ご自身は常にそう受け取られることを避けておられました。ご自分を王にしようというのを知って退かれたことも記されます。今、目の前におられる主イエスのお言葉や行いを通して、苦難の僕や神の国の支配のことを教えられてもメシアに即座に結びつけられない、イエス・キリストを神の子だと信じないということだったでしょう。
     主イエスのすべての業、つまり言葉と行いは、それらが父である神の名において行われ、父のご意思と父の御力を現していることで、父がイエスを子として遣わされたことをはっきり示しているのですが、ユダヤの人びとは、このことを理解しようとしていない、信じないのです。
     なぜ人びとは信じないのでしょう。それはこれらの人びとが主イエスの羊ではないからです。主は先に、「わたしは良い羊飼いである、わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。」(14節)と言われました。主イエスを知るということ、その信仰は、わたしたちがもっているのではなくキリストの賜物です。主はわたしたち“主イエスの羊” のことを知っておられます。羊飼いが羊の名を呼んで青草に連れて行くように、知っているというのは、交わりをもっていることです。主イエスは、わたしたちのところに来てくださいました。そして交わりをもたれました。ある時には師・先生として、ある時には友だちとして、ある時には、弟子たちの足を洗われたように、わたしたちの下にあるものとなられた。そして、決定的には、わたしたちにご自分の生命を与えられる救い主として、交わりを持たれました。それだから、わたしたちは、主の御声に聞き従うのです。従うとは「ついていく」こと、主はわたしたちに先立ち行かれます、また弱く遅い者のためには、そのしんがりとなりつつ、わたしたちと歩みをともにされます。
     一方、信じない人びとは、主イエスの羊ではないからです。主は「わたしをお遣わしになった父が引き寄せてくださらなければ、だれもわたしのもとへ来ることはできない。」(6:44)と言われたことがあります。これら不信仰な人々の上にも、いまはそうならなくても、神の主権が働いていて引き寄せられるのです。
     ここに“わたしの羊”には、つまり主イエスに知られ、その交わりの中に入れられ、主について行くと永遠の命を与えられるのです。永遠の命は主イエスの賜物です。永遠の命とはどのようなものでしょう、この福音書の中にいくつか示されています。
    ①渇いた者にとっての水「わたしが与える水を飲むものは決して渇かない。…その人の内で泉となり、永遠の命に至る水が湧き出る。」(4:14,7:37-38)、
    ②今体験されるもので、最後の日の復活にクライマックスになるもの「わたしの言葉を聞いて、わたしをお遣わしになった方を信じる者は、永遠の命を得、…父は、御自身のうちに命を持っておられるように、子にも自分の内に命を持つようにしてくださったからである。」(5:24-26)
    ③飢えた者にとってのパン「朽ちる食べ物のためではなく、…永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。これこそ、人の子があなたがたに与える食べ物である。…」(6:27)、
    そして④生きておられる神との関係「永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ること」(17:3)です。永遠の命とは、単に永遠に続く命ではありません。真実なことは、永遠の命は終わりがないということ、主イエスが賜物として永遠の命を与える者たちは決して滅びないのです。つまり、わたしたちは主の手に安全に守られているのです。わたしたちの救いを守っていてくださるからです。
     主は、わたしたちの救いが主の御手に委ねられているとはっきり言っておられます。もしこれが十分でなければ、父の力によって安全に守られると言われます。計り知れない恵みです。わたしたちが主イエスを選んだのではなく、反対にイエス・キリストがわたしたちを選んでくださったことを覚えます。ですからすべての選ばれた者の救いは、神の力が何者にも侵されないものであると同じように、確実であることを教えてくれています。
     そして、神である父が父であるからこそ、御子に与えてくださったものは、すべてのものより偉大だ・大いなる物と言われています。それは、御子に与えられた“主イエスの羊の群れ”に言われていることです。つまり、主イエスを信じる者たちは神からの賜物で、すべてのものより大いなる物・大切なものだということです。神の御目からご覧になってこう言われるのです。創造主なる神が罪人のわたしたちとその群れである教会を他の何物にも勝るものと見ておられる。このようにわたしたちが神から受け止められていることは、わたしたちにとって強い慰めと確信が与えられるのではないでしょうか。
     主イエスがなさるすべてのこと、言葉も行いも、父のご意志が現れているものです。主イエスは十字架の死に至るまで父である神に従順に従っていかれました。それにより主イエスの救い主としての御業を確実にされました。それは、主イエスと結ばれている者に完全な平安と失われることのないいのちとを与えられます。なぜなら、主イエスは、その約束をもってわたしたちに呼びかけ、その恵みによってわたしたちをゆるし、王として働かれてわたしたちを生かす時、御父に導かれ、御父の御旨にとどまっているからです。そこでは、主イエスひとりで働いておられるのではないです。むしろ御父と一つになり、御自身が語られ行うことを御父の宝庫から取り出されます。こうして御父もまた、主イエスと一つであって、御子の手にその豊かな富をゆだね、主イエスの言葉と行いに力を与えて、救いの完成が確かなこととされます。この祝福のもとにわたしたちは置かれています。
     このようなわたしたちですが、「わたしは主イエスの羊ではないかもしれない」と言ってはならないのです。主イエスの羊であるとは、第一に、羊飼いの声を聞きます。今わたしたちは、イエス・キリストの御言葉、御声を聞いています。そして、主は「わたしに従う」、ついてくるようにとおっしゃいます。主についていく、つまり、羊飼いである主との交わりに置かれると永遠の命が与えられるからです。なぜなら、主はわたしたち罪人のために十字架にかかり命を捨てられますが、復活されてわたしたちを復活の命によって生かしてくださるためです。
    「わたしの羊はわたしに従う。」と言われて、主は一つの群れを導かれます。わたしたちが、イエス・キリストのあとについて行くなら、詩編23編にあるように、主は、わたしたちの魂を生き返らせ、災いや苦しみのときも共にいて力づけ、恵みの中にとどまらせてくださるのです。しかも主イエスは、「わたしの父は今もなお働いておられる。だから、わたしも働く」(5:17)と約束しておられます。今も働かれる主にわたしたちの群れもわたしたちも従って行き、永遠の命を信じて今週もまた信仰を深めていく一人ひとりでありたいものです。
  • ヨハネによる福音書10:22〜30 「永遠の命を与える」        伝道師 熱田洋子
      神殿奉献記念祭は、エルサレムの神殿における神礼拝が回復された記念の祭りです。紀元前164年に、マカベア家のユダがシリアのアンティオコスの暴政からエルサレムを奪還して、ギリシアの偶像の神々を神殿から追い出し、ユダヤの祭司たちを神殿に取り戻してくれた、そのことにより律法にふさわしい神礼拝が回復されたことを記念する、神殿の清めの祭りのことです。
     この祭は「光の祭」とも呼ばれます。祭りを祝う灯りが、「わたしたちがほとんど希望を抱けなかった時に、礼拝の権利がわたしたちに現れた・輝いた」というヨセフスの言葉(『ユダヤ戦争史』)にちなんで用いられました。
     当時のユダヤの人びとは、それから1世紀半を超えるのに待望のメシアはまだ出現しない、あいかわらず外国の支配下にあるという、もどかしさとあせりがあったのではないかと推察できます。
     ユダヤの人びとは、歴史を通して、神が、アブラハムに語りかけ、モーセを召し、士師たちに、預言者や祭司たちにご自身をお示しになったことを知っています。そして、いま、自分たちにも神が現われて御言葉の語りかけがなされることを切に願っていたのです。そこに、光の祭りの真の主であるお方、すべての人を照らすまことの光である方が入ってこられました。主イエスは神殿の中のソロモンの回廊を歩いておられます。
     そこで主イエスに「いつまで、わたしたちに気をもませるのか。もしメシアなら、はっきりそう言いなさい。」との問いを投げかけます。主イエスはこのとき、歩きながら教えておられるのに、そこに、取り囲んでというのは、教えを聞こうとするようには見えません、問いつめ、せめよるように感じられます。人びとは、この世の中に頼るべきもののないことを知り、来るべき方を長いこと待ちわびていたのです。ですから、その方がおいでになっているとしたら見逃しては大変だという、心にひそむ信仰の不安から口に出しただけなのか、あるいは、イエスについての混乱を早く終わらせたいというつめたさも見えます。
     これに答えて主イエスは事実をもって示されました。主ご自身が神の言葉の受肉された方、主の行いこそ、神のお言葉のわたしたちへの語りかけそのものです。主は、どのような人にもご自身をまったく明快にお示しになります。それでも、かたくなな心をもつ人びとには主の教えはむずかしくてわかりにくく感じるのですが、信じようとする正しい心をもつ者にとって、主の教えはわかりよく容易に理解できるものです。これまで、主は、ユダヤ人の中で公にご自分がメシアであると主張されたことはありませんでしたが、言葉と行いを通じて、ご自分が誰であるかを示してこられました。
     ニコデモに、「あなたがたは新しく生まれなければならない。」と言われた主は、ご自分が天から降った「人の子」であると告げ(3:13-14)られました,安息日にいやしを行われたときには、ユダヤの指導者たちには、ご自分が行った業は父の業であること(5:17)、さらに、神が、裁きの一切を子にゆだねられ、与えたいと思うものに命を与える業を子に任せられたと述べておられます(5:22,24-26)。これはどちらも神のもっておられる特権で神でなければなされないことです。38年間体が麻痺していた人の回復、生まれつき目の見えない人のいやし、ここには単に主のご意志のみならず、主の力をも示されています。
     しかし、これらのすべてにもかかわらず、「あなたたちは信じない。」と言われます。信じないユダヤの人びとには信仰のない態度がみえますので、自ら、神がイエスと結ばれた者たちに属していないことをさらけだしているようなものです。
     では、ユダヤの人びとはイエスについてどう考えたらよいのでしょうか。人びとが期待したメシアには、当時のこの地域において政治的・軍事的な意味の含みがあったので、主ご自身は常にそう受け取られることを避けておられました。ご自分を王にしようというのを知って退かれたことも記されます。今、目の前におられる主イエスのお言葉や行いを通して、苦難の僕や神の国の支配のことを教えられてもメシアに即座に結びつけられない、イエス・キリストを神の子だと信じないということだったでしょう。
     主イエスのすべての業、つまり言葉と行いは、それらが父である神の名において行われ、父のご意思と父の御力を現していることで、父がイエスを子として遣わされたことをはっきり示しているのですが、ユダヤの人びとは、このことを理解しようとしていない、信じないのです。
     なぜ人びとは信じないのでしょう。それはこれらの人びとが主イエスの羊ではないからです。主は先に、「わたしは良い羊飼いである、わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。」(14節)と言われました。主イエスを知るということ、その信仰は、わたしたちがもっているのではなくキリストの賜物です。主はわたしたち“主イエスの羊” のことを知っておられます。羊飼いが羊の名を呼んで青草に連れて行くように、知っているというのは、交わりをもっていることです。主イエスは、わたしたちのところに来てくださいました。そして交わりをもたれました。ある時には師・先生として、ある時には友だちとして、ある時には、弟子たちの足を洗われたように、わたしたちの下にあるものとなられた。そして、決定的には、わたしたちにご自分の生命を与えられる救い主として、交わりを持たれました。それだから、わたしたちは、主の御声に聞き従うのです。従うとは「ついていく」こと、主はわたしたちに先立ち行かれます、また弱く遅い者のためには、そのしんがりとなりつつ、わたしたちと歩みをともにされます。
     一方、信じない人びとは、主イエスの羊ではないからです。主は「わたしをお遣わしになった父が引き寄せてくださらなければ、だれもわたしのもとへ来ることはできない。」(6:44)と言われたことがあります。これら不信仰な人々の上にも、いまはそうならなくても、神の主権が働いていて引き寄せられるのです。
     ここに“わたしの羊”には、つまり主イエスに知られ、その交わりの中に入れられ、主について行くと永遠の命を与えられるのです。永遠の命は主イエスの賜物です。永遠の命とはどのようなものでしょう、この福音書の中にいくつか示されています。
    ①渇いた者にとっての水「わたしが与える水を飲むものは決して渇かない。…その人の内で泉となり、永遠の命に至る水が湧き出る。」(4:14,7:37-38)、
    ②今体験されるもので、最後の日の復活にクライマックスになるもの「わたしの言葉を聞いて、わたしをお遣わしになった方を信じる者は、永遠の命を得、…父は、御自身のうちに命を持っておられるように、子にも自分の内に命を持つようにしてくださったからである。」(5:24-26)
    ③飢えた者にとってのパン「朽ちる食べ物のためではなく、…永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。これこそ、人の子があなたがたに与える食べ物である。…」(6:27)、
    そして④生きておられる神との関係「永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ること」(17:3)です。永遠の命とは、単に永遠に続く命ではありません。真実なことは、永遠の命は終わりがないということ、主イエスが賜物として永遠の命を与える者たちは決して滅びないのです。つまり、わたしたちは主の手に安全に守られているのです。わたしたちの救いを守っていてくださるからです。
     主は、わたしたちの救いが主の御手に委ねられているとはっきり言っておられます。もしこれが十分でなければ、父の力によって安全に守られると言われます。計り知れない恵みです。わたしたちが主イエスを選んだのではなく、反対にイエス・キリストがわたしたちを選んでくださったことを覚えます。ですからすべての選ばれた者の救いは、神の力が何者にも侵されないものであると同じように、確実であることを教えてくれています。
     そして、神である父が父であるからこそ、御子に与えてくださったものは、すべてのものより偉大だ・大いなる物と言われています。それは、御子に与えられた“主イエスの羊の群れ”に言われていることです。つまり、主イエスを信じる者たちは神からの賜物で、すべてのものより大いなる物・大切なものだということです。神の御目からご覧になってこう言われるのです。創造主なる神が罪人のわたしたちとその群れである教会を他の何物にも勝るものと見ておられる。このようにわたしたちが神から受け止められていることは、わたしたちにとって強い慰めと確信が与えられるのではないでしょうか。
     主イエスがなさるすべてのこと、言葉も行いも、父のご意志が現れているものです。主イエスは十字架の死に至るまで父である神に従順に従っていかれました。それにより主イエスの救い主としての御業を確実にされました。それは、主イエスと結ばれている者に完全な平安と失われることのないいのちとを与えられます。なぜなら、主イエスは、その約束をもってわたしたちに呼びかけ、その恵みによってわたしたちをゆるし、王として働かれてわたしたちを生かす時、御父に導かれ、御父の御旨にとどまっているからです。そこでは、主イエスひとりで働いておられるのではないです。むしろ御父と一つになり、御自身が語られ行うことを御父の宝庫から取り出されます。こうして御父もまた、主イエスと一つであって、御子の手にその豊かな富をゆだね、主イエスの言葉と行いに力を与えて、救いの完成が確かなこととされます。この祝福のもとにわたしたちは置かれています。
     このようなわたしたちですが、「わたしは主イエスの羊ではないかもしれない」と言ってはならないのです。主イエスの羊であるとは、第一に、羊飼いの声を聞きます。今わたしたちは、イエス・キリストの御言葉、御声を聞いています。そして、主は「わたしに従う」、ついてくるようにとおっしゃいます。主についていく、つまり、羊飼いである主との交わりに置かれると永遠の命が与えられるからです。なぜなら、主はわたしたち罪人のために十字架にかかり命を捨てられますが、復活されてわたしたちを復活の命によって生かしてくださるためです。
    「わたしの羊はわたしに従う。」と言われて、主は一つの群れを導かれます。わたしたちが、イエス・キリストのあとについて行くなら、詩編23編にあるように、主は、わたしたちの魂を生き返らせ、災いや苦しみのときも共にいて力づけ、恵みの中にとどまらせてくださるのです。しかも主イエスは、「わたしの父は今もなお働いておられる。だから、わたしも働く」(5:17)と約束しておられます。今も働かれる主にわたしたちの群れもわたしたちも従って行き、永遠の命を信じて今週もまた信仰を深めていく一人ひとりでありたいものです。
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5月11日の説教から
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  • 5月11日「永遠の命を与える」

    ヨハネによる福音書10:22〜30 「永遠の命を与える」        伝道師 熱田洋子
      神殿奉献記念祭は、エルサレムの神殿における神礼拝が回復された記念の祭りです。紀元前164年に、マカベア家のユダがシリアのアンティオコスの暴政からエルサレムを奪還して、ギリシアの偶像の神々を神殿から追い出し、ユダヤの祭司たちを神殿に取り戻してくれた、そのことにより律法にふさわしい神礼拝が回復されたことを記念する、神殿の清めの祭りのことです。
     この祭は「光の祭」とも呼ばれます。祭りを祝う灯りが、「わたしたちがほとんど希望を抱けなかった時に、礼拝の権利がわたしたちに現れた・輝いた」というヨセフスの言葉(『ユダヤ戦争史』)にちなんで用いられました。
     当時のユダヤの人びとは、それから1世紀半を超えるのに待望のメシアはまだ出現しない、あいかわらず外国の支配下にあるという、もどかしさとあせりがあったのではないかと推察できます。
     ユダヤの人びとは、歴史を通して、神が、アブラハムに語りかけ、モーセを召し、士師たちに、預言者や祭司たちにご自身をお示しになったことを知っています。そして、いま、自分たちにも神が現われて御言葉の語りかけがなされることを切に願っていたのです。そこに、光の祭りの真の主であるお方、すべての人を照らすまことの光である方が入ってこられました。主イエスは神殿の中のソロモンの回廊を歩いておられます。
     そこで主イエスに「いつまで、わたしたちに気をもませるのか。もしメシアなら、はっきりそう言いなさい。」との問いを投げかけます。主イエスはこのとき、歩きながら教えておられるのに、そこに、取り囲んでというのは、教えを聞こうとするようには見えません、問いつめ、せめよるように感じられます。人びとは、この世の中に頼るべきもののないことを知り、来るべき方を長いこと待ちわびていたのです。ですから、その方がおいでになっているとしたら見逃しては大変だという、心にひそむ信仰の不安から口に出しただけなのか、あるいは、イエスについての混乱を早く終わらせたいというつめたさも見えます。
     これに答えて主イエスは事実をもって示されました。主ご自身が神の言葉の受肉された方、主の行いこそ、神のお言葉のわたしたちへの語りかけそのものです。主は、どのような人にもご自身をまったく明快にお示しになります。それでも、かたくなな心をもつ人びとには主の教えはむずかしくてわかりにくく感じるのですが、信じようとする正しい心をもつ者にとって、主の教えはわかりよく容易に理解できるものです。これまで、主は、ユダヤ人の中で公にご自分がメシアであると主張されたことはありませんでしたが、言葉と行いを通じて、ご自分が誰であるかを示してこられました。
     ニコデモに、「あなたがたは新しく生まれなければならない。」と言われた主は、ご自分が天から降った「人の子」であると告げ(3:13-14)られました,安息日にいやしを行われたときには、ユダヤの指導者たちには、ご自分が行った業は父の業であること(5:17)、さらに、神が、裁きの一切を子にゆだねられ、与えたいと思うものに命を与える業を子に任せられたと述べておられます(5:22,24-26)。これはどちらも神のもっておられる特権で神でなければなされないことです。38年間体が麻痺していた人の回復、生まれつき目の見えない人のいやし、ここには単に主のご意志のみならず、主の力をも示されています。
     しかし、これらのすべてにもかかわらず、「あなたたちは信じない。」と言われます。信じないユダヤの人びとには信仰のない態度がみえますので、自ら、神がイエスと結ばれた者たちに属していないことをさらけだしているようなものです。
     では、ユダヤの人びとはイエスについてどう考えたらよいのでしょうか。人びとが期待したメシアには、当時のこの地域において政治的・軍事的な意味の含みがあったので、主ご自身は常にそう受け取られることを避けておられました。ご自分を王にしようというのを知って退かれたことも記されます。今、目の前におられる主イエスのお言葉や行いを通して、苦難の僕や神の国の支配のことを教えられてもメシアに即座に結びつけられない、イエス・キリストを神の子だと信じないということだったでしょう。
     主イエスのすべての業、つまり言葉と行いは、それらが父である神の名において行われ、父のご意思と父の御力を現していることで、父がイエスを子として遣わされたことをはっきり示しているのですが、ユダヤの人びとは、このことを理解しようとしていない、信じないのです。
     なぜ人びとは信じないのでしょう。それはこれらの人びとが主イエスの羊ではないからです。主は先に、「わたしは良い羊飼いである、わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。」(14節)と言われました。主イエスを知るということ、その信仰は、わたしたちがもっているのではなくキリストの賜物です。主はわたしたち“主イエスの羊” のことを知っておられます。羊飼いが羊の名を呼んで青草に連れて行くように、知っているというのは、交わりをもっていることです。主イエスは、わたしたちのところに来てくださいました。そして交わりをもたれました。ある時には師・先生として、ある時には友だちとして、ある時には、弟子たちの足を洗われたように、わたしたちの下にあるものとなられた。そして、決定的には、わたしたちにご自分の生命を与えられる救い主として、交わりを持たれました。それだから、わたしたちは、主の御声に聞き従うのです。従うとは「ついていく」こと、主はわたしたちに先立ち行かれます、また弱く遅い者のためには、そのしんがりとなりつつ、わたしたちと歩みをともにされます。
     一方、信じない人びとは、主イエスの羊ではないからです。主は「わたしをお遣わしになった父が引き寄せてくださらなければ、だれもわたしのもとへ来ることはできない。」(6:44)と言われたことがあります。これら不信仰な人々の上にも、いまはそうならなくても、神の主権が働いていて引き寄せられるのです。
     ここに“わたしの羊”には、つまり主イエスに知られ、その交わりの中に入れられ、主について行くと永遠の命を与えられるのです。永遠の命は主イエスの賜物です。永遠の命とはどのようなものでしょう、この福音書の中にいくつか示されています。
    ①渇いた者にとっての水「わたしが与える水を飲むものは決して渇かない。…その人の内で泉となり、永遠の命に至る水が湧き出る。」(4:14,7:37-38)、
    ②今体験されるもので、最後の日の復活にクライマックスになるもの「わたしの言葉を聞いて、わたしをお遣わしになった方を信じる者は、永遠の命を得、…父は、御自身のうちに命を持っておられるように、子にも自分の内に命を持つようにしてくださったからである。」(5:24-26)
    ③飢えた者にとってのパン「朽ちる食べ物のためではなく、…永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。これこそ、人の子があなたがたに与える食べ物である。…」(6:27)、
    そして④生きておられる神との関係「永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ること」(17:3)です。永遠の命とは、単に永遠に続く命ではありません。真実なことは、永遠の命は終わりがないということ、主イエスが賜物として永遠の命を与える者たちは決して滅びないのです。つまり、わたしたちは主の手に安全に守られているのです。わたしたちの救いを守っていてくださるからです。
     主は、わたしたちの救いが主の御手に委ねられているとはっきり言っておられます。もしこれが十分でなければ、父の力によって安全に守られると言われます。計り知れない恵みです。わたしたちが主イエスを選んだのではなく、反対にイエス・キリストがわたしたちを選んでくださったことを覚えます。ですからすべての選ばれた者の救いは、神の力が何者にも侵されないものであると同じように、確実であることを教えてくれています。
     そして、神である父が父であるからこそ、御子に与えてくださったものは、すべてのものより偉大だ・大いなる物と言われています。それは、御子に与えられた“主イエスの羊の群れ”に言われていることです。つまり、主イエスを信じる者たちは神からの賜物で、すべてのものより大いなる物・大切なものだということです。神の御目からご覧になってこう言われるのです。創造主なる神が罪人のわたしたちとその群れである教会を他の何物にも勝るものと見ておられる。このようにわたしたちが神から受け止められていることは、わたしたちにとって強い慰めと確信が与えられるのではないでしょうか。
     主イエスがなさるすべてのこと、言葉も行いも、父のご意志が現れているものです。主イエスは十字架の死に至るまで父である神に従順に従っていかれました。それにより主イエスの救い主としての御業を確実にされました。それは、主イエスと結ばれている者に完全な平安と失われることのないいのちとを与えられます。なぜなら、主イエスは、その約束をもってわたしたちに呼びかけ、その恵みによってわたしたちをゆるし、王として働かれてわたしたちを生かす時、御父に導かれ、御父の御旨にとどまっているからです。そこでは、主イエスひとりで働いておられるのではないです。むしろ御父と一つになり、御自身が語られ行うことを御父の宝庫から取り出されます。こうして御父もまた、主イエスと一つであって、御子の手にその豊かな富をゆだね、主イエスの言葉と行いに力を与えて、救いの完成が確かなこととされます。この祝福のもとにわたしたちは置かれています。
     このようなわたしたちですが、「わたしは主イエスの羊ではないかもしれない」と言ってはならないのです。主イエスの羊であるとは、第一に、羊飼いの声を聞きます。今わたしたちは、イエス・キリストの御言葉、御声を聞いています。そして、主は「わたしに従う」、ついてくるようにとおっしゃいます。主についていく、つまり、羊飼いである主との交わりに置かれると永遠の命が与えられるからです。なぜなら、主はわたしたち罪人のために十字架にかかり命を捨てられますが、復活されてわたしたちを復活の命によって生かしてくださるためです。
    「わたしの羊はわたしに従う。」と言われて、主は一つの群れを導かれます。わたしたちが、イエス・キリストのあとについて行くなら、詩編23編にあるように、主は、わたしたちの魂を生き返らせ、災いや苦しみのときも共にいて力づけ、恵みの中にとどまらせてくださるのです。しかも主イエスは、「わたしの父は今もなお働いておられる。だから、わたしも働く」(5:17)と約束しておられます。今も働かれる主にわたしたちの群れもわたしたちも従って行き、永遠の命を信じて今週もまた信仰を深めていく一人ひとりでありたいものです。
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5月4日の説教から
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  • 5月4日「教会形成の道」

    2025.5.4 ヨハネによる福音書15:1〜11 「教会形成の道」伝道師 熱田洋子
      主イエスは「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。」と語られます。そこは、いわゆる最後の晩餐の席上です。十字架の死を前にして弟子たちへの愛に満ちた慰めと、その死がもたらす救いの完成、また新しい契約に基づく愛の共同体、つまり教会が立てられることを告げられます。
     しかし、弟子たちを見ると、何と小さな群れではなかったでしょうか。そこに神の御業が働いて、どのようにして、この小さい弟子たちの群れから大きなことへと発展していくのか、教会の成長が、どのようにして行われるかを、今、主イエスはぶどうの木のたとえで示されようとしています。
     主イエスは、真実そう呼ぶのにふさわしいぶどうの木です。ぶどう園の主人は、ぶどうの木がぶどうのつるをはわせ、枝を生えさせ、ぶどうの実りを結ばせるのを待っています。その点では、主は、ぶどうのつるを自分から生じさせ、実り豊かな若枝をはえさせる力を、真にもっておられるからです。
     ぶどう園の主人は、主イエスの父、すなわち、天の父なる神は、主イエスをぶどうの木としてこの世に植えられました。このぶどうの木は、御父のために生え、また御父のために、つるをはわせ、実をみのらせます。この働きを考えてみると、主イエスがキリスト・救い主として与えられた務めの一切合切がこれに要約されていると言えます。主のなさること、それは、神にとって、地上に実りを結ばせることです。実りとは何でしょう、神のために生き、神を知ってほめたたえ、自分のものを神にささげる人々を生み出すことです。これは、主イエス・キリストの救い主としての御業にほかなりません。神に従う人々を生み出せるのは、ただ主イエスの働きによってのみです。
     ぶどうの木は主イエス、そこから生え出る若枝は弟子たちです。そして、弟子たちが神に導く人々、弟子たちの奉仕によって神に招かれる教会、これこそ、ぶどうのつるに結ぶ実りです。つまり、ぶどうの木は主イエス・キリスト、ぶどうのつるは弟子たち、実るぶどうの房は教会です。
     主イエスは別れに際して、弟子たちの奉仕によって集められる教会をみつめておられます。 ぶどうの木である主イエスは、弟子たちの奉仕を通して、神の御旨を果たしていかれます。そのためには、ぶどうのつるである弟子たちは、主から与えられた賜物をただ自分自身のためのものとしてしまってはなりません、ぶどうの房を実らせるためにそこにあるのです。それだから、房をつけないなら切り取られます。
     主イエスは、御父の愛をもって御業をなされ、その愛を弟子たちにも与えました。弟子たちが実りを結ぶ場合も、神が働かれて訓練されます。手入れをなさるのです。主から与えられたものを自分の中に取っておくだけでなく、自ら造り出すもの、他人との交わりによって与えるものもまた必要だからです。人はとかく自分自身の考えや計画を進めようとします。しかし、ぶどう園の主人の鋭いメスは、教会でいえば、その中でキリストに根ざさないもの、神の御旨に仕えないものを切り取り、枯れさせようと手を入れられます。
     このとき、主イエスに結びつく弟子たちは、主イエスのお言葉によって、神の愛のかえりみとゆるしを受け、役にたつ、実りを結ぶことのできるものとされます。
     このようにみると、弟子たちにとっては、主イエスと結ばれたままでいることが第一の最も重要な事になってくるのです。逆に言うと、主イエスから離れることは、弟子たちの実りを結べないことになります。ただ、弟子たちが主イエスにしっかりつながっているとき、自分たちは主のもの、主に養われている時のみ、神の教会を自分たちから造ることができるということです。主イエスが弟子たちにとって、「わたしがあなたがたにとって真理である。わたしがあなたがたにとっていのちである。」との御言葉のとおり、ご自身の満ち満ちた恵みの中から、弟子たちのために、あたかもぶどうの木がつるに力を与えるように、恵みに恵みを受けるようにしてくださるのです(1:16)。
     さらに主イエスは、「わたしの中にとどまっていなさい!」と御自身の中に居場所を与えられます。そうすれば、わたしはあなたがたの中にとどまるであろうと、付け加えられて完全に主と一体のものになります。神は、キリストをすべてのものの上にある頭として教会に与えてくださいました。教会はキリストの体であり、すべてにおいてすべてを満たしている方の満ちておられる場です。(エフェソ1:22―23)信じる者にとって、主から離れることは、主イエスに対する信仰に代わって、利己心、傲慢によって自分が支配することになるので、弟子たちにも真剣に警告されます。
     弟子たちが、他の人を神へと招き、主イエスのいのちが与えられるように導くことは、主に従う者として神の栄光を現わす働きです。まさに弟子ですから、生涯を通して主に従い、その恵みに仕えてこの業を行うのです。
     それらのすべてが純粋な愛、すなわち、御父から御子イエスに与えられた愛を基としてなされることなのだと主は言われます。
     愛を呼び起こすものは、御父の御子への愛、それが、神から湧き出で主イエスを通って、弟子たちにまで与えられ、神と隣人を愛するように導かれます。主ご自身は、父への従順を通じて、人々が主イエスの愛の中にとらえられるよう、弟子たちに模範を示されました。愛には、つねに喜びが伴います。主は弟子たちを、ご自身の愛の中におくことによって、不安、心配、苦痛を取り除かれました。そしてご自身のもつ喜びによって、なにものにも害されない、曇らされない、まったき完全な喜びが、弟子たちと弟子たちが造る教会の上に満ち溢れるようになさるのです。
     主につらなる者の新しい共同体である教会は、その務めが目指しているのは、神に栄光をあらわすことです。主にあって、私たち信仰者がキリストのからだなる教会の肢として、主につらなりつつ、一日一日を信仰をもって生きることが、神の栄光をあらわす業となるのです。ここにキリスト者の光栄があります。「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです。」(ガラテヤ2:20)。真にこのとおりではないでしょうか。
     その際、神の栄光のために生きるということは、そのためにわたしたち自己を犠牲にして奴隷のような生涯を送るということではありません。わたしたちは自分をささげつつ、まったき喜びに満たされるのです。「フィリピの信徒への手紙」は喜びの手紙と言われます。パウロは獄に捕らえられていましたが、生き生きと生かされ支えられた「喜び」を言い表しています。それこそキリストにあって、わたしたちのうちに満たされる真の喜びです。教会とその肢であるわたしたちが、主にしっかりとつながり、キリストにある喜びに満たされ、神に栄光をあらわすこと、そのように生きる教会を主は恵みによって成長を導いてくださることを信じてよいのです。
     さて、わたしたちの日本キリスト教会釧路教会の教会建設記念日は、1982年5月3日です。これを記念して毎年、5月第一主日に礼拝を守っています。教会の歩みはこのとおりです。今日の聖書箇所は、1966年の第一回定期総会の時に読まれたものです。説教題も同じです。
    以来60年、恵み深い神は、この地において福音宣教と教会形成の働きを一つひとつ道を備え力強く導いていてくださいます。
     教会を形成するものは何か、わたしたちが属している日本キリスト教会が教会形成のために大事にしてきたことを確かめるとともにわたしたちの信仰を深めたいと願っています。
     釧路教会が属している日本キリスト教会は、日本基督教団を離脱し、1951年に創立されました。今年、創立75周年を記念して信仰宣言文を表明しようと検討しており、その中で戦責告白、罪責告白について取り上げられています。このことは、これまでも、いく度か、提案されましたが宣言文としては実現していません。その一方で、この間、日本キリスト教会が力を傾けてきたのは、日本キリスト教会の特徴である「日本キリスト教会信仰の告白」と「日本キリスト教会憲法・規則」の制定です。
     日本キリスト教会が、1951年、あえて教団から離れて独立したのは、日本における真実な教会の形成を新しく始めたいと願ってのことでした。そこで、1953年第3回大会で新しい「日本基督教会信仰の告白」と「日本基督教会憲法・規則」を制定することになりました。戦前、戦中のキリスト者にとって信仰を守り続けるための厳しい時代を経験して、真実にイエス・キリストだけを、なにものにも屈しないで、救い主として信じ告白する教会を建てたいという願いからです。そのため、新しい信仰告白と憲法・規則は、「教会の結集」、「教会の形成」を訴える大きな力を発揮してきました。
     教会の信仰告白は、教会が聞いた主の御言葉に対する讃美応答として、「わたしはこのように信じます」と告白し、それが主によって喜び受け入れられることを確信して制定されます。いまある「信仰の告白」は使徒信条と前文からなっています。聖書の中に語られる、主の福音の注釈ともみられる内容です。その中で、教会がイエスをどのようなお方として信じてきたか、また信じているかをよく言い表しています。また、キリストの福音の真理を正しく理解するように記されていますので、聖書の教えを学ぶときの手引きの役もしてくれます。全体として、わたしたちの教会の信仰と、その成立の精神が明らかにされています。
     大切なことは、信仰告白の内容はただ聖書によってのみ規定されるものであること、そして、わたしたちの教会は信仰告白を制定したのですから、教会とそれに属する信仰者はその信仰告白に忠実であること、つまり、教会のあり方と信仰者の生き方とは、この信仰告白によって導かれるだけでなく、それによって方向が定められている、そのようなものとして信仰告白を重んじなければなりません。わたしたちはキリストを信じて生きる者たちです。教会の信仰告白を受け入れるということは、イエスをわたしたちの主と信じて、自分の心と体と全生活をこの主にささげて生きようという志と決心とを表します。
     しかも、わたしたちの信仰告白は、わたしたちが信じていることを、わたしたちの生き方をとおしてこの世の人々に示していくこと、つまり証しする生活が伴うのです。釧路教会の伝道は、この信仰告白をもって信仰生活を送りたいという願いをもった信仰の先達たちが集まって1962年に開始され、今に至っています。教会は救い主イエス・キリストを宣べ伝えるために、「正しく御言を宣べ伝え」ていく責任があります。そして教会は信仰告白に基づいて、いろいろな働きをしていきます。信仰を求めている人々だけでなく、神によって造られたすべての人々にそれらは向けられています。釧路教会はこれからもこの信仰告白を一人ひとりが告白しながら教会を建てあげ、御言葉が正しく語られ、正しく聞かれる教会として、神に栄光をあらわす教会でありつづけたいと願います。 
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4月27日の説教から
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  • 4月27日「信じるものになりなさい」

    2025.4.27                       伝道師 熱田洋子
    ヨハネによる福音書20章19-31節「信じる者になりなさい」  

     週の初めの日の朝早く、主イエス・キリストは復活されました。主をお納めした墓が空なのを見たマリアは、そこで主から声をかけられ、父のもとに戻られるとのメッセージを弟子たちに伝えに行きました。それでも、弟子たちは主イエスが死からよみがえらされたことを完全に理解していませんでした。主の弟子の自分たちに、ユダヤ人の指導者たちが何をしてくるのか恐ろしかったのです。鍵のかかった部屋に閉じこもっていました。鍵のかかった扉はユダヤ人の指導者たちから送ってくる追っ手を排除することはできたでしょう、ところが復活なさった主が入ってこられるのを妨げることはできませんでした。
     主イエスは集まっていた弟子たちの真ん中にお立ちになって「あなたがたに平安があるように」と言われました。この挨拶が主の口から発せられるとき、福音のすべてがその中に含まれています。主は復活されたその御姿においても弟子たちの主であり、友であり、きょうだいです。弟子たちは、主イエスの愛につつまれ、平和の中におかれて、主イエスに結ばれている者であり続けます。
     弟子たちが主イエスを見たとき、三つの約束を思い出させます(14:18,23,28)。まず、「あなたがたのところに戻ってくる。」と言われました。そのことがいま実現しています。鍵のかかった扉の向こうから弟子たちに突然現れたということは、墓からよみがえられた時と同じように、復活なさったいまは、主はもはや地上の制限には縛られていないということを示されました。 弟子たち、特に、主が捕えられた時、弟子ではないと三度打ち消したペトロ(18:17-18,25-27)は、主を見捨てたことに深く恥じていたことでしょう。ところが、主イエスが今、閉ざされた部屋の弟子たちに現れて、「あなたがたに平安があるように」と言われたのは、主が弟子たちの失敗を責めてはいないのです。むしろ弟子たちとしっかりつながっていてくださいます。
     その後、手とわき腹をお見せになって、そこに立っているのが、十字架にかけられましたが今や死からよみがえられたイエスであると示され、疑いを完全に払い除けられました。弟子たちは死の悲しみに暮れるだろう、しかし復活の後、あなたがたに会いに来る、そのとき、あなたがたは大いに喜ぶことになると主は約束しておられました(16:20-22)。いま、弟子たちの喜びは確かなものになり、強められています。
     その次に、「…父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」と、弟子たちへ使命を与えられました。この使命は父から与えられたものです。主ご自身が父なる神によってこの世へ遣わされたことが何度も述べられています。それは「父の御心を行うため」であり(6:38-39),「父の業を行うため」(4:34,5:36,9:4,)「信じるすべての人を救うため」(3:16-17)です。これを拠り所として、弟子たちに、主イエスの言葉と業を引き継いで行うように、その使命を与えて遣わされるのです。
     この使命のために、弟子たちに授けられたのは聖霊です。今、復活されたお方として主イエスは、肉と血(肉を裂かれ、血を流された十字架の死)について言葉によって示されただけでなく、聖霊の与え主として現われなさいました。復活の主は、ことばで聖霊を約束するだけというようなことではなく、この霊をいま弟子たちに与えられます。主なる神が天と地を創造された時に(創世記2:7)、人を形づくり、その人に命の息を吹きかけられました。そのように、弟子たちは使命を果たすため、聖霊という何者にもまさる賜物を受け取ります。
     ここで主の息が、弟子たちの中に吹き込まれると、主イエスの御霊が、弟子たちの心を捕え、主の御力の中に弟子たちは置かれます。主は、御自身と弟子たちとの間に、このような御霊の交わりをつくられます。それは弟子たちが罪をゆるしたり、とどめたりするためにほかならないのです。主イエスは宣教のはじめに、洗礼者ヨハネから、主イエスこそ世の罪を取り除く神の小羊であるとの言葉を与えられ(1:29)、そこに主の使命があると伝えられたのでした。そして、いま主は、弟子たちにその使命を、罪をゆるすことのなかにあると示されたのです。したがってゆるさないところでは罪の重荷を負って苦しみ、裁かれ・罰をうけます。このことを弟子たちが力強く行い、弟子たちが与えるゆるしが真実のゆるしであり、罰も真実なものでなくてはなりません。ですから、罪のゆるしは人間的な思いから行われてはならないのです。そのために弟子たちには、御霊に照らし出される目、御霊に清められた心と御霊の与える言葉が必要です。
     主イエスは、地上で奉仕されていたとき、この世の救いと裁きは、罪をゆるすことと、ゆるさないことであると示されました。弟子たちは、言葉においても業においても、主イエスがなさったように行っていくことになるのです。そのために聖霊を必要とします、その聖霊を弟子たちは、いま受けたのです。 さて、この時の弟子の集まり、主イエスが復活された日の夜、弟子たちの真ん中に立たれた時に、残念ながらトマスはそこに一緒にいませんでした。
     トマスは、かつて(11:16)「わたしたちも行って、一緒に死のうではないか」と言ったのです。主イエスがエルサレムで受難を受けことになると口にされたときに、トマスは尻込みし恐れる仲間をよそに、自分は先生と共に死ぬ覚悟があると告白していました。そのときは自分も一緒に傷つき、苦痛を分かち合って主に従おうと決めていたのです。しかし、主と行動を共にすることができませんでした。それは挫折だったでしょう。そのようなトマスは、主が復活されたと聞いたときの心境はどうだったのでしょう。他の弟子たちを前にして、「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」と言い放ちます。
     なぜか他の弟子たちと違って信じられず、根深い疑いにとらえられています。どうしてでしょう。主が、復活された日に、弟子たちの集まっているところに現れなさったところに、トマスは一緒にいなかった、疑う、信じられないのは、このことによるように思われます。つまり、主の復活がなされた日の集まり・教会にいなかったからということです。復活の日に弟子たちの集まりに一緒にいなかったのだから、すなわち教会を離れていては、信仰の疑いを自分ひとりの力だけでは乗り越えることはできないということではないでしょうか。信じる者の集まる教会には、信仰の真理があるのです。トマスはそこから離れていたから主の復活を信じられないということになったのです。
     わたしたちは、自分も主の復活を信じられないと思うかもしれません、その際、その理由をもっと別のところにあると思いがちです、性格のせい、環境、職業柄、学問があるから、あるいはないから、とか。しかし、そういうことではないでしょう、そう考えるのは真理ではないということです。信仰に生きるために教会につながることが必要だということなのです。なぜなら、そこに真理がある、神の真理が語られるからにほかならないのです。
     教会の働きを考えると、信じられないと疑いを他の弟子たちにさらけ出すトマスを弟子たちの集まり・教会は受け入れています。それも大切なことです。トマスを受け入れる弟子たち仲間がいる、これがトマスの回心(信じるようになる)のための大前提となっています。それと、信じられないという思いや疑いを抱えつつも、トマスは信仰者の集まりにとどまっていたのです。
     復活の日には集まりの中にいなかったトマスが、八日ののち(復活後第一主日)に、信じている者の集まりの中に・教会に帰ってきたことが語られます。トマスは信じられない心をもちながらも、礼拝者の集まりの中にとどまっていたのです。主イエスは、弟子たちを、いつまでも疑いや信じられないままにしておかれませんでした。
     「戸にはみな鍵がかけてあった」ここには二重の意味があります。ひとたび疑いに捕らわれた人の心は、まさに「鍵がかけてあった」のです。そうであっても、疑いと鍵で閉ざされている部屋の中に、復活の主は入って来られます。しかも、復活の主は、この復活後第一主日には、まさにトマスを目ざして。そこで一番疑い深く、信じられない思いでいっぱいの者を目ざしてやって来られました。「あなたがたに平和があるように」と言われて入って来られた復活の主は、十字架の傷跡を示して「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹にいれなさい。」と招かれます。トマスに現われ、復活のお身体を示されるのは、十字架の傷跡を示す主、十字架につけられたままのキリストです。「信じない者ではなく、信じるものになりなさい。」と十字架の傷跡を示して語られる十字架につけられたままの主イエスのお言葉によって、このときトマスの信じられなかった心が打ち砕かれました。
     トマスの聞いた主のお言葉(27節)は、復活のキリストの言葉であると共に、十字架につけられた、あの主イエスのお言葉だったのです。まさに「十字架のことば」です。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹にいれなさい。」と主が語られたとき、トマスの耳には、「あなたのために、もう一度十字架の苦痛を繰り返そう、あなたが信じる者になるために」という「十字架のことば」に聞こえたことでしょう。
     トマスが最初、「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡にいれてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」と言ったとき、それほど「十字架の傷」について深刻に受け止めていなかったのではないでしょうか。しかし、十字架につけられたままのキリストがトマスに現われ「十字架の傷跡に手を入れなさい」と言われた、このときトマスは自分のことがわかったのです。
     トマスは最初、自分は先生であるイエスのために死ぬことのできる者でありたいと思った、それがとんでもない思い違いだった、と。ここに至って、自分が主イエスのために死ぬことのできない者であることを知るどころか、自分が主イエスを十字架につけて苦しめた者であることにおそまきながら気づいたのです。
     自分の信じることのできない心がどれほど主イエスを苦しめていたか。主の傷が十字架の傷、罪人の贖いのための傷、信じられず罪人であるわたしを救うための傷であることを気づかされました。そして、主にまったく信頼して、主によりすがる者になるように導かれたのです、このときトマスは信じて救われました。
     トマスは、十字架の傷痕とともに語られる「十字架のことば」の前で「わたしの主、わたしの神」と叫ばずにいられませんでした。トマスの口から出た信仰告白です。十字架の意味を知った人の言葉です。すぐ後に、「…見ないのに信じる人は、幸いである。」と祝福の言葉が告げられます。これは当然、いつの時代も福音を信じて受け入れたすべての人々に向けられます。
     教会には、トマスが受けたものより、はるかに偉大なもの、主イエスの御姿を見ることからくる信仰ではなく、わたしたちが主を見ないのに、主とわたしたちとを結ぶ信仰が与えられています。それは、復活の主を宣べ伝える御言葉からくるものです、さらに御言葉の弁護者として聖霊によってわたしたちは主イエスのもとに導かれるからです。わたしたちは主イエスを見ないでも、信仰によって主と一つにされます。主は、この世でわたしたちが御心に従って行うことができるように神の恵みの御業によって導いていてくださいます。
     わたしたちは主イエスを信じることによっていのちをあたえられています。すでにこの福音書の初めに、「…言は神であった…言(ことば)の内に命があった。…」(1:1,1:4)御言葉の中にいのちがあるのですから、“御言葉がわたしたちに宣べ伝えられる”と語られたとおりです。  十字架につけられて死に、そして復活された方として主イエスをキリストと信じる信仰こそ、キリスト者に与えられた真のいのちの源です。復活の主との交わりにおいて、主ご自身のいのち、すなわち「永遠のいのち」にあずかっています。わたしたちも、いのちにあずかっていることの幸いと恵みの中で、主を証ししていく者でありたいと願います。
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4月13日の説教から
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  • 4月13日「主がお入り用なのです」

    2025.4.13棕櫚の主日礼拝「主がお入り用なのです」    伝道者 熱田洋子
    ルカによる福音書19章28―40節
     主イエスはこの地にあるすべてのために、神のご計画に従って苦難の道を「先き立ち」歩んで行かれます。苦難をご自身の身に負い死ぬことになる、それが父なる神のご計画の中にあることで確かなことであると受け止められ、「天に上げられる時期が近づくと、エルサレムに向かう決意を固められた。」(9:51)のです。
     生きることの苦しみにあえぐすべての人々のために、主は「先き立ち」苦しまれるのです。だれも主イエスに「先き立ち」苦しむ者はいません。わたしたちの苦しみに「先き立ち」主が苦しまれたことは、わたしたちにこのお方がおられるので、わたしたちの慰めです。しかも、この苦しみに「先き立ち」苦しまれたゆえに、主はまたわたしたちに「先き立って」栄光をお受けになります。主イエスこそはわたしたちの復活の初穂となられた(コリ二15:20)のです。わたしたちが生きるにしても死ぬにしても主はわたしたちに「先き立って」いてくださるのです。(詩編139:1〜12、ローマ14:8)
     主が先に立っておられるということは、主の後に従う者が続いてくることを期待しておられるということです。そしてそれは後に続き従う者が自分の十字架を負ってついてくる(14:27)こと、わたしたちも「苦難の道」であっても従ってくるように招かれているということ。その道こそが勝利への道だからです。
     いよいよ主イエスはエルサレムに入られる、その準備も主が二人の弟子たちに前もってどこでどうやって必要なものを見つけるか、またそれをつれてくるにはどうすればいいかを語られ整えられます。
     まだだれも乗ったことのないろばの子を連れて来させます。
     子ろばは、神聖な目的のために、それ以前には他の仕事のために使われたことのなかったために用いられました。
    「娘シオンよ、大いに踊れ 娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。
     見よ、あなたの王が来る。 彼は神に従い、勝利を与えられた者
     高ぶることなく、ろばに乗って来る
     雌ろばの子であるろばに乗って」ゼカリヤ書9章9節
     この王は、続く9章10節で『諸国の民に平和を告げられる』のです、軍馬を絶ち、戦いの弓を絶ち、平和の実現のために来る王であることをここで強調されます。
     子ろばを、ほどいて引いてこようとすると、その持ち主たちは驚いて「なぜほどくのか」と問いかけますが、弟子たちが「主がお入り用なのです。」とそっけなく答えるとその人たちは子ろばを貸してくれました。こうしてエルサレムに入る一部始終の本当の意義は、この言葉「主がお入り用なのです。」にあります。「主」が弟子たちにこの言葉を使わせたからです。 

     主イエスは「王」としてエルサレムに入ることを望まれました。エルサレムに入るのは弟子たちと一緒です。弟子たちが、子ろばを手に入れると、その上に自分の服を鞍がわりにかけ、主をその上に乗せて、主のことを「主の名によって来られる方、王」と呼んでいます。こうして主イエスはご自分に従って来た者たちによって栄光をたたえられ、讃美されています。弟子たちのこの様子は、主イエスによって神の国はすぐにも現れると思っていた(「人々が神の国はすぐにも現れるものと思っていたから…」19:11)、あの燃えるような性急な期待にぴったり合っているようです。
     ところで、今日の主日礼拝は「棕櫚の主日礼拝」と言われます。ヨハネ福音書12:13では、「…大勢の群衆は、イエスがエルサレムにこられると聞き、なつめやしの枝をもって迎えに出た…」ことがしるされていることからきています。ここには、ただ主イエスが進んでいかれると、人々は自分の服を道に敷いたと記されます。自分たちの服が道に敷かれたことだけで主イエスの王としての威厳が示されるのですから、棕櫚の木がなくてもそれで十分です。
     主イエスがオリーブ山の下り坂にさしかかられた時、弟子の群れはこぞって、自分の見たあらゆる奇跡のことで喜び、声高らかに神を賛美し始めました。奇跡とは何があったでしょう。大きな「喜び」は救い主がこの世に現れたことで一人ひとりの救いが現実のものとなったからです。また、主イエスがラザロを死者の中からよみがえらせたこともあります。それも奇跡です。それは、人々に極度に期待を懐かせるものでした。その期待がおおきかったために、人々は、ほどなく、十字架の道を歩む主イエスに幻滅してしまうことにもなっていきます。
     いま、人々は主イエスを王と期待して賛美します。「祝福あれ、主の御名によって来る人に。わたしたちは主の家からあなたたちを祝福する。」詩編118編26節(当時メシア預言とされた。)主イエスのエルサレムに入る様子には王とはこういう方だということが強調されています。ここでは、王を称賛するのに、詩編118編26節のほかに、主イエス誕生の際の天の軍勢の言葉(2:14)と結びつきます。メシアとしての主イエスを賛美しています。主イエスがゼカリヤ書9:9の預言を成就される方として、すなわち平和の王として、ご自分の都のご自分の民のところに来られたとすれば、それは主イエスが天上の平和な世界から神の祝福をもって来られたからです。しかし「いと高きところには栄光、神にあれ 地には平和、御心に適う人にあれ。」(2:14)とあるのと違って天のみが平和のある所と見られているのですから、平和の王のエルサレム入りだけではなお神の平和が地に満ちる時は来ないということでしょうか。
     エルサレムに平和をもたらす王は、ろばの子を選びました。ろばは(馬と比べて)愚直貧弱とみられています。そして、この王にとって、「平和」をもたらす目的のためにも、王としての「威厳」「格式」を表すためにも、ろばがふさわしかったのです。また、弟子たちの上着が鞍として十分、弟子たちによってろばの背に乗せられることで十分でした。
     信仰者がよく「主がお入り用なのです」との召しに応じて用いられているといわれます。それは、苦難の道を歩まれる主イエスに、子ろばのように、召し出され仕えることをもって喜びとし光栄とすることでしょう。
     この讃美の中で「…天には平和、いと高きところには栄光。」といわれていて「地には平和」といわれてはいないことを気にしましたが、それは王なるイエスによってエルサレムに平和がもたらされるという希望を薄くすることにはならないのです。
     今、むしろ「天には平和、いと高きところには栄光あれ」との讃美そのものが、平和の基礎という意味の「エルサレム」に始まる神と人との平和、そして地の平和の近くあるように求める叫びだからです。主イエスのおられるところに平和が始まり、平和の基礎が据えられます。主イエスが歩まれるところ、入られるところには、どこであれ、平和を信じ平和を愛し平和を求める叫びが始まります。世界中の人々の祈ることのできる最高の祈りと言われるフランチェスコの「平和の祈り」も、この叫びの一つではないでしょうか。「主よ、わたしをあなたの平和の器としてください。憎しみあるところに愛を、いさかいあるところに許しを、疑いあるところに信仰を、絶望あるところに希望を、悲しみあるところに喜びを、闇のおおうところに光を、もたらす者としてください…」。
     この弟子たちの歓喜の叫びと祈りとを聞いて、ファリサイ派のある人々が、主イエスに向かって「先生、お弟子たちを叱ってください」と言います。弟子たちの熱狂ぶりを主が抑えるべきと考えたのでしょう。それは主イエスの安全のためにということ、弟子たちの言動が加熱したのを見てローマの兵が介入して来ないように、ヘロデの脅威を早めに警告したとも思われます。
     ファリサイ派の人々に主イエスはお答えになります。「言っておくが。もしこの人たちが黙れば、石が叫び出す。」この土地には至る所に石がありますから、聖書に石が登場しても不思議はありません。洗礼者ヨハネは、「神はこんな石ころからでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる。」(3:8)。神は石から、いわゆるアブラハムの子孫よりも多くの忠実な信仰者を起こすことができると警告していました。
     主イエスがここで石を用いたことはどういうことでしょう。石が語るということは、ハバクク書2:11「まことに石は石垣から叫び 梁(はり)は建物からそれに答えている。」にあります、世の終末を思わせる比喩です。ある石はエルサレムに対するさばきと滅亡を宣言するのに用いられ「…お前の中の石を残らずくずしてしまうだろう。」(19:44)また、主イエスの空の墓からころがされた石(24:2)のように復活し永遠の王となられたお方に「ホサナ」と叫ぶ石もあります。
     聖書を読んでいると、種々の出来事が人間のみに影響を与えるとわたしたちは考えがちですが、そこでは被造物も影響を受けています。ここでは石を例にして自然が創造主とのつながりをもちつづけていること、そのつながりからきているのではないかと思います。
     新約聖書だけ見ても、マタイ福音書においては、主イエスの誕生のとき、知らせる星が現れたといい、主が死なれるとき、地震が起こり、岩が裂けたとあり、マタイ、マルコ、ルカ福音書共に主イエスが十字架にかけられて三時間すると全地が暗くなった・日食が起こったと記しています。
     これら劇的なことは、わたしたちが時折忘れてしまっていることを思い起こさせてくれます。つまり、生命はすべて神からきているということです。それで、全世界が共に破滅すること祝福されること、生きることと死ぬこととを共有しているということです。
     そう考えながらみると、「被造物がすべて今日まで、共にうめき、共に産みの苦しみを味わっていることを、わたしたちは知っています。」(ローマ8:22)とあります。自然そのものが、「産みの苦しみの叫び声をあげ」、解放を待ち望んでいます。ですから、自然もまた、神を讃美するために贖われなければならないということです。神の最終的な支配が成し遂げられたとき、「被造物も、滅びへの隷属から解放されて、神の子供たちの栄光に輝く自由にあずかれる。」(ローマ8:21)ことになるのです。
     教会の暦は受難週に入ります。主イエスはここ数日、最後の重要なときです。ここで周りや敵対する人々の考えに従うことはなさいません。ただ変わることのない父なる神への信頼と従順とをもって、最初から定められたと知っておられる道を進まれます。いま王としてエルサレムに入ることもその一区間に過ぎない道を、ひたすら進み行かれます。受難を受けられる、それを前にして、真の救いを与えてくれる「王」イエスに向けての叫びの中を歩まれます。これをさまたげることはありえません。被造物すべての救いと解放を求める叫びだからです、まさに平和の王、子ろばに乗る王の勝利に期待する讃美の叫びです。
     教会の民であるわたしたちは、主イエス・キリストが救いを完成させてくださることを信じて、主が来られるのを待ち望んでいます。それゆえに、「日本キリスト教会信仰の告白」を告白し、「主の祈り」を祈ります。その最後の「国と力と栄とは限りなくなんじのものなればなり」との頌栄とともに、教会とわたしたちは、この世のあらゆる力にあらがって、黙っていることなく叫びつづけていきましょう。「主の名によって来られる方、王に、祝福があるように。」
      今週、受難週の木曜日は最後の晩餐のとき、金曜日は主イエスの十字架と死の受苦日です。わたしたちも、このように主のお苦しみを覚えながら信仰の時を過ごしたいものです。次の主の日、主イエス・キリストの復活を記念して皆さまご一緒にイースターを迎えましょう。
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4月6日の説教から
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  • 4月6日「神と隣人とに仕える」

    2025.4.6受難節第五主日礼拝「神と隣人とに仕える」   伝道師 熱田洋子招きの言葉
     ヨハネによる福音書12章1―8節  
     過越の祭りが刻一刻と近づいています。過越の祭りはユダヤ暦の正月ニサンの月の十四日で、六日前は八日に当たります。主イエスが十字架に架けられたのは金曜日ですから、六日前はユダヤ暦の安息日である土曜日の出来事になります。
     その日、主イエスはベタニアに行かれました。ここは、主がラザロを死人の中からよみがえらせた、そのラザロがいた所です。死人のよみがえりの場所が、いま葬りの備えの場所になろうとしています。ここでのマリアと弟子のユダの姿が描かれ、二人をとおして、主イエスの死の意味が暗示されていきます。
     ベタニアで、主イエスを信じる人たちの感謝から食事が用意されました。マルタは、ここでも食事の接待の奉仕をし、ラザロは一緒に食事した人々の一人でした。ラザロのきょうだいマルタとマリアはともにエピソードが伝えられています(ルカ10:39)。主イエスを迎えてマルタの方は給仕に忙しくしていたのに、マリアは主の足もとにすわって、御言葉に聞き入っていたのでした。
     主イエスが皆と食事をしていた、そのときに、「マリアが純粋で非常に高価なナルドの香油を1リトラ持ってきてイエスの足に塗り自分の髪でその足をぬぐった。」のです。1リトラは約330グラムです。ナルドの油とは、ユダヤでとれるオリーブの油と違い、他の国から仕入れてくる高価な香油で、いちいち石膏の壺に入れ、使うごとにそれを割ってあけます。すると匂いが部屋いっぱいにひろがります。
     当時、普通の人々は、このように高価で強い香りのする油はほんの一滴、敬意を表そうとする客の髪に注ぐのでした。しかし、マリアは、イエスの御足に大量に注いで、そして、ふたたびそれを自分の髪の毛でぬぐったのです。
     主イエスは本当は油そそがれたお方[メシヤ・救い主]なのですが、イスラエルの指導者たちは、主をメシヤとして尊敬したくはなかった、認めていなかったのです。それにひきかえ、マリアにとって、主イエスは、あらゆる尊敬がふさわしい、真に神に油注がれたお方にほかならなかったのです。それでマリアは主の前に心のすべてと持てるもののすべてをささげきったということでしょう。
     マリアは以前、主のお話を座り込んで聞いていたとき、主から「なくてならぬ一つのものを選び取った」と評価されています。ここでも周りの人々の目には非常識と思われる振る舞いによって非難されますが、かえって、そのことにより、主イエスの御心に深く触れ、称賛されます。そこに深い謙遜と激しいほどの情熱があらわされています。これこそ、喜んで主イエスに一切をささげようとする、すばらしい愛の行いでした。その献身をたたえるかのように、高貴な匂いが家いっぱいに広がっていきました。
     それに比べてユダの態度はどうでしょう。マリアと対照的ではありませんか。このマリアの行いを見ていたユダが言います。「なぜ、この香油を三百デナリオンで売って、貧しい人々に施さなかったのか。」非難します。ユダの言葉は、マリア、そして主イエスと違った考えを持っていたことがはっきり出ています。ユダは、その壺の香油の価値を見積もって、それでどれだけのことができるか頭で計算したのでしょう。壺には首のあたりまで香油が入っていたでしょうから300デナリオン、1デナリは、当時、男性の1日分の労賃にあたりますのでほとんど1か年の総収入です。それだけの費用があれば、貧しいたくさんの人々を救済できるはずです。マリヤがその金を手離そうとすれば、人々に与えることもできる、どんなに多く役立ったことだろう!
     ユダは、ここに無駄に投げ捨てられたに等しい、大切な金が惜しかったのです。ユダの心には、貧しい人々のことなど皆目ありませんでした、金に縛られた強欲な気持ちから語ったにすぎないのです。このように聖書は語ります。「貧しい人々のことを心にかけていたからではない。彼は盗人であって、金入れを預かっていながら、その中身をごまかしていたからである。」
     人々の心には、このユダの考え方はしごくよく理解できるものではなかったでしょうか。ユダも手でつかめる財をほしかった、目の前に注がれる高価な香油を見てそう思ったのです。
     ここで、貧しい人々の救済を、この時代はどうしていたのでしょう。信仰者の集まりの働きとして見られ、きわめて早い時期から貧しい人たちの救済のための働きがあったということです。パウロが、そのために懸命に働いたことが手紙(ガラテヤ2:10)に記されています。「ただ、わたしたちが貧しい人々を忘れないようにとのことでしたが、これは、ちょうどわたしたちも心がけてきた点です。」といっています。
     主イエスも貧しい人々への施しを信仰をもって行うように勧めています(マタ19:21、マルコ10:21)。こうしてみると、貧しい人たちのために仕えることは、信仰者の集まり、今で言うと教会がするような働きとされていて、そこに信仰者の働きが行われていたということだったでしょう。
     とはいうものの、そのような働きも、目に見える結果が重んじられると、数字でいくら、何人にということが優先され、「なぜ、この香油を300デナリオンで売って、貧しい人たちに施さなかったのか」と、結果から問われるようになると、だんだん信仰から離れたものになっていく危険性があったのではないでしょうか。
     このようなユダの発言を聞くと、主イエスから一度弟子として召しを受けた者が、なぜ裏切る者になったのか、救いから堕ちていったのか、初代教会の人々ばかりでなくわたしたちも困惑します。
     当時、周りには神のことを伝える伝道者たちがいて、有名になると大きな宝、贈り物をたくさんもらって自分のものとしていた様子をユダは見ていたのでしょう。主イエスが病の人や汚れた霊につかれた人をいやすのを間近に見て、神の力によってすばらしい働きをしていることがわかったので、そのような先生は、あらゆる宝物が与えられて当然だ、それであればその宝の恩恵に自分もあずかっていいだろう、主イエスを利用できると思っていたと考えられます。 
     ところが、今、マリアは自分の財産すべてを注ぎ出してしまった、また主イエスがご自分の力を貧しい人や病の人を助ける働きにそそぎ、この世の名誉、富・金のようなものを完全に放棄しているではありませんか。ユダの考えからすれば、与えられて当然の宝をそのように無駄にしてしまってはならないのです。
     このように思うことも、すでに悪魔がユダの心に、イエスを裏切ろうとする考えを抱かせていた(13:2)ということでしょう。これまで主イエスは、御父の御旨と御言葉に従って進んでおられますが、その主に、悪魔の意志と業とがユダによって立ち向かって来たことを思い起こさせます。また、そのゆえに、このような悪魔の意志がいかに真に人間らしく、わたしたちにとって本当にそうだなと思わされ、良く知られたものに見えるものです。
     悪魔の意志といっても、何か異常な聞いたこともないようなことを連想してはならないのです。むしろ、「人間らしい」こととして通っているのですが、まさに、そこに愛がないこと、まさに神の御心によらないものであると考えなくてはならないということです。
     ユダの物言いからすれば、ユダは主イエスから完全に離れてしまっています、ユダは主への心を閉じたまま、もはや主イエスを「わたしの主」としていません。その限りにおいて、ユダは自分自身のために生き、主イエスを利用するために主のそばにいたことになります。つまり、主イエスを捨てて信頼せず、主の貧しさを愚かなことと捨て去る、不信仰が生まれています。誠実に主に仕えようとしないで、かえって主イエスが自分に仕えるように要求します。そこに主への愛はありません。主の十字架の道は、完全にユダに通じなかった、ユダに決断させ、そして主イエスから背かせてしまった、主の十字架への歩みに、主がなそうとされたものをユダは見ることはできなかったからです。
     ここでは、ただ主イエスを信じ、主により頼み、主のためにすべてのことから自由にされ、真面目に神のご支配と義とを求めた弟子だけが、主のもとにとどまることができた。一方、もはやユダにとって主イエスは、そうあって欲しい、より頼む相手だとは思えなかったので、自分を欺いたように思えた、そこで、今、主が自分の思い通りに動いてくれない、その意趣返しをしようと、ユダの中には怒りが燃え上がったということでしょう。
     ここで主は、ユダとマリア、一方は、ご自身に対して心を閉ざしたまま地上のものを求める心と、他方は、ご自身に向かって心開かれ、あらゆる自分の持てるものすべてをもって主をほめ讃え、愛することに喜びを見出す心と、この両方に直面しておられます。
     マリアのしたことは、主イエスのまなざしを死に向けさせるものでした。当時、人は墓に入る死体に備えるために香油を死体に注いだのです。事実、今が主のみ体に香油を注ぐ時です。なぜなら、主には墓が近いからです。今、主は墓に行く備えを受けられます。マリアの振る舞いをご自身の死への準備と受け取られました。マリアのように最も深くより頼んだ者が、主の生命に最も深く触れ、その生と死に深く結びつくということでしょう。
     主イエスはマリアの行いの中に、ご自身の死を指し示すものをご覧になったから、「この人のするままにさせておきなさい。わたしの葬りの日のために、それを取って置いたのだから。」というお言葉になったのです。
     主イエス・キリストの死がむだでない以上、キリスト者の献身に行きすぎるということはないのです。マリアは、いま、主が十字架の死を前にしていることを直観的に悟っていたのではないでしょうか。それで、どんなに高価なものをささげても、それがむだになるどころか、主に対する感謝と献身を表すに足りないことを知っていたのです。それゆえに主イエスはマリアの行いは彼女の愛のしるしであり、(死体にならだれでも香油をそそぐけれども、主イエスがまだ人々と共にいる今、マリアがそのささげものを携えて来てくれたから)まさに主を勇気づけるものであったから、喜んでそれを受けられました。また、そのように受け入れられたことでマリアから感謝されることにもなったことを思わされます。
     そして弟子たちには、「貧しい人々はいつもあなた方と一緒にいるが、わたしはいつも一緒にいるわけではない。」と言われました。これは、もしあなたがたがほんとうに貧しい人々に関心を持つなら、毎日それらの人々を助ける機会があるだろう。そのような人々はいつもいるし、助けを必要としているのだから。しかしこれは特別の場合なのだ。わたしに親愛の思いを示す時ははや過ぎ去った。わたしはまもなく死なねばならない、ということです。
     これはユダだけでなく、その場にいたすべての人々に対して言わなければならないことでした。マリアの献身的な行いを通して、主イエスが、そこにいたすべての人たちにはついて来られない場所へ去って行こうとしているという事実です。それでも、あなたがたは行うことができるし、貧しい人々の必要を満たす施しは、神に受け入れられ、神に喜ばれることである、といわれているのです。
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3月30日の説教から
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  • 3月30日「憐れみ深い父」

    2025.3.30受難節第四主日礼拝「憐れみ深い父」    伝道師 熱田洋子
    ルカによる福音書15章1―3, 11b−32節
     徴税人や罪人たちが主イエスの話を聞こうと近寄ってきたのを見て、ファリサイ派の人々や律法学者たちは不平を言い出したのです。それを聞いて、主はたとえ話をされました。主が徴税人や罪人たちを愛していてくださることは、わたしたちもわかっていることです。そして、そのことは、この人たちを冷たい目でみているファリサイ派の人々や律法学者たち、つまり、主イエスに反対する人たちに主の愛・憐れみをそそがないことでは決してないのです。神の愛とはこのようなもの、つまり「両方どちらにも」向けられているもので、「どちらか一方」ではないのだと今日の聖書の箇所にはいわれているのです。
     わたしたちのことを考えてみると、他者に対して神が憐れみを注いでいるのをみて、快く思わないでいる、不快な気分にならない、というのは難しいことではないでしょうか。とりわけ、わたしたちが、人の行いや性格について真面目な問いを持っている場合にはそうであるように思います(自分は正しいことをしている、奉仕もきちんとしている、あの人はそうでないのに…)。
     神は、人間をロボットのように動かそうとされるのではなく、一人ひとりの自由な思いから神に従うことを期待しておられます。しかし、この自由をはき違えてしまうと、神から逃げ出し、反逆する道を歩んでしまうことになりかねません。わたしたちの現実をみると、神の子とされ、恵みによってかえりみられ、主の召しを受けながら、それに反抗して、自己中心の道を歩んでしまうことがある、それが、この放蕩息子の姿によく現れています。
     弟息子は当時のユダヤ教の慣習にあったのでしょうか、父の遺産の三分の一を受け取り、全部を金に変えます。遺産ですから、たいていの場合、父親の死に際して受け取られますが、もっと早くに分配されることもあったようです(列王記上1−2章)。そして、弟息子は父と共にいることをいやがり、一人ひとりがかけがえのない者として覚えられる家族の一員であることから逃れ、自分の欲望を抑制するもののない「遠いところへ行き」ます。家族の中の役割から抜け出して、何者にも束縛されることのない自由な生活を始めます。しかしそれは、生活態度も金の使い方も放蕩な生活になって、破滅の道へころげおちることでした。
     ここで無駄遣いしてしまった財産とは、父がこの息子に委託したものでしたから、弟息子はその責任を放棄したこと、つまり、父の期待を裏切ったのです。神学者ボンヘッファーは、キリスト者として生きるとき、神の「委任」を真剣に受け止めることを強調します。つまり、わたしたちは、この世で、労働、結婚、政治、教会も生きるうえでのそれぞれ置かれたところにおいて、真の支配者である神から委任を受けて管理にあたっていると考えることなのだと言いました。それらは人間に与えられた特権であるとともに責任なのです。
     そうすると、この息子が父からの財産を浪費したということは、神から委託されたものを無視するという人間の罪を示していることです。弟息子の放蕩と浪費の生活の結末として悲惨な破局が訪れます。父や隣人と共に生きることを束縛だと拒み、自分の思いのままに生きることは、一見、自由のように見えますけれど、本当は孤立と無関心の世界にさまよいでて、ついには困窮のうちに行き詰まるようになります。すべてのよき賜物を与えてくださる方・御父(ヤコ1:17)から受ける代わりに(主の祈り第四祈願)、人は必要とするものを自分で苦労して見つけ出さねばならないのです。家を出た弟息子の窮迫した状況が描かれます。
    「その地方に住むある人」のところに身を寄せ、辛うじて豚飼いの仕事をあてがわれたにすぎなかったのですが、ユダヤ人にとって、豚は汚れの象徴でしたから、豚を飼う生活は、父の家を捨てた息子にどうにもやりきれない屈辱でした。飢饉が起こって食べるにも困り始め、餌のいなご豆のさやさえも食べたいと思ったというのです。このたとえ話には、“ユダヤのことわざ”を思い出させます。「ユダヤ人がいなごまめにしか頼れなくなったら、そのとき悔い改める(直訳すれば「立ち帰る」)ということわざです。それが当てはまっていきます。
     飢饉が起こるとは、「生めよ、ふえよ、地に満ちよ」(創世記1:28)の神の祝福が止められることです。この異常な非常事態に立ち至った人間に神が問いかけられます。この息子に、神は餓えを通して「どこにいるのか。」(3:9)と問いかけておられるのです。息子がどこから道を外れたのか、どうして道を外したのかを思い起こさせて、異郷の地から帰る道をさがすように促されます。
     そこで、今や、息子は、自分を見失っていた中で「われに帰った」のです。祝福に満ちた父の家、父が裕福だったことをはっきり思い出しました。というより、思い起こすことによって、われに立ち帰ることができたのです。ただ父の目の届くところで生きたい・働きたい、と願ったのです。人生の危機に直面して、父なる神を思い起こすとき、悔い改めて父に帰る心へと導かれます。
    「ここをたち、父のところへ行って言おう。」『お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。』息子は、父に対する不孝を痛切に感じると同時に、神に対する罪責をも深刻に自覚しました。この罪に気づいたとき、方向転換をして、父の家に帰ることを決意したのです。悔い改めには、心の方向転換とともに、単に心の持ち方にとどまらず、新しい生活をするように道が備えられていくものです。
     それとともにへりくだって、自分の罪に目覚めると、神の御前に何ももっていない、父によって生かされていたことを気付かされ、そして、息子は、父の家でしもべとして生きることを願い、父親のもとへ行きます。
     ところが、父親は帰ってくるわが子がまだ遠くにいるのに気づきます。ということは、父が家の外に出て息子の帰りを待ち受けていたことです。息子が出ていって以来、父は帰ることを信じて、来る日も来る日も戸外に立って待っていたのです。息子が父を思い起こす前に、父は息子を思い続けていたということでしょう。神の恩寵の恵みが先立つことを示している姿です。この息子のために財産を減らし、心を痛めてきた父親ですが、自分の苦しみを忘れて、息子が(みすぼらしい姿から)さぞ苦しんだことだろうと共感し、憐みをそそぎます。なりふりかまわず走り寄って、首を抱き、接吻したのも、強い愛情がここにあらわれています。
     このとき、息子が「雇い人の一人にしてください」と道々考えてきた言葉・罪の告白を、父は息子に最後まで言わせないで腕に抱き、祝いの晴れ着を着せ、指輪をさせ、はきものを履かせます。家に帰った息子はいまは何も持っていないとはいえ、ただ恵みによって父の家に留まり、息子として家の中で自由に生きることが許されるのです。さっそく父は、祝宴を始め、息子の罪を赦しただけでなく、新しい交わりを開きます。
     このような待遇がなぜなされたのでしょう。人間は交わりに生かされています。この間、父と息子の愛と信頼の交わりが断絶して、息子が父から孤立していた、それは父から見て息子が死んだも同然だったのです。神と人間との関係を考えると、わたしたちが神から逃げ出し、創造者(造り主)との交わりを断つとき、自分自身を死と滅びの中に投げ込んだと言うことができるでしょう。
     神はわたしたち人間の死を望まれません。わたしたちに生きること、共に生きること、交わりの回復をなさろうとされます。したがって人間が悔い改めて帰ってきたとき、「生き返った」、「見つかった」という喜びを持って迎え入れてくださるのです。
     主イエスが語ってこられたことを思い出します。わたしたちが神の子とされて、主の者として生きる出発点は、わたしたちが奉仕したから、犠牲となって何かをしたからではなく、神ご自身がそこにおられたということです。そしてまた、堕落した子であってもご自分の子であり、主はその子を追い求めておられるのですから、神は悔い改めた罪人を子と認められるということです。
     ここに、もう一人の息子の物語が続きます。祝宴のさなかに畑から帰ってきた兄息子は、放蕩のあげく無一物で帰ってきた弟を懲らしめもせず迎え入れて、責任を取らせもせずに祝宴を設けている父の甘さに我慢がならなかったのでしょう。そこで怒って家に入って来ようとしませんでした。父は、外にいる弟息子のために戸外に立ちつくしましたが、兄息子を家の中に迎え入れるために、またも家の外に出てこなければなりませんでした。
     人はしばしば神よりも厳しくなります。神はお怒りになられますが、それは、愛するが故にお怒りになるのです。しかし人の怒りは怨念、憎しみ、嫉妬や復讐からです。
     兄息子は父に向かって『わたしは何年もお父さんに仕えています。言いつけに背いたことは一度もありません。』と言います。仕えるとは、しもべとして働くことです。兄息子は父の家での生活をしもべのような屈辱的なものと感じていたということでしょう。弟息子は父のもとにいるのに感謝もなく束縛と感じて家から出ていったのですが、兄息子の気持ちも、この弟と同じように、自分がどれほど恵みをいただいているかに気づいていないので、父への愛と共にある喜びがないのです。
     兄息子は怨みがましく、自分の苦労と父がそれを軽んじていることを訴えた後、父の不公平をなじっています。兄にしてみれば、正直ものが馬鹿を見るようなことは許せないのです。兄息子は弟の罪を口実として、自分に愛のないことを正当化しようとしているのではないでしょうか。自分を義人であると思うところから罪が生じていること(ファリサイ派の人々のように)に通じているように思います。それでも父は自らを義とする嫉妬深い兄息子に家の中の祝宴に加わるように招いています。
     このような兄息子に父は「子よ」と優しく語りかけます。放蕩した弟息子に父はいつでも父であったように、怒る兄息子にも父は父であることに変わらないのです。『お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ。』この父親と息子との関係は何と絶対のもので何の条件もついていない言い方でしょう。弟息子と同様に、兄息子にも父の深い、そして計り知れない愛が現されています。
     兄は弟のことを「あなたの息子」と軽蔑して呼んでいたのですが、それを正して、『お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。』と言います。同じ父親の愛のもとに、共に恵みを与えられている者が一緒にいることを願っているからです。父は息子を迎え入れ、それによって兄も弟を受け入れることができるのです。そのために父は兄息子が祝宴に参加するように懇願するほどに招いているのです。
     主イエスは、兄息子がその後どうしたかは語っていません。また、弟息子が父親の歓迎する愛にどう応えて暮らしたかも語りません。どちらにもあてはままる課題が投げかけられているように思います。わたしたちは自分自身を放蕩息子とみなし、神の愛によって受け入れてくださることに喜び感謝しがちです。そして、その愛に適切に応えていくことができればさらに恵みが増し加わることでしょう。しかし、わたしたちは、自分自身を兄息子の立場に置くこともあるのではないでしょうか。わたしたちが信仰をもっているとしても、わたしは正しいことをしている、自分が正当に評価されていないと不平不満をもち、自己中心的な考えで他者を批判的に見ることがないでしょうか。主イエスは、たとえを通して、悔い改めて神のもとに帰る者を神が望んでおられることを語られます。放蕩息子であろうと、徴税人や罪人であったために食卓の仲間として受け入れがたい人々であろうと、神のもとに帰る時に、その人を食卓の交わりに受け入れようとされます、そこには、それに不平を言う人々をも招いておられます。何にもまさって、神がわたしたちと共にあることを喜びとされる恵みを知らされます。そして、わたしたちにも、何にもまさって神を愛し、またきょうだいと共に生きることを喜びとするように促しておられるのです。
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3月23日の説教から
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  • 3月23日「悔い改めなければ」

    2025.3.23受難節第三主日礼拝「悔い改めなければ」    伝道師 熱田洋子
    招きの言葉 イザヤ書55章6―7節
     詩編55編17―18節 ルカによる福音書13章1―9節
     今日の箇所には罪の悔い改めと赦しを受けることの勧めが記されています。神の厳しさと寛大さ、つまり、神はわたしたちの行いをさばかれるお方ですが、わたしたちすべてに悔い改めの機会を与えてくださっているのです。
     前半では、歴史的には他に確かめようのない二つの痛ましい事件を思い起こさせます。一つは、エルサレムで、礼拝の際に、ポンティア・ピラトによってガリラヤ人に対して血の復讐が行われたということ、また、シロアムの池の近くにあった塔が倒壊したことです。主イエスは、どちらも、「…あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる。」という言葉で結んでおられます。一方は、人間の邪悪な行為により、もう一方は、自然の恐ろしさというようなもので、主イエスは、こう言われることにおいて、この世のすべてを包括しておられるお方なのです。
       このようないたましい事件はなぜそれらの人々に起こったのだろうか、いつのときも、そしてよくある問いです。この問いは人類の歴史と同様に古いもので、何か悪いことをしたから、こんな苦しみを受けたのだろう、と、苦しみと罪とを直接関連させてしまう見方がその前提にあります。あるとき、主イエスの弟子たちが主に尋ねたことがあります。「ラビ(先生)、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」(ヨハネ9:2)。弟子たちがこの人のことについて神の罰とでもいうような受け止めをしていたことは否めません。
       しかし、主イエスは、聖書に書かれているように、貧しい人、弱い立場の人、目や身体に不自由なところのある人々の上に神の恵みを伝えてきました。そのようになさったことは、人の経済的、社会的、身体的な何かのゆえに、その人は罪を犯しているのだという考え方を打ち砕くようなものでした。間もなく、主であり、神の御子イエス・キリストは、律法を持たない者たちの手も加わって苦しみを受けます、実にそのことが、苦しむ者は最も悪い罪人だ、とする関わりを永久に葬り去るようなものでした。
       しかし、人々のそうした見方はなくならなかったのでしょう。暴動の犠牲者も不慮の災難にあった人々に対しても、一般の人にとっては、エルサレムの他の住民以上に罪が深かったかのように思ったのです。人々は、暴虐と苦しみとは偶然のことだったのか、あるいは神の公平さはどのようにして保たれているのかを知りたがって、主イエスのところに来て問いかけました。この問い、思いがけない事故によって純朴な人々が命を失ったというニュースを耳にする時、わたしたちも、ひょっとするとこのような疑問をいだくかもしれません。
       主イエスの答えは、「とんでもない!あなたたちに言って聞かせよう…」ピラトの弾圧による犠牲者も、シロアムの塔の崩壊で命を落とした人たちも、今ここにいる人たちと比べて、罪が重かったなどということは決してないのだと、確信をもっていわれます。
       因果応報のような思いを人々の頭から払い除けました。むしろ、他人が被った災難を見て、自分たちの方がましだと思ったり、あるいはそのような人をみても対岸の火事だとちっとも痛痒を感じない、その心こそが、実は、神のさばきの対象となるのです。なぜなら、そこには自己保全(わたしはそのような者でなくてよかった)を喜ぶ思いがあるからです。そこで、「あなたがたも、それらの人たちと同じ罪をおかしていることになる、だから悔い改めなさい」という呼びかけではなく、もっと強く「むしろ、あなたたちも悔い改めなければ、全員同じように滅びるのだ!」と言われます。特別に強調するのです。主イエスがお答えになったのは、人々に、神に対する悔い改め、つまり、考え方と生き方を一新するように求めているということです。そうしないかぎり、あなたたちが見ているこれらの人たちのあわれな運命は、まさに、あなたたち自身のものとなるだろう。このことがわからずに自己保全の喜びがあっても、あの犠牲者たちの不幸にまさる不幸なのだ、というのが主イエスの答えです。
       そこで、ぶどう園にいちじくの木を植えるというたとえ話をされます。このことはイスラエルを象徴しています。ぶどう園の主人は、いちじくの木の実を楽しみにしていました。その実りがないことを繰り返します。期待が大きいほど失望のいらだちは大きいです。そこで“切り倒せ”と言い放ちます。これは実を結ばない不毛の民イスラエルに対する神のさばきの宣言に聞こえます。旧約聖書では、ぶどうの実がない、いちじくもないときの預言者の厳しい言葉が書かれています(ミカ書7:1-4)が、そのような預言者と異なり、園丁は「御主人様、今年もこのままにしておいてください。…」と訴えます。
       三年もの間、と主人は言います。この間、園丁は実を結ぶようになるために労苦し、主人の期待に沿うように努めてきました。それは、良い結果が生まれてこそ意味を持つ努力だったのです。ですが、すべては徒労に終わるかのように見えます。主人の忍耐も、いまや限界に達しています。しかし、園丁は、「今年もこのままにしておいてください。」と主人に乞い願います。「木の周りを掘って、肥やしをやってみます。」となお一年の猶予をもらおうとしています。
       いちじくの木のたとえ話を通して、ユダヤ人の運命を思わされます。実を結ばない木は将来性がありません。おそらくそれを切り倒す方が賢明で、間違いなく簡単なことです。主人は実を待っていたのに、ここまでは実を結んでいないのだから、誰もが木は切り倒されるだろうと思っていました。
       しかしここでようやく「希望の光が差し込む」のです。園丁は木が生き延びて実を結ぶことを望み、その可能性を考えて何と高価な道を選びます。「木の周りを掘って、肥やしをやってみます。」と言います。木の根元とは悔い改めが起こらなければならない場所です。この園丁の申し出を、神学者シュラッターは「イエスは、神の憐れみの職務に就き、神の判決をこうむるものたちのために執り成しの願いをするお方となる。」と説いています。主イエスが執り成しをしてくださるのです。
       ここには、主イエスが神のさばきにあらがう園丁として描かれます。主のあわれみが注がれます。主のあわれみは、ほかにもところどころに見られます。
       最後の晩餐の夜(22:31-32)、ペトロに、「シモン、シモン、サタンはあなたがたを、小麦のようにふるいにかけることを神に願って聞き入れられた。しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」このときも主イエスは、みもとに来るすべての人に常に繰り返して救い主であってくださいます。主のもとに留まる限り、たとえ絶対的、最後的な神のさばきが下されようとしていても、なお、あわれみの望みは絶え果てることはないということです。
       最期の時も、主と一緒に十字架にかけられた犯罪人のひとりは、死の直前に「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と言うと、主は「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」(23:42-43)と言われたのです。     「実」を結ばせようと繰り返される願いは、以前にも聞いたことがあるのではないでしょうか。主イエスの宣教の働きに先立って、洗礼者ヨハネが荒れ野から呼びかけました。神の怒りが差し迫ってきている、だから、イスラエルの人々に罪の赦しを得させるために、「悔い改めにふさわしい実を結ぶように」と悔い改めの洗礼を宣べ伝えました(3:8)。そのヨハネの使命を再び思い起こさせます。そしてヨハネから委ねられたかたちになりますが、主イエスは「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」(マルコ1:15)主イエスはこう言って宣教を始められました。村村をめぐり歩き、この福音を宣べ伝えられたのは、おおよそ3年間、そして最後の年、エルサレムに上り、十字架にかけられ死なれる。
       3年間いちじくの木の実を求めて得られないのを見て、それを切り倒してしまえと主人は最後的な判断を下そうとしています。それに対して、今年一年だけ待ってください、と園丁は猶予を願います、このやりとりは、主イエスがこの年に達成しようと決意しておられた救いの御業と重なり合うように思われます。そう考えると、この一年間になされる園丁の作業は特別な意味を持っています。これまでなされたことの単なるもう一年継続というより、何か決定的な園丁のいのちがけの行いが考えられていたということです。「そうすれば、来年は実がなるかもしれません。…」
       主イエスは、(先週も御言葉から聞きましたように、)弟子たちにご自身の受難を告げ知らせ、神の御心、罪の中にある人々を救うために、ご自分が罪を負って死ぬことになる、それが神の御心であることを固く受け止められました。‘掘って肥やし’をやってみます。それは、いちじくの木が実を結ぶことようになるために、つまり、人々が悔い改めて福音を信じるようになるための益になる働きを自分がするのだ、つまり肥やしになろう、そう思われてこの言葉を口にされたのではないでしょうか。こうして「もしそれでもだめなら、切り倒してください。」と続きます。
       そうであっても、園丁の必死の努力は結局むなしいかもしれません。主イエスの場合、これからゴルゴダの十字架の死へ向かう道を歩んで行かれます。そこでは捕えられる主を見捨てて弟子たちは逃げていきます。主は十字架の上でのお苦しみの中で「父よ、わたしの霊を御手に委ねます。」と言って息を引き取られました。そして墓に葬られました。
      それで、すべてが終わったのでしょうか。そうなると、園丁である主イエスの望みはどのようにして実現することになるのでしょうか。
       それは、主イエスのご復活と、その後の弟子たちの新しい出発によるのです。その時を待つことになります。ルカ福音書の第二部が使徒言行録だといわれます。この箇所がどうなったのかそこへつながっていきます。
       このところでは、神の御心に背いていては実を結ばないのだということを強調し、その木に肥やしと実を結ぶための時間を与えられるという神のあわれみが示されています。実を結ばないでいるにも関わらず実を結ぶ可能性があること、つまり、神の目的に従うことによって救いへと導かれるものになれるのだという可能性をも示しています。神のさばきを告げるということは、救われる希望も同時に強調しています。実を結ぶことは悔い改めることを強調することと表裏一体のものなのです。
       わたしたちは神のさばきのときが来ることは知らされていますが、神のあわれみを与えられ、主イエスの執り成しによって守られています、言い方を変えると今は恵みの時であることを覚えます。この中で、主イエスの救いの福音を信じ、悔い改めにふさわしい実を結ぶことができるように、そのような実りある人生を送る一人ひとりでありたいものです。
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3月16日の説教から
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  • 3月16日「これはわたしの子。これに聞け。」

    2025.3.16受難節第二主日礼拝「これはわたしの子。これに聞け。」    伝道師 熱田洋子                                             ルカによる福音書9章28〜36節
     「…わたしを何者だと言うのか。」と主イエスから問われて、ペトロは「神からのメシアです。」と答えます(9:20)。メシアとは、旧約聖書から約束されていた救い主のことです。ペトロはここで信仰告白をしました。
     この告白を聞かれた主イエスは、弟子たちに言われました。「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活することになっている。」(9:22)と。人の子とはご自身のこと、これから受難に遭うのだと告げられます。それは、主イエスが、神の救いのご計画に従って、エルサレムの受難の場へ向けての道を歩み始められること、そのことを初めて弟子たちに話されました。そして、直後にこの出来事が起きます。 
     八日ほどたったとき、主イエスは、三人の弟子たちを連れて、祈るために山に登られました。主は祈るために山に行かれます。山は主の活動において重要な役割を果たしています。山で祈られる、いやし・奇跡を行われ、誘惑を受けたのも山、そこに弟子たちを呼び、またそこから弟子たちを宣教に送り出し、そして受難を遂げられることにもなります。
     この時、主は山に登って祈られました。主は頻繁に祈られるお方です。洗礼を受けて祈っておられる(3:21)姿が書かれていますし、主は祈りの生活をずっと続けられました(5:16,6:12,9:18)。主の活動の重要な場面(病の人をいやすときもそうでした)に主イエスの祈りの姿が記されています。祈りの生活によって、神の御心を受け止めておられたので、福音を宣べ伝える働きは神のご意思のうちに支えられていたのです。
     この時は、一大転換点でした。エルサレムへ向けて決意を固める時だったのです。ここに苦難の道と祈りが結びつきます。神から苦難の道を歩むように示され、それを御旨として受け止められる、それが祈りによって結びつけられて、実際に進んで行かれます。
     ところで、わたしたちにとって“祈り”は、信仰の生活にどれほど結びつけられているでしょう。わたしたちは神の御旨を知って、それに従おうとします。それが信仰です。どのようにして神の御旨を知り、御心なのだとわかることができるでしょうか。聖書の御言葉を読むことはもとよりですが、それとともに、祈りによって、その時、御心にかなうこと、わたしの思い通りではないことも主の御心が示されます。祈りの終わりには、わたしの思いではなく、御心がなりますように、と祈り、主に従いますと言っています。そうすると、信仰とは端的に祈るということが大切、欠かせないことです。
     このとき、どうして、主イエスは十字架の道を歩み通すことがおできになったのでしょう、それは祈りによって天からの力を得ることができたからだと聖書は記します。ヘブライ5:7-9「キリストは、肉において生きておられたとき、激しい叫び声をあげ、涙を流しながら、ご自分を死から救う力のある方に、祈りと願いとをささげ…」ということも同じことをいっています。
     祈るために、主は三人の弟子たちを連れて山に登られました。ゲッセマネの祈りも同じような道連れで、主が祈っておられる途中で弟子たちは眠り込んでしまいます。その姿は印象的です。それなのに、弟子たちを連れて行かれたのは何のためだったのでしょう。直前に、主はご自身の受難を予め告げられました。聞かされた弟子たちはどのように受け止めたのでしょう。日頃、弟子たちが「先生」と呼びかけている主が本当はどういう方なのか分かっていたのでしょうか。
     そのような弟子たちですが、主イエスの十字架と復活の後には、聖霊が降るとの約束を待ち望んで「心を合わせて熱心に祈っていた。」(使徒言行録1:14)という者たちになっています。主のご生涯の一大転換点において、主は、祈ることのできない弟子たちを連れて山へ登られた、祈りの場に向かわれました。そのことは、主のご復活後の弟子たちの姿を思い描いておられたということではないでしょうか。それとともに、将来の教会の姿、つまり主イエスの祈りに励まされて共に祈るわたしたちの姿の先取りを、主はなさっておられるのではないでしょうか。教会に集うわたしたちも神の救いの約束を信じて祈っています、そのことを主が望んでおられたのです。
     このとき、主イエスは祈っておられるうちに、み顔の様子が変わり、服は真っ白に輝いたのです。この出来事は、「主の変貌・変容」といわれます。
     弟子たちは、眠い目をこらえて、見ると、主イエスと二人の人モーセとエリヤとが語り合っていたとあります。そこには、栄光に輝く主イエスと天から遣わされたモーセとエリヤが見えたのです。語り合っていたのは、「イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期について話していた」、と記されています。主の十字架の死と復活について語り、そして栄光に輝く姿は昇天に結びついているのでしょう。
    「栄光」といいましたが、栄光とはいうことはどういうことでしょう。わたしたちは礼拝において親しんでいる言葉ですが。ルカ福音書では、イエスさまの誕生の知らせの中で、神の天使たちが賛美しています。「…いと高きところには栄光、神にあれ、」天使たちは、神が世を治める力(すばらしい威力・オーラ)がこの新しく生まれる赤ん坊と関連しているとはっきり言っています。また主イエスのことについて、「…わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。」(ヨハネ1:14)。とあり。主イエスによって、賛美されるにふさわしい神の威厳ある力とされる栄光を見ることができるようになったというのです。
     神のしもべモーセは神の言葉を「教え」十戒として授かったのでしたし、エリヤは、人々の心を悔い改めに導く預言者として紹介されます。栄光の中に現れたことは、この二人が神から遣わされた使者であることが示されます。主イエスに、天の使いとしてのモーセとエリヤが語ったことは、重たいのです。神の御心がそこに伝えられているからです。主イエスは夜を徹して祈られ、その祈りの中で、神の御旨が固く変わらないものであるという神からの答えを与えられました。そこにモーセとエリヤが派遣されてきたことで、それははっきり確定したのです。神の御旨は、主イエスが受難を受けること、その決意を促されたのです。
     わたしたちはこの出来事の神秘に隠されているものを見たいと願ってもそれはできないのです。主イエスと三人の弟子たちはこの場で神に出会った、神を経験したのです。それぞれ立場は違いますが、しかし、この出来事を唯一行っておられるのは神さまです。モーセとエリヤを遣わして、二人と主が結びついていることをはっきり示し、主イエスがまさしく神の子であるとはっきり言われました。それは御子を受難から救うことができる神が、ここで、主イエスのために十字架の道を確かに歩ませるといっておられることです。
     しかし、弟子たちは、ペトロが告白したメシア、神から遣わされる救い主とは、この世に神の国を建てられるお方であることを期待して、希望を持っています。直前で、主イエスから受難を予め知らされたのでしたが、受難を受ける方(捕えられて十字架に付けられる)とは思っていなかったでしょう。そのような弟子たちに、このとき神は、主イエスがエルサレムで最期を迎えるということ、死はいやおうなしに確かなことだと示されたのです。それは弟子たちにとって思いもよらない非常に辛い状況になります。そうであっても、それとともに、栄光に輝く主イエスの姿を見せています、そのことによって、受難を受けても、神の救いの目的の完成への道をさえぎるものではなく、その途上にあるものなのだと、気づかせているように思います。
     しかし、この突然の光景に面食らっているような弟子たちでしたが、主イエスの復活の後、時がそなえられてこのことを思い出し、主イエスの栄光に輝く姿、それは主が神であることを示してくださったのだと、やっとわかるのです。そして主に従っていく者になって、主イエスの福音・良き知らせとして広く伝えていくことになります。
     まだ、このときは、弟子たちは、主イエスが栄光の中に居続けてくれることを願っていますが、ここに雲が現れて、弟子たちは恐れていると、雲の中から声が聞こえました。「これはわたしの子、選ばれた者。これに聞け。」選ばれた者とは、主イエスが、苦難のしもべ、主のしもべであることを指し示しています。
     主が洗礼を受けられた時に、天から声が聞こえました。「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」(3:21)この時は主イエスに声かけをされましたが、ここでは、主イエスがメシア・世の救い主であると受け止めるように、それとともに弟子たちに語りかけています。弟子たちに、主イエスがどういう働きをされるお方かを告知されたのです。
     直前、ペトロは、主イエスのことを「神からのメシアです。」つまり、主がキリストであると信じますという告白をしました。それに対して、キリストを信じるとはこういうことなのだと神の答えがはっきり示されます。苦難の道をエルサレムに向けて歩みゆこうとされる主に従うようにとの指示が与えられたということです。主の栄光の姿を見た後の弟子たちに向けて、神が直接語りかけられたのです。
     直前の主のお言葉「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを救うのである。」(9:23-24)がありました。弟子たちは、主からこのような招きを受けつつも、受け止めることに困難を感じていました。
     このとき弟子たちが目にした光景、栄光の主の姿、モーセとエリヤとの語り合い、神が備えてくださった出来事から示されたのは、十字架と神の国の栄光とは決して切り離されてはいないということです。むしろ、苦難の十字架に対して、神の国の栄光を約束されています。主イエスが苦難の十字架の道を歩まれる決意を固めるべく、山で祈っておられた時にこそ栄光の姿に変えられ、栄光の中にモーセとエリヤが派遣されたことも、この約束に通じるものです。 「これに聞け」旧約聖書を通して “聞くこと”は、“聞き従うこと”です。弟子たちは、目で見たことを、いま神の言葉として耳で聞いています。父なる神がイエスを神の子として、救い主であることを伝えているのです。それは、苦難を経験しなければならない神の子としてのイエス、そして弟子たちに苦難を分かち合うように呼びかけることになる、主イエスの働きのことです。神の子イエスさまが救い主として、受難、復活されたのち神とともにおられるようになること、弟子たちがこのとき経験したことによって、やがて苦難の中を主に従って歩んでいく弟子たちにとって深い慰めとなったのです。
     示されたように、十字架の道は栄光の道と別々なのではないのです。弟子たちが主イエスをどのように見たのか、弟子たちに天の声がどのようなことばを聞かせてくれたでしょうか、これらのことは、教会がこの出来事を通して、苦難の道と栄光の道が結びついていることと受け止め、慰めと励ましを受け取ることができることを示していてくれます。
      この出来事(変貌)は神がもたらされる神秘的な経験と同様に、孤独と沈黙のうちに終わり、神の言葉はもはや聞こえませんが、神の子イエスさまは依然として弟子たちとともに立っておられ、エルサレムで使命を果たすために残っておられました。弟子たちはこのとき見たことを当時だれにも話さなかったのです。この出来事の意味を広く言い表すためには、弟子たちには新しい「舌」が必要でした。この「舌」もまたペンテコステ(使徒2:1-41)において聖霊の働きとして、神によってあらわされ授けられるものでなければなりませんでした。
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3月2日の説教から
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  • 3月2日「驚くべきみわざ」

    2025.3.2主日礼拝「驚くべきみわざ」         伝道師 熱田洋子
    詩編139編、ヘブライ人への手紙4章13節
     2025年の「世界祈祷日」は、3月7日、聖パウロ教会に集まって祈り合います。今年は、詩編139編14節「わたしはあなたに感謝をささげる。わたしは恐ろしい力によって 驚くべきものに造り上げられている。御業がどんなに驚くべきものか わたしの魂はよく知っている。」ここから『わたしたちはおそろしいほどに、すばらしく造られています』というクック諸島からのメッセージを聞き祈ります。わたしたちも、み言葉の恵みを一緒に聞きたいと願い、詩編139編全体を読むことにしました。
     詩編はわたしたちの中にあるものを、余すところなく、あらゆる言葉の表現によって表しています。改革派の神学者カルヴァンは、詩編を「魂のあらゆる部分の解剖図」と言い表しています。詩編は、わたしたちの中で起こっていることに、これほどまでに通じていることを思わされます。そこにはわたしたちについてあらゆることをあからさまに語られています。苦悩、悲哀、恐れ、疑い、望み、慰め、惑い、そればかりか、人間の魂を常に揺り動かす気持ちの乱れを生々と描き出しています。
      詩編139編において、初めに、人間性の神秘が賞賛されています、それは重要なことです。
        主よ、あなたはわたしを究め/ わたしを知っておられる。
        座るのも立つのも知り/ 遠くからわたしの計らいを悟っておられる。 1―2節
        あなたは、わたしの内臓を造り/母の胎内にわたしを組み立ててくださった。
                                    13節
        秘められたところでわたしは造られ 深い地の底で織りなされた。
        あなたには、わたしの骨も隠されてはいない。       15節
     そして、憎むことができる能力についても語っています。
        主よ、あなたを憎むものをわたしも憎み
        あなたに立ち向かう者を忌むべきものとし  21節
     憎むことのできる能力は、人間性の神秘に属するものです。
     139編から人間性の神秘とその中にある憎しみを聞いていきたいと思います。

      詩人はどのような状況でこの詩を書いたのでしょうか。この人は、自分の命を脅かす邪悪な人々を心配しています。いま、まさに、他人に傷つけられ、悪人や血に飢えた者、神に対する悪意を口にする者、神を憎む者が迫ってくるのを感じているのです。このように対立し、敵意に満ちた状況の中におかれていて、この人は、神が自分のことを完全に、親密に知っておられることを理解しています。しかし、初めは、神に追い詰められて逃げられないという事実を前にして、複雑な思いをいだいていたことがわかります。それでも、終わりには、神がおられること、その神に信頼して身をゆだね、神に希望を託します。
     最初から、詩人は「主よ、あなたはわたしを究め、わたしを知っておられる。」このように、神に直接語りかけます。「あなた」と「わたし」と言えるほど神との深い関係が表されています。
     6節までに、詩人は、神が自分のことを、内面も外面も、日々の生活の細部まで、また言葉にされない思い、わたしが心にいだく思いもすべてご存じであることをはっきりと受け止めています。苦悩するこの人にとって、こう考えることは慰めになったかもしれません。といっても、眠るとき、外出するときなど、すべての行動を見守っておられるというと、閉じ込められ完全に包囲されていると感じてしまいそうです。見方によっては、トラブルから守っていてくださるといえるかもしれないですが、それは好ましいことなのでしょうか。
     4節「主よ、あなたはすべてを知っておられる。」とあり、わたしたちの精神の最も奥深いところにまで神の目は届いています。そして、あらゆる方向から取り囲まれ、神の御目から逃れることのできない状態に置かれていたということに疑いの余地はないのです。それは言い方によっては、「御手をわたしの上に置いてくださる。」とは神の厳しい監視下に置かれている、そして神の御前にすべてさらけだされている(ヘブライ4:13)ということになるでしょう。詩人は、こう感じていくうちに、神の驚くべき知識に、それを自分の知識で測ろうとするのは思い上がりで非難されてしかるべきであると受け入れたのです。あざむいてまで成功できるなどと考えず、神の御前に自発的に心の奥底をさらけ出そうと言っているように思います。
     それでも、7-12節、「どこに行けば…、どこに逃れれば…」良いのでしょうか。神はすべてを包み込まれるので神から隠れることはできない、と訴えます。どんなに人の目につかない場所に身を隠そうとも、神は見つけ出される、それは真実です。10節「あなたはそこにもいまし 御手をもってわたしを導き 右の手をもってわたしをとらえてくださる。」ここだけ読むと、神は導き守っていてくださると、非常に前向きな印象を受けます。しかし、神から隠れたいという願いがあるけれどそれは不可能なのだと、神の態度におしつけがましいと不満を抱いているのかもしれません。どんなに考えても、神の力が及ばない場所などどこにもないのです。
     わたしたちはどういう者でしょう。神の御前に進み出るのに、どんなに消極的で、どんなに困難を極めてから、ようやく、心を開いて神の御前に出るのではないでしょうか。言葉では、神がすべてをご存じであることを認めていても、その一方で、神に背くことにためらいもなく、神を畏れ敬うことも忘れがちなわたしたちです。自分の過ちを知られたり見られたりすることを恥じていても、神がわたしたちをどう思っているかということには、まるで罪が覆い隠されて神の目から見えなくなっているかのように無関心なのではないかと思わされます。
     そんなわたしたちですが、13-18節、あなたは注意深く創造されました。神がわたしたちの心と内臓を形作られたのですから、それとともにわたしたちの最も秘密の思いを知っておられることに驚く必要はないのです。それは神がまさにわたしたちの中心に君臨しておられて、わたしたちの心のあらゆる曲がり角や奥底が神に知られているのは驚くべきことではないということです。わたしたちは驚くべき方法で形作られ、創り主に畏怖と畏敬の念を呼び起こすように計算されているというのです。
     驚くべきと言うのは、わたしたちの理解を超えた、ということです。わたしたちは畏るべきほどに、また驚くほどに造られているのです。産まれる前の時代にまで及ぶ遠い過去だけでなく未来をも知っておられます。神はあらかじめ計画をお持ちです。わたしたちは神によって最初にいかに特別に造られたかをあまり考えないでしょうが、神の御業を真に、そして正しく受けとめるとき、驚嘆するばかりです。わたしたちの理解を遥かに超えるこれらの驚異をよく知ることです。謙虚に、冷静に、神の驚くべき御業や、神の思いの広大さを知ることによって神を讃美するようになります。139編全体は、生命の神聖さと神から与えられたものであるとの確かさを証ししています。
     17節「あなたの御計らいは わたしにとっていかに貴いことか。」詩人にとって神が初めからずっと共にいて、自分のことを完全に知っておられることに疑いを持っていません。ところで、わたしたちはどうでしょう。神が深い知恵によって人間を創造し、生活全体を守り支えておられること、そして神は、全てを見聞きし、すべてを知っておられるという「偉大な真理」にたえず思いを馳せる人はどのくらいいるでしょうか。
     19節に至って、「どうか神よ、逆らう者を打ち滅ぼしてください」と、かなり意外な展開です。詩人は厳しい状況の中で、神の裁きと、神への畏敬の念と神の名への畏敬を深めたのでしょう。神を畏れぬ者たちに復讐が下されるよう、神に嘆願しています。悪事を企み、欺いて立ち上がる者たちに呪いの言葉を投げ、神を憎み、自分を高く上げる者たちへの憎悪・憎しみを言い放っています。血に飢えたものや神に悪意を語る者が立ち去ることを望みます。ここでは、詩人の憎しみは必ずしも相手に危害を加えたいというものでなく、むしろ相手から距離を置きたいという願望を呼び起こしているようです。
     詩人の憎しみは、主を憎む者たち、裁き主を冒涜し、悪意に満ちた言い方をする者たちへの憎しみです。憎む相手はほとんどが神は何者であるかを知らないのです。それだから傲慢で偽りの誇りを持って振る舞った者たちでしょう。神に憎しみを抱くのは、創造主を覚えず、神に背き、神の前に自分自身が取るに足りない者であることを忘れているからです。そのことが神の敵なのです。
     憎み・憎しみをもつことは、わたしたちの心の中に、そしてわたしたちの社会の中によくあるものです。わたしたちは、可能なあらゆる場合に、自分が正しくありたいと願い、そうでなければ、少なくとも、より強くありたいと願います。しかしながらそれほど多くはなくとも、人を言葉で侮辱したり、侮辱の思いを心に抱きながら、相手の境遇が逆転して不幸になり、自分が満足する時が来るのを待つこともないとはいえないでしょう。わたしたちは仕返しをしたいという願いをすっかり克服しているといいきれないように思います。そこに憎み・憎しみの思いを詩編のように言葉にすることは、わたしたち自身についての新しい気づきへと導きます。つまり、人間性というものを真剣に理解しようとするならば、憎み・憎しみもその中に含まれるのです。
     詩人は、追いつめられたところで、神についてよくよく考えて、深いところをすべて探り尽くす神の目から逃げることはできないとわかったのです。その結果、今、神を前に置く敬虔な生活を送る決意を固めたのです。神を軽んじる者たちへの憎しみを言い表すことで、事実上、自分の誠実さを主張しています。そして、敵の脅威の中にあって、自分で相手に立ち向かうのではなく、その危機が取り除かれるように相手から距離を置きたいと神に嘆願しています。
     24節「どうか、わたしを とこしえの道に導いてください。」神に願うのは、心を見られる神が、あなたのしもべであるわたしを最後まで見守り、その生涯の途中で見捨てないでいてくれることです。とこしえの道とは、神によって選ばれた道、真の生命に至る道です。139編の神は最後の頼みの綱です。そこにより頼んでいます。この詩人のように、いま生きる「わたし」が、神を「あなた」と呼びかけることができるなら、誰よりも、何よりも近くにおられる方です。その方は、たえず心から御言葉に聞き従うものであるように願っておられます。そうして、神は、わたしを、どんなときも、見捨てられることもなく、共にいて支えてくださいます。
     この詩はダビデの詩とされます。当時、激動のイスラエルの王政時代にダビデ王がこれらを口にしている様子、そして詩編がまとめられた時代、バビロン捕囚から帰還した人々がエルサレムでこれらの言葉を口にしている様子を想像すると、主を神として認めない国々や民族に囲まれる脅威の中にあったのです。
     この詩人と同じように、パウロも、キリストを信じる者たちは多くの脅威に直面することを知っていました。その経験からわたしたちに呼びかけています。
    「神がわたしたちの味方であるならば、だれがわたしたちに敵対できますか。わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか。だれが神に選ばれた者たちを訴えるでしょう。人を義としてくださるのは神なのです。だれがわたしたちを罪に定めることができましょう。死んだ方、否、むしろ、復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に座っていて、わたしたちのために執り成してくださるのです。だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。」(ローマ8:31-35)わたしたち一人一人は神によって形作られ、組み立てられました。神の御目はわたしたちを胎内にいるうちから捉えておられました。わたしたち一人一人は、神を畏れ敬うほど、驚くほど際立って、目を見張るほど、人間には説明できない方法で形造られていたのです。いつの時代も、信仰をもつ人々が悪、流血、あざむき、苦難や危険に直面するとき、139編の言葉は、神が一人一人を創造し、慈しみをもって守っていてくださるという慰めと確信を与えてくれます。そして、わたしたちには執り成してくださる主イエス・キリストがおられます。5日から受難節に入ります。わたしたちの救い主イエス・キリストの御言葉と御業を覚えながらイースターへ向けて信仰を深めていきたいものです。
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2月23日の説教から
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  • 2月23日「子どもたちのパン」

    2025.2.23主日礼拝「子どもたちのパン」(抜粋)      伝道師 熱田洋子
    マルコによる福音書7章24―30節、列王記下4章30節 
     主イエスはユダヤの国境を超えてガリラヤ北部・西部に入っていかれた。それでも、主のなさっていることはこの地域に住んでいた人々に知られる。主イエスはこのような外の人々をも引きつけることができる。
       そこに、一人の女性、ギリシア人でシリア・フェニキアの生まれ、異教徒であり異邦人の女性が、主の御前に出てきた。この女性は主イエスと会ったことはなかったが、汚れた霊を追い出す力がある方であると耳にしたのだろう。自分の娘が汚れた霊にとりつかれていた。汚れた霊がはげしいひきつけを起こし、ところかまわず地面に引き倒す(9:17-18)という症状が娘にもあって、この母親はそのことでどれほど苦しみ悩んでいたことが察せられる。
     そこで主イエスの足元にひれ伏したのは、深い悲しみと同時に深い敬意の表れ。そして、娘から汚れた霊を追い出してくださいと主に願う。この願い出に主イエスがどのように応えられただろうか。
     主は言われる。「まず、子供たちに十分食べさせなければならない。子供たちのパンを取って、小犬にやってはいけない。」主イエスの言葉は、イスラエルの民が神の子供たちであるとされる旧約聖書と後のユダヤ教を背景にして言われたこと。主イエスは、イスラエルは神の祝福を受ける特権があることを明らかにされ、異邦人に祝福がもたらされる時がまだきていないとはっきりと言われた。
    「まず子供たちに食べさせなさい」という言葉は、神がイスラエルを選ばれ、福音が「まずユダヤ人に、次にギリシア人」に宣べ伝えられるように定められたことを指す(ローマ1:16,2:9f,3:26)。
     主イエスはここで小犬という。ユダヤ教では伝統的に異邦人を軽蔑して「犬」と言う言い方をするが。主イエスの言葉遣いの中に、異邦人であっても娘のいやしを訴える女性を憐れみの眼差しでご覧になっているように感じられる。小犬は家の中に入ることが許され、食事の時にはテーブルの下にいるペットのこと。主イエスは、ユダヤ人が食べて満たされた後なら他の者に食べ物を与えてよいという。食べさせるとは、十分に満足すること。ユダヤ人が食べて満たされてから他の者に与えてよい、とは、ローマ1:16「わたしは福音を恥としない。福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力です。」、つまり、異邦人への暗黙の約束が含まれている、異邦人の希望や期待もいだかせる雰囲気があったように思われる。
     この人には明らかに助けが必要な状況なのに、主イエスが助けを拒否したように聞こえるのではないか。主が冷淡で無神経であるという印象を与える。女性のためにすぐに動こうとされない。それは、この女性がいやしてもらうためには、小犬と比べられるような低い立場を受け止められるかどうか、この人の心を知ろうと思われたということではないか。
     神の力は、神により頼む心のあるところにそれに応える形で正しく発揮されるもの。それゆえ、主イエスはこの女性の信仰を試すために、不可解な言葉を投げかけられ、真実なら心の深いところから訴えてくることを願っておられたのではないか。
     主イエスのお言葉の意味をこの女性ははっきりと理解しただろう。「主よ、しかし」、自分はユダヤ人ではない、後回しにされる異邦人であるけれど神の恵みをいただきたいと躊躇しなかった。女性は、家の子供たちとペットの小犬を比べられても謙虚に受け止め、むしろ、それをうまく利用した。子供たちが落としたパン屑は、結局は小犬のためのもの。主イエスのたとえは否定されるどころか、さらに一歩進められ、小犬もパン屑をいただくことを主張する。それは、実際、子供たちに食べ物を与えなさい。しかし小犬はパン屑を食べさせなさい。ということになる。この女性が求めているのは、パン全体ではなく、パン屑一つなのだから、食事の中で分け与えられるもの。この女性は、主イエスのこの子供と小犬を比べたたとえを謙虚な心で受け入れ、主に対する深い敬意をもって答える。
     ところで、このような言葉がけをされた主イエスの異邦人に対する態度はどうだったか。平行記事のマタイ15:24では、「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない。」と言っておられる。主は自らの、また弟子たちの伝道を、イスラエルの家に限定されたものと考えていたと思われる。しかし、その一方で、神の御業の完成される日には、異邦人も神の民の群れのうちに数えられていると、古の預言者は記しているので、実現する日を主イエスは先に見ておられたということが十分に考えられる(ミカ4:1-2)。
     まもなく、主イエスの十字架と復活の後、隔ての壁が打ち壊されるときがくる。それに伴って福音はあらゆる民族に宣べ伝えられねばならなくなる(13:10)が、まだその時になっていない。
      この女性は、自分の唯一の希望は、神の約束には基づかないものであると、神の特権を認めながらも、「小犬」にも主イエスの恵みをいただくことができると訴える。「主よ、しかし、食卓の下の小犬も、子供のパン屑はいただきます。」と心から主に訴える。ユダヤ教の律法にしばられた主張や特権を持ち出すユダヤ教の指導者たちとは全く違って、手ぶらで、困窮したあるがままの姿で、主イエスにおける神の恵みだけを大胆に求めていく。この女性は、主イエスの神に望みをおき、自分の問題を完全に主に委ね、そして失望することはなかった。その心をご覧になった主は「それほど言うなら、よろしい、家に帰りなさい。」と言われる。「悪霊はあなたの娘からもう出てしまった。」
     この女性は、主イエスのたとえ話を聞いて自分のこととして受け入れた最初の人といえよう。この女性は、神の国を受け入れ、主イエスのいやしをもらいたいと主が言われることを真剣に聞いて、たとえ話に入り込み、たとえ話に身をゆだねた。主イエスがこの女性に語りかけた言葉で主に答える。たとえ話の中で、生ける主なる神と出会い、主から恵みをいただきたいと主と格闘した (「主(神)は生きておられます。」列王下4:30)。そして勝利し、主からいやしの恵みを引き出した。主は女性を家に帰らせ、娘のいやしはすでに起こったと保証された。イスラエルの民でなく異邦人だったが、この女性こそ主イエスの恵みをしっかりいただける真のイスラエルになったといっていいかもしれない(エフェソ2:12-13)。
     宗教改革者マルティン・ルターは、自身も神と多くを争った人だったから、このシリア・フェニキアの女性の物語に大きな驚きと慰めを見出していた。この女性は、神の祝福をいただくという当然の権利を求めているだけだとルターは言い、「この女性はキリストの言葉を受け入れた。するとキリストはこの人を小犬ではなく、イスラエルの子として扱ったのだ。」
     この女性は、神の御わざがイスラエルに与えられたものであることを分かった上で、「主よ、しかし」、といって、主イエスにおいていただくことができる神の恵みが有り余るほど豊かで、異邦人にまでいただけるものであることを信頼した。つまり、異邦の民や自分たちのような者たちにも主イエスの恵みが及ぶことを望んだ。このことは、神がイスラエルに約束された救いは、イエス・キリストにおいて現実のものとなり、その主イエスを通して、ユダヤ人と異邦人の両方の世界に、つまりわたしたちにも、救いが、神の恵みが与えられている。
     わたしたちは、今やキリスト・イエスにおいて神の教会に属するものとされている。この女性が主イエスの恵みをなんとしてもいただきたいと、主のお言葉と格闘したように、わたしたちも主のみ言葉を自分のこととして受け止め、しっかり聞き従っていきたい。また、主は、苦しみ、悩みの中にある人々に恵みを与えることができる方、そして、手ぶらで、困窮のありのままで主に求めてよいのだから、わたしたちがその主を伝える一人一人になることができるのではないか。
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2月16日の説教から
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  • 2月16日「神々がたおれた」

    2025.2.16主日礼拝「神々がたおれた」(抜粋)        伝道者 熱田洋子
    サムエル記上5章1―4節、ヨハネによる福音書14章6節 
     イスラエルの諸部族が治めていた地がパレスティナ西部の平地に勢力を築いていたペリシテ人の脅威にさらされていたころ、イスラエルの人々の歴史の中でも、ひときわ悲惨な時期の物語。この時期、イスラエルの人々は神を忘れ、信仰的に堕落し、その結果、政治面、軍事面も低迷し、宿敵ペリシテ人の支配下に置かれていた。
     そのような中にあっても、イスラエルのうちにペリシテのくびきから逃れようとペリシテに戦いを挑んだが、敗れてしまう。そこで敗因を探ると、「神の箱を持ち出さずにペリシテ人との戦いに出向いてしまったことにある。」と気づいた。神の箱はある種の幸運のしるしのようなもので、持って出かければ幸運をもたらし、物事はうまくいき、持ち忘れれば負け戦の可能性大。イスラエルは、もう一度、今度こそ神の箱を担ぎ出し、出て行ってペリシテ人と一戦を交えたが、負けただけではなく、その上、ペリシテ人によって神の箱を奪い取られ、ペリシテ人の国へ持っていかれてしまった。
     ペリシテ人は、神の箱を持ち帰った時、それを壊すことをしなかった。「これは価値あるもの、幾度となくイスラエル人に多大な勝利をもたらしている。自分たちにとっても役立つ時が来るだろう。」そこで、この神の箱を、自分たちの神ダゴンの神殿に安置した。
     ところが、ここから驚くべきことが起き始める。翌朝、人々がダゴン神殿に出向くと、驚くべきことを目にする。自分たちの神ダゴンが、神の箱のすぐ下の床にうつ伏せに倒れていた。思いがけないことだったが、ダゴン神を起こし、神の箱の隣にもどした。
     その翌朝早く起きて人々はやってきて、唖然とする。ダゴン神が神の箱のすぐ下の床に再びうつ伏せに倒れていたばかりか、今度は、ダゴンの両腕と頭部が胴体から切り離されて、入り口のあたりに転がっていて残っているのは胴体ばかり。
     ここから逆転が始まる。殺しまた生かす、落としまた引き上げ、貧しくしまた富ませ、低くしまた高くする神が働かれる。追放され捕らえられていたイスラエルの神が、助けもないままに放置されてしまうことはない。
     捕らえられた神の箱はダゴンのための誇れる勝利の戦利品にされた。それは、ダゴンに対するイスラエルの神・主の劇的な降伏を示す。少なくとも、ペリシテ人はそう考えている。しかし、ペリシテ人はイスラエルの神・主が特有の性格と力を持っておられることには考慮していなかった。十戒の「あなたは、わたしをおいてはほかに神があってはならない。」と「あなたはいかなる像も造ってはならない。」(出エジプト20:3-6)を正しく理解していなかった。偶像であるダゴンのような神が、現実には力もなくイスラエルの神・主に匹敵するようなものではないことを思ってもみなかった。
     最初の朝、神の箱の前でうつぶせに倒れているダゴンは、ダゴンが打ちのめされたか、ダゴンが主の主権を認め、腰をかがめたかのどちらか。
     二日目、劇的状況が強くなる。力ある宗教的な彫像であっても同じようなもので、人の手で造らせたものは据え付ければそれは立つがそこから動くことはできない(イザヤ46:6-7)。ペリシテ人の神は空っぽの人工品で、人に助けてもらわなければならないが、ペリシテ人は神の箱の前でうつ伏せに倒れたダゴンをみつける。この時、ダゴンは頭と両手を失っていた。ダゴンはその座を引き下ろされて、現実のものと見えたダゴンの威力は、無力なものであることがここに明らかになる。今やダゴンの神殿は、敗北したと考えられたイスラエルの神・主のもので、主の主権が示される場になっている。
     「その翌朝、早く起きてみると」は、新約聖書の福音書におけるイースターの出来事を思い出させる(マタイ28:1、マルコ16:2、ルカ24:1)。その女性たちのように、ペリシテ人たちも「翌朝早くに」神殿にやって来てダゴンの勝利とイスラエルの神・主の敗北を見つけられると期待した。女性たちは、死の力が支配し、主イエスは死んだ、つまり敗北してしまったことを予期してやって来た。どちらの場合にも、朝の訪問者たちは予期したとおりのことを見出すことにならなかった。
     ペリシテ人たちも、福音書の中の女性たちも、いのちの力が主のものであること、いのちの力をダゴンも死も最終的に支配できないことを、認めそこなっている。ここから聴くわたしたちはどのように受け止めるだろうか。神の箱は捕えられるかもしれないが、主の栄光は、完全になくなってしまったとか、追放されてしまったのではない。
     神の箱の物語には、ダゴンの神殿に置かれたイスラエルの神・主の「へりくだり」がみられる。主なる神は、その力が愚かさとして示されるような神、「神は世の知恵を愚かなものにされたではないか。」(コリント一1:18-20)。当初、イスラエルと主が敗北した現実を直視しなければならなかったが、二日後には、主はダゴンを骨抜きにする力を発揮された。このどちらもあることを、神を信仰をもって認めるためには重要なこと。イスラエルにとっても神にとっても、この世界には苦難がつきまとうものといわれている。「翌朝早く」目にしたことによって、苦難はすでに克服されているので、イスラエルは打ちのめされているのではなく元気であるはずだと大胆に主張している。主イエスが言われた。「あなた方には世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」(ヨハネ16:33)まさにそのこと。
     歴史的な危機に入り込んだ神が、ただ中で、その状況に応じて働かれることを証ししている。外国の神々のただ中で、外国の政治勢力と外国文化の誘惑のただ中で、イスラエルが生きていたことは、説明することのできないこの神によってもたらされたもの。神の箱の物語は、イスラエルに希望を指し示す役割を果たし、自ら事を始められる神は、あらゆる敗北と映るものに直面したとしても、新しい働きをすることがおできになる。
     この物語は主イエスについて描かれた不可思議な逆転の出来事と本質的に異ならない。教会は、いつも「翌朝、早く」に出かけて行き、事態が昨晩のままであることを見出したいと期待している。この神が今も生きて働いておられることを信じて主に従おうとしなければ、教会はただ、死者は死んだままだし、病に苦しんでいる人も、貧しい人も、みな以前の状態のままだと何気なく予期してしまう。主イエスはこう伝えるように言われている。「…目の見えない人は見え、足の不自由な人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。わたしにつまずかない人は幸いである。」(ルカ7:22-23)
     この物語は、「あの方は復活なさって、ここにはおられない。」という福音の告知に驚くほど似ている。夜の闇の中で、死の危険が迫るとき、主なる神のいのちを与える力が解き放たれる。変わらないものは何もない。死に至るダゴンの諸力はすべて力を失い、そのかわりに、いのちへ向かわせるイスラエルの神・主の力があらわされた。この逆転をみるとき、わたしたちの深い絶望の恐怖を打ち壊してくれるのではないか。主なる神に信頼すること、この神がわたしたちにとっても唯一の神であることを忘れてはならない。神はわたしたちに「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。」(マルコ12:30)と呼びかけられる。主なる神は、わたしたち人間の心の中心に座することを願っておられる。わたしたちの心からの献身を求めておられる。真の神は、生きておられる神であり、唯一の神である。
     そして、神は、ご自身がお定になった方法によってのみ神に近づくことができると教えておられる。イスラエル人もペリシテ人も等しく誤った形で神の箱を扱ったために苦しめられ、罰せられている。神の箱は神が命じておられる形でだけ扱わなければならない。このことは今日でも全く同じ。もしわたしたちが神からの祝福にあずかりたい、神を知りたいと心から願うなら、神ご自身が定めておられる道を通って神に近づくこと、その道は一つ。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。」(ヨハネ14:6)と語られたお方を通して近づく道のみ。その道はただひとつ、主イエス・キリストの十字架の贖いの犠牲による道。この道以外に神に至る道はない。これが神からの祝福を受ける道。わたしたちは、自分が、助けなく、希望なく、罪赦された罪人の一人であり、誇れるものも何もなく、神のあわれみにすがるしかない貧しい者であることを認めて、わたしたちの罪のために死んで、わたしたちを神の前にただしい者とするために復活された神のひとり子により頼むこと、それしか、神に近づく道はない。
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2月2日の説教から
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  • 2月2日「神の言葉を聞いていますか」

    2025.2.2主日礼拝「神の言葉を聞いていますか」(抜粋)   伝道者 熱田洋子
    マルコによる福音書7章1−節23、創世記28章21—22節 
     主イエスはいやし、説教をして福音宣教を進めておられたので、ある程度評判になっていたに違いありません。ファリサイ派の人々と律法学者たちは、その事実調査をするためにエルサレムから派遣されたということでしょう。
     主イエスは、これまで(6:34)も、「大勢の群衆を見て、飼い主のいない羊のような有様を深く憐れ」んで、群衆に真の羊飼いが必要であることに気づいておられました。その務めを負うはずの者たちが、その役割を果たしていないのです。これらの指導者たちもその中の人たちと主は見ておられた。真の羊飼いの務めを放棄した羊飼いは、「人間の言い伝え」をかたく主張し、「神のおきて」を軽く見ています。つまり羊たちの必要としているものまで無視しています。
     彼らは、「イエスの弟子たちの中に汚れた手、つまり洗わない手で食事をする者がいる」のを見て「なぜ、あなたの弟子たちは昔の人の言い伝えに従って」歩まないのか、と主に尋ねます。ユダヤ人の「きよめ」に関する「言い伝え」をめぐってのやりとりが始まります。ユダヤ人は、神から直接与えられた「いましめ」や「おきて」以外に、それらから派生した人間の手による数々のいましめを「言い伝え」としてもっていました。
    「きよめ」に関するきまりごとは、「昔の人の言い伝え」に属するものでした。それによると、人は、食事をする前には手や食器を念入りに洗い、身をきよめなければなりませんでした(3−4節)。それは衛生的観点からの規定ではなくて、宗教的な要素を強くもつものでした。
    主イエスにしてみれば、「言い伝え」のとおり行ってきよめられた者にだけ神が到来するという考え方に反対しているのです。 彼らが、「昔からの言い伝え」に対して形だけは守っているけれども、神に対する忠実さや誠実さは、決して御心にかなったものではないことを主イエスはご存じでした。それで、主はイザヤ書の言葉を引用して、この人たちのことを偽善者と呼び、厳しくとがめられます。「この民は口先だけではわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている。人間の戒めを教えとしておしえ、むなしくわたしをあがめている。」(6―7節、イザヤ書29:13)。
    「心」とは、心情(心の中の思い・気持ち)、意志、理性を含み、人格というほどの意味のある言葉です。主はここで、口先だけ、うわべだけのものでなく、人格の全てをもって神への信頼と服従が重要なのだと言っておられます。それなのに、彼らは、真に聖なるお方をおろそかにしてまで、外面的には神を敬うように見せかけている、人が作り出したものに過ぎない「伝統の言い伝え」に傾いて真の「神のおきて」を放棄しているということです。そこで、主は、神のおきてを無視するのは正しいことだろうか、と問いかけていると思います。この問いかけはわたしたちにも投げかけられるものです。
     神のおきてよりも人間の言い伝えを優先した一例に「コルバン」を取り上げています。モーセの律法には「父と母を敬え」とのおきてがあります。この言葉には、親に対する尊敬はもとより、外的な形式的な服従でなく、神がイスラエルに与えてくださった約束、そこに示される神の御旨を子どもたちに伝えてくれるものとしての親を尊ぶことが含まれていると、K.バルトがいっています。わたしたちにとっても、信仰をもって応える問題です。
     この場合の「コルバン」は、親から求められた援助をしたくないと子が思う場合に、子が自分の持ち物に「コルバン」と言えば、それを親に差し出す必要がなくなるのです。主は、そんな取り消しのできない「人間の言い伝え」のような抽象的なものよりも、子どもの責任を下におくことになるのか、神への信頼と奉仕を求めておられる神の御心に沿わないことではないか、と厳しく叱責されるのです。人間の言い伝えが神の言葉を無にし、神の意志を無視していることが示されます。
     主イエスは、御父である神のご意志を求め御心にまったく従われます。そのゆえに主は人間の必要と益のためにすべてをなげうつ道を進んでいかれたのです。
     非常に重要なことが述べられます。いつものとおり群衆を呼び寄せられ、すべての人々に手をさしのべようとされます。「皆、わたしの言うことを聞いて悟りなさい」このことはとても大事な真理というだけでなく、たとえによって語られるので、熱心にそして誠実に聞くようにと求めておられます。
     主イエスが主張されることの中心は、「外から人の体に入るもので人を汚すことができるものは何もなく、人の中から出てくるものが、人を汚す」ということです。
     神が造られたものは良いものであることは確かなのです。人間が生きるのを支えるさまざまな物的賜物は良いものです、それを神が与えてくださいました。それゆえに人間がいまあることを脅かすものは外から来るのではなく、内にある心情からくるのだ、ということです。つまり、人間にとって外的なものは何であれ人を汚すことはないという主イエスの教えです。このようにして、罪深い人間が、人間的な言い伝えにある「きよめ」を厳格に守ることによって、それは心の汚れを清める力をもたないものですから、神の御前で真の聖さを達成できるのだという思い上がりを、主は攻撃されたのです。
     主イエスは、「汚れ」の源を心に求めます。「心」は、人間の性格の中心で、人間が行動するかしないかのすべてを決定します。「人間の言い伝え」に従って「きよさ」を保ったとしても、それに反して汚れに向かう衝動にかられる人間の心を変えることはできないのです。「人間の言い伝え」の細かい規定は、人間の行動を汚す源である心の汚れを取り除くことはできません。
     神の御前における「きよさ」にせよ「汚れ」にせよ「心」から生じるのです。
     ユダヤ人は伝統的に、また昔の人からの言い伝えとして、食べてよい動物と食べてはいけないものを区別する考えを持っていました。しかし、主イエスは、食べ物を食べ、消化し、排泄することはまったく生理的営みであり、人間生活の質とは無関係とはっきりと言われ、主はすべての食物規定を破棄されたことが語られます。これによって主は旧約時代の限界を乗り越え、また「人の言い伝え」がもっている制約を打ち破っておられます。
     人間の内側の汚れの方が外からくる汚れよりも深刻なのです。主イエスの宣教にみられるいつもの姿勢は、主が食物規定を守らない罪人と交わりをしていたことが記されています。このことからも、主は、律法の諸規定(人の言い伝えも含まれる。)を守ることが神の恵みを受けるために欠かせないことなのだという考え方には反対していたと言うことがわかります。
     主イエスは、「心」に重点をおきます。それは、内面の生活の中心であり、人間の行動の源であるからです。人間の真の汚れの原因は人間の「心」です。罪を犯さざるを得ない人間の悲劇は、罪を犯したいと思う人間の「心」を悪・罪へ導くのです。この根本的な悪が根付いていない心はありません(人には罪の性質があるといってよいかもしれません)。真の「汚れ」は「心」から発せられるものです。このような行為や性質こそが人を汚すものであり、その源は神に反抗する・背く心にあると主イエスは断言されます。
     主は「これらの悪はみな中から出て来て、人を汚すのである。」と言われます。人の中から出てくるものが人を清くしたり、逆に汚れた者とするといっておられるのです。「心」の重要さがここにあります。
     そして、人の中から出てくるものは、その人の「言葉」です。言葉はその人の「心」を表し、行いとなります。「心」が神の思いを正しく受け止めていなければ、神の御心にかなった行いにもならないのです。「心」から出てくる言葉と行動が人を傷つけ社会にさまざまな影響を及ぼします。「わたしたちは舌で、父である主を賛美し、また、舌で、神にかたどって造られた人間を呪います。」(ヤコブの手紙3:9-10)。ここに言葉を生み出す「心」の特質が見事に語られています。
     「きよさ」も「汚れ」も人の中から、「心」の中から出てきます。そのようなわたしたちの心を神はご覧になります。人の外面ではなく、人の内面、すなわち「心」に、神の眼差しがむけられています。「(わたしは)人間が見るようには見ない。人は目に映ることを見るが、主は心によって(その人を)見る。」(サムエル記上16:7)と言われます。
     神は憐れみふかいお方です。礼拝をとおし、日々み言葉をそなえ神の御心を示し言葉も行いも御心にかなったものとなるように招いていてくださいます。「神がわたしたちを招かれたのは、汚れた生き方ではなく、聖なる生活をさせるためです。」(テサロニケ一4:7)のみ言葉を覚えておきたいものです。信仰とは何よりも、この汚れた自分の心の中に主イエスを迎え入れること、そして、この汚れた口から主イエスに対する信仰を告白することです。そうして、わたしたちは、イエス・キリストによって新たに造りかえられ、神を賛美し、人を生かす愛のこもった言葉で語ることができるように聖霊によって導かれるのです。
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1月26日の説教から
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  • 1月26日「あなたの神はわたしの神」

    2025.1.26主日礼拝「あなたの神はわたしの神」(抜粋)  伝道者 熱田洋子
    ルツ記1章1−6節、ガラテヤの信徒への手紙3章28節
     ベツレヘムから物語は始まり、終わりのところでは男の子がやがてベツレヘムで誕生する出来事につながります。新たに生まれる一人の幼子はエッサイの父となり、そのエッサイがダビデの父となります。イエスさまがダビデの王の家系に生まれ出ることにつながります。ルツはイエスさまのひい、ひい、ひい・・・ひいおばあさんということ。
     ルツ記は、聖書中もっとも力強い女性の物語です。ナオミとルツの物語といってよいでしょう。生と死をめぐる女性の歴史が語られ、人生のさだめに向き合う者に与えられる報い、いつくしみ・まこと・救いがあります。神がここにおられ、世にある者と共にいてくださる内容になっています。
     同時に、ナオミとルツの物語は、士師記の時代の物語であっても、この上なく現在の世界に起こりえないことではない話として聞くことができます。飢饉によって逃れ、さまよい、他の地に移り住んだ者たちの運命と、出身地から出ていって、よそ者になった者たちがどのようにして戻ってきて身内に受け入れられるのかをめぐって強(したた)かに生きる女性たちが描かれます。
     物語は、ある小さな家族が飢饉に襲われたベツレヘムを離れてモアブへ移り住んだことから始まります。ベツレヘムは「パンの家」を意味するにもかかわらず、食べ物が手に入らないという、なんという皮肉でしょう。飢饉は歴史的にも数多くあり、聖書に記されたアブラハムとサラ、またヤコブの一族も飢饉にみまわれエジプトに助けを求めて行きました。今もアフリカ、紛争の地においても命に関わる厳しい現実に終わりが見えません。イエスさまの祖先となる女性の家族も追い立てられるように、神さまの約束の地からモアブの野へ、移るようにしいられたのです。
     やがて夫エリメレクは死んでしまいます。当時の男性優位の社会で、ひとりの女性が夫なしに生きることにはたくさんの危険や困難が伴っていたでしょう。息子たちはモアブ人の女性と結婚します。バビロン捕囚後、ユダヤ人には異教の人との結婚は禁じられていたのですが。ほどなく、その息子たちふたりも死んで、いったい、この先どうなるか、不安の最中、劇的な展開が起こります。
     この世界で、どれほど多くの人々が飢えと渇きに苦しんでいることでしょう。最もつらい苦しみを担うのが女性たちであることが多いのです。ルツ記は世界の縮図のようなものといえます。そこに生きる現実の痛みを、わたしたちにまざまざと思い起こさせます。
       途方に暮れていた時に、ナオミは、神が「その民を顧み」られたので、ベツレヘムの飢饉が過ぎ去ったと風の便りに聞きました。 ナオミは、強く勇気ある女性です。人生を諦めることなく、義理の娘と共に、ベツレヘムへ帰還する道を踏み出します。
     ある牧師は「主がその民を顧み」られるところで使われる言葉に注目します。この「顧みる」には「介入する」という意味合いがあります。「介入」は、わたしたちの生活のただ中で、良いときにも、困難な道のりにあっても、神がおられること、今も生きて働かれることを覚えることができますし、神との出会いがあることを示してくれています。いわば、神がわたしたちを「求め」、「生活の場にまで求める」ことをなさるということです。
       このように、すくなくともナオミは受け止めたのではないでしょうか。神がご自分の民に介入された結果、飢饉が過ぎ去ったと聞き、勇気と希望を得たのです。そこでナオミは起き上がり、嫁たちと一緒に、自分の故郷に帰るべく出立します。しかし、義理の娘オルパとルツはモアブ人、帰郷するところは男性優位の社会、そこでは、法的にも日常的にもよそ者扱いされることが目に見えています。ナオミたちのような者には保護、助けを得ることなどできない、よそ者に冷たく厳しい風潮があったでしょう。こう気づいたナオミは、言葉を尽くして二人にモアブに留まり、現実を見るように説得を試みます。
       そこでオルパは自分の家族のもとへ帰って行きました。一方のルツは、ナオミのもとに留まります。ルツはモアブ人で、帰る先は、よそ者に冷たく厳しいところであることを知らないわけではなかったでしょうが、その中でルツは心を決めました。
       ルツは、ナオミのもとで、いえ、ナオミの神のもとで、彼女の心をつかんで離さない何事かを見出したのです。ルツはナオミから離れませんでした。「わたしは、あなたの行かれる所に行き お泊まりになる所に泊まります。あなたの民はわたしの民 あなたの神はわたしの神」(1:16)と告白します。ルツは、その本心から、死だけがわたしたちを分つ、のだと言います。常識的に考える人にはなんと愚かなことを言っていると思われそうですが、このルツが、油注がれた王ダビデの祖先となり、さらには平和の君と呼ばれる「わたしたちの救い主イエスさま」の先祖である母ともなるのです。
       ルツは、ナオミとともに生きる試みの中で、ナオミのうちに神により頼む生き方、「ただ一人の神、主」をより所として生きていたことをわかったのでしょう。ナオミとルツたちは周りの冷たい目にさらされる厳しい生活に強いられてきて、信頼しあって生きて来ざるをえなかったと思われます。ルツは共に生活する中でナオミを通して神を知ることになったのです。信頼し合うことは、自分たちの愛を寄せ合うことです。ナオミの信頼する神が介入してくださったので、ルツはそこに神の愛を知り、自分も愛をもって人に仕えることのできる者になっていったのだと思います。こうしてルツはナオミの信頼する神を受け入れることができたのです。
       神の愛と人間の愛は伴いあっています。神がわたしたちを求めてくださるときに、わたしたちは、それぞれに応じることができるようになります。互いに信頼を寄せ合うとき、愛によって、互いに忠実であり、信実であることができるということではないでしょうか。この物語の只中には、勇気と信実と知恵と愛が働いているように思われます。神が表立って支配していることは見えませんが、一人ひとりのもっとも深い心のうちに、神の真理が働いているといえます。
       そのようにして、ルツはナオミの信頼する神が自分を受け入れてくださったことがわかったのです。ルツがナオミに仕えていこうと決心したことは主なる神と共に歩むことです。ここには、主なる神へのルツの深い信頼が感じ取れます。ナオミの信頼する神に従っていこう、そこに希望が生まれ、ナオミと一緒に生きていこうという熱い心をもっていたことがわかります。それゆえに、イエスさまの祖先に結ばれたのです。
       ルツの生きた当時は、男性優位の、種族や民族の狭い関係にもしばられた時代でした。それにもかかわらず、その根底をゆるがすような、一人の女性の生き方をここに見ることができるのではないでしょうか。ただ一人の神・主を信頼して、勇気を持って自ら決断して歩み出していきます。それは、パウロがガラテヤの信徒への手紙3章28節に記す言葉に通じていると思われます。
       「そこではもはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女も     ありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです。」
     この物語は、共に助け合って生き、勇気と神に信頼することを失わなかった女性たちの、前向きで大胆な、力に満ちた素晴らしい生き方をみることができます。ナオミに対する誠実さと堅実さをもってナオミの行く所にルツも従い、共に行きます。どこまでも一緒に行き、困難も連帯して乗り切っていこうとします。そうみえても、この物語においては、神・主が隠れた「与え手」であることは確かです。
     物語の先を読むと、困窮する中で二人がベツレヘムにたどりついたとき、ちょうど大麦の収穫期で、ルツは、収穫の地で落穂を拾うことができました。ルツは好意的に落穂を拾わせてくれる畑の持ち主にめぐり合い、この出会いをきっかけにして、ルツもナオミも生き続けることができるようになります。そのとき、ナオミは「どうか、生きている人にも死んだ人にも慈しみを惜しまれない主が、その人を祝福してくださるように」(2:20)と神の定めであり祝福であると喜んで受け止める様子はとても印象的です。
     ルツの決断と行いは、畑の持ち主ボアズの口をとおして「あなたが示した真心」(へセド)(3:10)という言葉にまとめられます。それゆえに、ナオミの故郷ベツレヘムの人々の中で再び生きることができるようになりました。
     神に信頼して生きること、真心から、また、信実に、愛をもって共に支え合って生きることも、遠い世界の話ではないのです。すでにわたしたちの立つこの場所で、具体的なかたちで、物語は始まっています。なぜなら、わたしたちの主がわたしたちが人として生きることをあきらめることなく、「生きている人にも 死んだ人にも慈しみを惜しまれない」方だからです。
     
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1月19日の説教から
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  • 1月19日「安心しなさい。わたしだ」

    2025.1.19礼拝説教「安心しなさい。わたしだ。」
    (要約)            伝道者 熱田洋子
    詩編107編3章29節
    マルコによる福音書6章46〜56節
      これはパンの奇跡に続いています。主イエスがお腹を空かせた五千人以上の人々にパンと魚を分け与えられた出来事です。それからすぐ弟子たちを強いて舟に乗り込ませ、向こう岸のベトサイダに先に行かせます。弟子たちの方は、主イエスと一緒にいて主がなさったことについて語り合いたいと思っていたかもしれません。それなのに、主の御意志で、弟子たちは自分たちだけで舟を漕いで行くことになりました。
       一方、主イエスご自身は一人で、山に行き、祈りの時をもたれました。祈ることは、主イエスには神の国の宣教の原動力になっていたのです。
     やがて弟子たちは、湖の中程で逆風に出会い、漕ぎ悩んでしまいます。 このときの弟子たちのように、わたしたちの信仰の人生において、いやいや自分たちだけで舟を漕いでいかなくてはならないことがあるものです。世にいてわたしたちの漕ぐ舟は逆風に出会い、沈みそうになります。わたしたち信仰者の漕ぐ教会という舟は、世のさまざまな荒波に巻き込まれ、逆風にさらされ沈みそうになることがあります。しかも、弟子たちのように、主イエス・キリストははるか遠くです。声を出して叫んでも、届きません。そう思いがちのわたしたちは、いまの世の荒波の中を主イエスなしで漕いで行くことができるのでしょうか。
     弟子たちには、このとき、主イエスは自分たちを忘れているのではないかと思ったでしょう。わたしたちが困窮に陥った時、神はわたしたちをその中に放っておいて、顧みてくれないように思ってしまいます。そうすると、祈ろうとしても心が定まらなくなります。まるで、外に嵐が起こるだけでなく、わたしたちの心の中にも嵐がおこって、混乱し、信仰どころではなくなってしまいかねません。
       ところが、主イエスは祈っておられるその最中に、湖に目をやると、弟子たちの乗った小舟が嵐にもまれて漕ぎ悩んでいるのが見えました。その弟子たちをみるや、主は祈りを止めて、救助に向かわれました。夜の最も暗い午前3時頃、弟子たちが外の嵐と内なる嵐に襲われて最も助けを必要としていたこの時に、まったく予期しない方法で、主イエスは弟子たちを助けに来られたのです。弟子たちの波風の真ん中に立ち、主は、憐れみをもって弟子たちを見つめておられます。
       しかし、薄暗い中で舟に近づいてくる人のような姿を見たとき、心の中に嵐が吹いている弟子たちの心には、それが幽霊に見えて大声で叫びおびえたのです。
       主イエスは、湖の上を歩いて弟子たちのところに近づき、そばを通り過ぎようとされます。なぜでしょう。主イエスは弟子たちの信仰を試しているのでしょうか。主がともにおられないときにも、自分たちを助けてくださるお方であると信頼する者たちであってほしいと望んでいたように思います。
       主は水の上を歩いて来られました。このことは神ご自身が水の上を歩まれたことを思い起こさせます。(ヨブ記9:8「神は…海の高波を踏み砕かれる。」)また、創世記(1:2)には、神の霊が水の上を動いていたのですから、ここでご自身が神であることを自ら示されます。
       しかし、弟子たちは超自然的な奇跡を目前にしながらも、恐れによって叫びます。それでも、このときは、主が即座に話し始められるだけで弟子たちには主であることがわかりましたので、それだけで十分でした。助けを求める者が信仰の乏しいものであっても、神として助けようとされるお気持ちは変らないことがわかります。あるとき。汚れた霊につかれた子どもを連れてきた父親は主に「信じます。信仰のないわたしをお助けください。」(9:24)と心から訴えてその子を助けてもらいました。
       主イエスが弟子たちのいる舟に乗りこむとようやく風は静まりました。このとき、主イエスが「わたしだ。」と言って答えられました。このように、わざわざ神の名「わたしはある」(出エジプト3:14神がモーセにわたしはある、わたしはあるという者だ、と言われた。)を用いたのも、主イエスが人となられた神あることを弟子たちにわからせようとされたのです。
       弟子たちにとって、主イエスと共にいると安全で平和なのです。舟に主イエスがいなかったので弟子たちが苦悩に遭ったのであれば、主が共にいてくださりさえすれば、わたしたちの人生においても嵐を乗り越えることができるということではないでしょうか。それでも、弟子たちが救われた時の反応は、当惑して驚いただけでなく、理解する知恵も失っています。  
       それは、「パンの出来事を理解せず、心が鈍くなっていたから」だといわれます。パンの出来事を経験して、主は困難なときこそ助けてくださるお方であることを学んでいないからです。信仰の小ささと心のかたくなさによるもので、これが弟子たちの二つの罪だとさえ言われているようです。
       心のかたくなさとはなんでしょう。神の御言葉を聞いたり読んだりしても神の御心を理解しようとしないこと。素直に御心に従おうとしないのです。それは、わたしたちもそんなところがないとは言い切れません。信仰の小ささは、これまで神がわたしたちになしてくださった恵みの数々、つまり神のみ業を忘れるのです。また、神がどのようなお方であるかわたしたちが頭でわかっても、そのことを現在かかえている問題を解決するために生かさない、主にまったくより頼むということをしないということでしょう。
       始めは、弟子たちが舟で向こう岸へ行くように主から強いられたのでした。わたしたちの信仰生活において、自分の意志よりも神のご意思によって行動しなければならないことがあるものです。その時は不承不承でも、後から振り返ってみると、神の最善がなされたと気づかされます。神がわたしたちに、強いてさせることによって信仰者と教会を御心にかなった歩みへと導いていかれるのではないでしょうか。
       ところで、主イエスが湖の上を歩いて助けにこられたこと、またひもじい思いの人々を前にパンを供えてくださることは、宣教の働きにつながっています。人々の飢えを唯一満たすことのできる主イエスの生きた御言葉を外の人々に宣べ伝えていく働きが教会に与えられています。この出来事は、教会のわたしたちに、あなたの信仰はどうなのか、主イエスが困難のときに助けに来てくださることを信じているかと問いかけられているように思います。
       教会の働きは、この世にあって、時代の流れや世情の移り変わりの中で影響を被ることは避けられません。世に受け入れられず、無視されるようになったにせよ、伝道の熱意が冷えてきても、教会の人々は、それを「自分たちだけで行う・重荷を負う」ように召し出されてはいないことも知ることができます。
       キリスト者のわたしたちは、主イエスの御言葉を宣べ伝えるのに、時に遅くなり、疲れている時にも、主が常に共にいてくださいます。「イエスは弟子たちを強いて舟に乗せ、向こう岸のベトサイダへ先に行かせ…」たのです。イエス・キリストが弟子たちを先に行かせたことには、弟子たちがそうしたかったわけではなく、主イエスの堅い御意志が働いています。「先に行かせた」というのですから、後に続いて来られるのです。つまり主イエスはこの舟の後ろから行こうとしていたのです。そのことも「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」のお言葉に含まれているように思います。主イエスは、ご自分に信頼し、従う者たちをいつも御心にかけ、目を離さず見ていてくださいます。そして、困難な様子をご覧になるや、思いがけない方法によってでも近づいてきて助けてくださることをここからも覚えておきたいものです。
     
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1月の家庭集会から
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  • 1月9日「神の愛」〜家庭集会

    2025.1.9 家庭集会「神の愛」から要約                伝道者 熱田洋子
    ゼファニヤ書3章14、17節
    ヨハネによる福音書3章16節

    ・神である主の祝福は確実で、約束は果たされる。それらを授けるのは、契約を守る神、主そのお方だから。
    ・17節は神の民に対する神の愛を最も感動的に描いているものの一つ。

    ・ゼファニヤは、悲劇の先を見通して民に喜びの声を上げるよう呼びかける。
    当時の都エルサレムに語りかけられたもの。神の意に反逆するこの国に救いようのない嘆きが予想される。しかし、ゼファニヤはこれらの悲劇の先を見通す。彼は喜びの声を自由にあげよと呼びかける。未来の栄光に対する確信から、この祝祭の歌を歌うように命じる。単に復興によって祝福された民が喜ぶ日を期待しているわけではない。心から、将来の失望の可能性に対する警戒心を捨て去り、大声で叫び、歌うように。

     ・御子イエス・キリストの誕生をはるかに見ている。17節「お前の主なる神はお前のただ中におられ…」とある。含まれていることの全てを理解するには、処女から生まれたダビデの子の到来を待たねばならなかった。「この方は、肉によればダビデの子孫として生まれ、聖霊により、死者の中から復活することによって、神の子であることが力強く宣言された方、わたしたちの主イエス・キリスト」(ローマ1:4)

     ・イスラエルの王を主そのお方と同一の方とみている。「シオンの娘よ、恐れるな」(ヨハネ12:15)に引用されている。   ゼファニヤ3:14,15に二度登場する。「恐れるな」は類似した箇所のゼカリヤ9章にはみられない。ゼファニヤの言葉が主イエスのエルサレム入場に含まれていることは注目に値する。イスラエルの王を主そのお方にとてもよく同一視しているから。

     ・ゼファニヤは、神の民に対する神の愛を熱狂的に描く。この節は旧約聖書のヨハネ3:16といえる。神の民に対する神の愛は、感傷的な感情ではない。神は救う偉大な英雄。神々の神、主の主、偉大な神、英雄として、孤児や未亡人、寄留者を守る(申命記10:17)。この偉大な英雄は、救いの力を持って自らの民の真ん中にいる。主に対する人々の罪のために、イスラエルには多くの災難がふりかかるかもしれないが、最終的には、あらゆる敵から救う力を示される。

     ・神の愛は、自らの民を救うために具体的に行動する。  「個人的な愛の詩」と呼べるものがある。神ご自身が自らの民を愛することにおける、最も深い内面の喜びと満足を表す。

    ・全能の神がご自身の被造物から喜びを得ることそれ自体が重要神が歌い出す!神が喜びにあふれる!すべてはあなたのおかげです贖い主と贖われた者たちの愛に満ちた応答を相互に行う。14節と17節

    ・神の本質は愛である(ヨハネ一4:8)。全能の神は、その愛に満ちた静けさの中で、力強い救い主である神として、静かに考えをめぐらせ、あなたへの愛に満ちた満足感に浸っている。

    ・神に選ばれた者たち以外に、このようなすべてを包み込む愛の対象となるものはない。エルサレム、シオン、イスラエルとよばれるのは「あなた」。神は彼らを愛しているからこそ。申命記7:6-8 の神ご自身の性格の中に見出すことができる。

     ・この愛は、開かれた招きをもたらす。クシュの川の向こうから 広がるこの神の理解を超えた愛は、「主の名を唱える」ものすべてに届く(9節、10節)。

     神の愛が世界中に広がっている。すべての国々から、清い唇を与える 皆、主の名を唱える この謙虚な呼びかけを口にする一人ひとりが、この「知識を絶するキリストの愛」を自ら知っている(エフェソ3:19)。

      ・人間の想像をはるかに超える神の愛が語られる。
    C.H.スポルジョンによると「イエスの沈黙を思い出し、このテキストを解釈しなさい」。主イエスが裁判と十字架上で沈黙したことは、罪びとに対する神の愛の深みに根差したもの。「彼は、毛を刈る者の前に物を言わない羊のように口を開かなかった」(イザヤ53:7)

     主イエスの沈黙は、犠牲的な愛の対象を熟考する機会を与えた。彼は、犠牲となるために「整えられた」自分の「からだ」を差し出すことで、神の御心を行うことを「喜んだ」(詩編40:7,9、ヘブライ10:5,7)・罪人に対する彼の愛は、父の愛に勝るとも劣らないもの。

    この愛の深さを理解しようとするなら、旧約のヨハネ3:16を、海辺にいる子どもに例えることができよう。子どもは、どこまでも広がる大海原に向かって、砂で掘った溝を限界まで掘り下げ、その腕を伸ばして、大海の深みを浅いプールに集めようとしている。

     ある詩人の歌
      神の愛は 言葉や筆では決して言い尽くせないほど大きく、
      それは最も高い星よりも高く、最も低い地獄にまで届く。 

    この愛の静寂は、神の民に対する神の愛の特徴でもある。歌うことによる喜びによって補完されている。神は歌うことによってあなたを喜ぶでしょう。  
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1月5日(新年礼拝)の説教から
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  • 1月5日「聖なる者となりなさい」

    2025.1.5主日礼拝「聖なる者となりなさい」       伝道者 熱田洋子
    詩編147編12—15節、エフェソの信徒への手紙1章3―7節

    詩編147編は主への感謝の歌です。ここには教会にも呼びかけられていると受け止めてよいのです。教会とわたしたち神に造られた者たちに示された神の慈愛が述べられています。
     そして、エフェソの信徒への手紙1章3節からも、神はほめたたえられますように、神は祝福で満たしてくださいましたと賛美の言葉からはじまります。
    新しい年は神さまをほめたたえることから始めていきましょう。
    神の賜物は豊かです。わたしたちは、そのことを神に感謝し礼拝へと導かれています。教会が神をほめたたえるその祝福は、神が教会に与えてくださった同じ祝福からきています。わたしたちが神を「ほめたたえる」とき、わたしたちは感謝しつつ神の恵みと賜物を宣べ伝えます。
     一方、神がわたしたちを「祝福する」とき、何をそのいつくしみとして与え、どのような賜物を贈り、準備しておられるか、神はその内容を言い表されます。
    このような神の祝福の中に、一つは生み出す力がうちに含まれています。単なる願望や約束だけではなく、神がわたしたちに約束されるそのこと自体を、わたしたちにもたらす・与えてくださるのです。
     神がわたしたちを祝福されるというとき、神はご自身の愛と交わりの中に引き入れ、そしてわたしたちに賜物を与えられます(ガラテヤ3:8-10)。
     そのことがわかって、わたしたちが神をほめたたえて讃美します、祝福のはじめは神からで、それは神がわたしたちを祝福してくださったことから生まれてくるのです。
     わたしたちに与えられた祝福はどのようなものでしょう。わたしたちは神の御霊がわたしたちに満たされるあらゆる祝福を受けています。それは神の祝福がわたしたちに授けられる価値ある賜物にほかなりません。それを神がわたしたちにくださることはたぐいまれな恵みの御業だからです。
    御霊によってわたしたちが祝福を受けているからといっても、わたしたちの内にも外にも神の賜物の豊かさが現れるというわけでは、まだありません。依然として、罪をおかしやすいわたしたちですから、わたしたちを悲惨と死に至らせる悪の誘いがさまざまな形で目の前にあらわれてきます。
    けれども、神がわたしたちの内に授けてくださったもの、御霊によってわたしたちの霊の中に置かれるものに目を向けるならば、わたしたちは全く祝福のみを目の前にみつめ、また完全に感謝することのできるよりどころをもっているといえるのです。
     なぜなら、神がなさるのは、天にあるものをわたしたちに与えられるのです。神の祝福は霊的なものです。神をもつということは、むしろ天にあるものを受け取ることです。ここで教会に約束されているのは、すべて地上の助けではなく、それ以上のものです。神がわたしたちにご自身の愛によって現してくださっているものです。それは隠されてはいます(はっきりと目に見えるものではありません)が、御霊の力があって、天を満たしているものをわたしたちの中に置かれます、この祝福は、キリストにおいてわたしたちに与えられています。それゆえにこそ、教会が神からのあらゆる祝福と、天上のものを手に入れるようにと、キリストのもとへ招いてくださるのです。
     (3節)感謝の言葉をいいあらわすもの、そこには、神がキリストを通して、わたしたちに示してくださった恵みの御業が記されています。
     第一に、神はキリストにおいてわたしたちを、神の子とすると決定して、選ばれたのです。
     ついで、神は、キリストにおいてわたしたちの罪をゆるし、わたしたちが罪によって結びつけられていた苦悩から、わたしたちを解放されたことです。

    その際、神はいっさいの賜物を与えるために、唯一の神のみが、しかもご自身の神の栄光において働いておられます。そして、いっさいの賜物の根拠は、神の自由な恵みの中にあり、その目的は神の栄光をたたえることにあるのです。
     わたしたちの感謝を具体的にいうと、わたしたちは、神の救いにあずかったのですから、そこにおいて神が与えてくださるすべてのものを受け取りました。御子イエス・キリストの十字架の死によって贖なわれ、復活の主によって永遠の命の保証が与えられ、救いの完成の時へとつながっています。それは神を信頼するわたしたちに神が与えてくださるもので、神の祝福から生まれる祝福でもあります。ここに、わたしたちは神をほめたたえ、神はわたしたちを祝福し、わたしたちは神から祝福を受けました。パウロは何にも変えられない感謝の気持ちをここに次々と言い表しています。わたしたちも神がわたしになしてくださったことを心の最も深いところで受け止めたとき、心が動かされ、物の見方や行動にそれが現されるのではないでしょうか。
     祝福のはじまりは、過ぎ去った永遠の昔、キリストにおいてわたしたちが聖なる者、責められるところのない者となるようにと選ばれたときに始まりました。父なる神は、世の初めからご自分のものとなる人々を選ばれました。それは、神の御心に根差したもので、隠されていたのですが、キリストにおいて明らかにされたのです。また御霊もそこに働かれました。ここには神がイスラエルを選ばれたことの響きが(申命記7:6-8)聞こえています。イスラエルが神に選ばれるために何かをしたということはなかったです、(「主が心引かれてあなたたちを選ばれた…ただ、あなたに対する主の愛のゆえに…」)。同じように、わたしたちも恵みをいただくには何の権利もありません。恵みは無条件に与えられる贈り物。
     神がわたしたちを選ばれたと同時に、わたしたちを祝福されました。神がご自身のために誰かを選ばれるのですが、そのとき選ばれたわたしたちは、神に服従するだけでなく正しい関係をつくることができます。この選びは、救いのすべての仲介をされるキリスト(とりなしてくださる)において行われました。ですから、そのとき、キリストがおられたことがわかります。
    「キリストにおいて」3・4節、「イエス・キリストによって」5節。とあることは、キリスト・イエスが神と密接な関係にあることがわかります。主イエスは、すべての霊的な祝福の‘とりなし手’になっておられます。
     キリストの御業につながっているので、教会が特別に召された人々の集まりである理由になります。教会の民は「キリストにある」人々、つまりわたしたちも含まれているのです。キリストのうちにあるということが、わたしたち教会の民を聖なる者、汚れのない者とします。なぜなら、キリストの御業が、わたしたちにそのための道を開かれたからです。そして、わたしたちのために、主イエスが働きを成し遂げてくださった、そのことにより神の御前にわたしたちは神のものとして立つことができるのです。
     また、「父なる神に選ばれ、イエス・キリストに従うために聖霊によって聖別された」人々(ペトロ一1:2)であるわたしたちにとってもこれ以外の生き方、すなわち、聖なる、汚れのない者から外れた生き方はないともいえるでしょう。
     神がわたしたちを選び、キリストにあってわたしたちを聖なる者、汚れのない者とする祝福へと導いてくださったのは、愛からでした。神の選びの中から愛が生まれ、それとともに、他者の最善を思いやる気持ちからも愛が生まれます。
     また、5節の神の子であるということの要点は、神が与えてくださる御霊によって、神がどういうお方でどんなことをなさるお方であるかを知り、導かれて神に倣う者となることです。それは、神の愛と御霊による力によっておこなっているのだと証しすることになり、周りの人々にもわかってもらえることになるでしょう。愛の働きは、聖書のみ言葉でみると、神の赦しと慈悲と同じように働きかけていきます。(ルカ6:36)「神が憐れむように、あなたがたも憐れみなさい」ローマ5:8,エフェソ3:17「愛に根差し、愛にしっかりと立つ」ものです。また、わたしたちの話すこと行うことにあらわれてくるもので、わたしたちがどのように応えるかも、わたしたちの愛に根ざしていると言えます。(わたしの思いも口の言葉も行いもイエスさまに似たものになれるように、とわたしたちは祈るのではないでしょうか)ヨハネ一4:19「私たちが愛するのは、神がまずわたしたちを愛してくださったからです」とあるように。
     わたしたちは神に昔から選ばれた者として、最初から最後まで、ずっと神の愛の働きの中に取り扱われて、聖なる者・汚れのない者とされていくことがわかります。そうすると神の愛を受け取ったことは感謝と愛をいただけるのです。
     (5節)神の選びによって、わたしたちがイエスを通して神の子とされました。それとともに、教会、つまり、その一人ひとりが神に結ばれ、また互いに結び合わされてキリストのからだである教会も、また(神の選びによって)創造されたのです。わたしたち一人ひとりが聖なる者・汚れのない者にされたのは愛によるのですから、その愛によって、わたしたちを神と兄弟たちとに結びつけられることにほかならないのです。
    このように、神はわたしたちを神なしにはあり得ない存在にしてくださったということでしょう。それが神をほめたたえる・祝福する確かな理由です。
     これらはすべてイエス・キリストを通して行われます。キリストの御業、ローマ3:19-26(イエス・キリストを信じる者をキリストの贖いの業をとおして罪を赦し、神の御前に正しい者とされる)すなわち、その救いの働きによって、わたしたちは父なる神の家族の一員として受け入れられました。そのように、神は主イエスを通してわたしたちをご自分のもとに導かれます。これは、わたしたちがキリストを通して神がなされたことによる恩恵のただの受け手であるということです。神の恵みのさらなる証しになりますが、すべて神の御心のままに起こったことなのです。それゆえに、このことを賛美するのです。
    (6節)ここに記された讃美の言葉は、神の栄光と、驚くべき讃美に値する恵みがどのようなものであるかを指し示しています。神の御業について語られたことばを聞いてきて、わたしたちは神の御業をたたえ、神に栄光を帰するのです。神がなさることは威厳があり(フィリピ1:11、ペトロ一1:7)ます。神のこれら恵みの御業はほめたたえられるべきものです。ここには主イエスと聖霊のはたらきもあって、三位一体の神が働いておられます。わたしたちが神に受け入れられるため、そして神のもとに導くため、それによって神の恵みの栄光をたたえるようになるためです。
     神の御前にあってわたしたちは暗い知性しか持ち合わせていません。わたしたちは神がわたしにどのようなお方であるかを証しすることにとどまらざるをえません。そうはいっても、世にあって、福音は聞く者すべてに開かれているものです。それは、神が善いことをなさろうという御業と恵みへと人々を招き入れます。人が神の家族の一員となることは、偶然ではないのです。それは神の御業であり、神の善意と、救いと贖いのための福音が伝えられることに根ざしています。すると、そこにも神の恵みが働いてイエス・キリストを信じる民がおこされ神の栄光を讃えることになっていくのです。
     新しい年も、神の祝福をいただきながら、教会の民として聖なる者とされるわたしたちが、御言葉を語り伝え、それぞれ遣わされたところで主を証ししていく一人ひとりでありたいものです。
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昨年の説教から
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  • 12月29日 キリストの平和

    2024.12.29主日礼拝「キリストの平和」         伝道者 熱田洋子
    サムエル記上2章18、19、26節、コロサイの信徒への手紙3章12―17節  
     パウロがローマの獄に捕らわれている間に、コロサイの会衆の中に偽りの異端が
    入り込んできたと知らされました。それに返答して、キリストは神の満ちみちる方であり、救いに必要なすべてのことをされたのだと述べます。そしてキリスト者の生活は、神から与えられた賜物を軽んじないで、良い業において成長し、わたしたちを闇の支配から救い出し、愛する御子の国へと入れてくださった方を信じるにふさわしい生活をするように述べるのです。
       この手紙の1、2章では次のようなことが言われています。 キリストは、見えない神のかたちである。キリストは創造の前から存在していた。創造はキリストを通してなされた。そのうえ、キリストは、死の最初の征服者として教会のかしらであり、教会はキリストのからだである。神は、キリストのうちに住むことを選び、十字架によって、敵対する霊力を和解させた。以前、神から離れていたあなたがたが、教えられた信仰と希望に堅く立つならば、その和解にあずかることができるだろう。神は、「あなたがたのうちにいますキリストであり、来るべき栄光の望み」を現してくださった。
     キリストには、あなたがたの救いのために必要なすべてのものがある。洗礼においてキリストと共に死んで復活した時、あなたがたは、古い肉の生活から離れた。あなたがたが罪に死んだ時、神はキリストと共にあなたがたを生かし、罪をゆるし、あなたがたを律法の要求から自由にした。キリストは十字架においてその律法の要求を終わらせた。キリストは、十字架において、敵対するあらゆる力を破ってくださった。このように述べています。
     そして、今日の箇所で、キリスト者に向けて、キリストと共に復活したのだから、キリストが今、君臨しておられる上なる御国を求めなさい、そして、地上の情欲と縁を切り、古い悪い習慣を脱ぎ捨てるように勧められます。
      まず、あなたがたキリスト者は、「神に選ばれ」、「聖なる者」とされ、「愛されている」者なのだと、神とのつながりを思い起こさせます。
    「神に選ばれた」者は、人間的に見て、また世にあって、無に等しい者が選ばれています(コリント一1:26―28)。ということは、自分を捨てて、この世の人々と神に奉仕する者として選ばれたのです。キリスト者は、この世の少数者かもしれませんが、この世に塩で味付けするために、つまり、この世の人々に奉仕するためにあるということです。
    「聖なる者」とされているとは、キリスト者は神に属する者で、自分の側に存在の根拠があるのでなく、神が主になっていて、自己中心ではなくなっている者です。聖化されるのは、当然に「生きているのはもはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。…」(ガラテヤ2:20)のとおり、もはや、この世の人のような生き方ではないのです。ですから、真の世の光を指し示すことができるということでもあります。
    「愛されている」と言われて、わたしたちは神から愛され続けている、現に神の愛を受けつつあることが明らかにされます。このように言われるのですから、神がすべての主導権をもっていて、わたしたちはすべて受け身です。というのは、一人ひとりのもつ資質とか業績がキリスト者を作り上げるのではないのです。わたしたちは神の恩恵によって導かれています。わたしたちがすることは、素直に聞き従うことです。ですから、このような神に主導権をにぎられていると自覚する者は、当然に神への感謝がわきおこってきます。つまり神がわたしたちを愛していてくださる、そのことを知ったら、それに応えようという姿勢をとらざるをえなくなります。神とわたしたちとのこのような関係をしっかり身につけた一人ひとりこそが、ここに記された道徳のすすめを正しくに聴くことができるというものです。
      わたしたちは神との関係は上から下への垂直の関係です。一方ここでは横の関係、人と人との関係でもっているようにと道徳の項目が上げられます。まず、親切な行動や態度で示される親切心です。親切な行動を通して他者の必要に応えようとする、友好的で助けになる精神です。
     つづいて、自分自身の見方はどうあったらよいかです。謙虚な考え方、謙遜。それは自分の弱さを認識することであり、また神の力を認識することでもあります。そして謙遜の心は、他者とのやり取りで柔和と寛容となって現れてきます。柔和、この言葉は、神と神の御心に従順に従うことです。揺るぎない信仰と忍耐があれば、他者に対して穏やかな態度と親切な行いとして現れます。それは、聖霊によって神の御心に従うようになって、自分を押さえた従順な人のもつ力です。寛容は、他者の愚かさや、無知にも、決して節度のない批判や愚痴を持って反発しないこと、他者の嘲笑や軽蔑、悪意ある態度にも、決して恨みや怒りを駆り立てない生き方のことです。これらをみると、個人の能力に関することに触れられてはいないことに気づきます。たとえば、賢明でありなさいなどとは言われていません。特殊な能力だと、それは誰にも与えられているとは言い難いです。幸いなことに、ここに上げられているのは、その気になればだれもが身につけることのできるものばかりではないでしょうか。わたしたちに、ないものねだりしているのではありません。ここでわたしたちはほっとします。そして、積極的に人々と交わってみようという勇気がわいてきます。
       これらの道徳の項目に続いて、人間のお互いの関係において具体的に次のように行うように勧められます。「互いに忍び合い、責めるべきことがあっても、赦し合いなさい」と、この言葉遣いは、一度や二度くらい耐え忍んだり、赦したというのでは事柄は決して好転しないことを告げています。主は、「七回どころか七の七十倍までも」兄弟を赦しなさいと教えられました(マタイ18:22)。それどころか、あなたがたが兄弟たちを赦すよりはるかに多く、「主があなたがたを赦してくださった…」と深く心に刻みつけて忘れないようにしなければならないのです。ここに、主の赦しとわたしたちの赦し合いとが関連して述べられているところから、「主の祈り」へと思いを向けさせられます。「わたしたちの負い目を赦してください、わたしたちも自分に負い目のある人を赦しましたように。」(マタイ6:12)です。
       それらのものすべてをまとめるものとして愛が考えられてしかるべきです。愛がなくてはすべての項目が意味はなくなります。したがって、これら一切のものを支配するものとして愛があると読むのが良いでしょう。愛はイエス・キリストの十字架の道で教えてくださった愛、神がわたしたちを愛してくださる愛です。すべてを完全に結ぶ帯「愛は完全という帯である」とみています。完全というのは、個人の資質に言及しているものではありません。愛によって神に喜ばれる完全なものに高められるのです。つまり、愛がなければ、すべての道徳の項目は義務かと思われてしまいますが、愛によって麗しい調和が与えられるものなのです。
       さて、わたしたちは教会の民、皆で教会を建てあげています。このように新しい生き方に導かれたわたしたちは教会においても愛を働かせることです。
     コロサイの教会にも種々の問題があって、教会を分裂させ、その信徒間に対立を生じさせていたのかもしれませんが、それを一致させるものとして、愛がすべてのキリスト者たちを結び合わせるときに、キリスト者の完全という理想が達成される、そのことを思っているのです。
      「キリストの平和があなたがたの心を支配するようにしなさい」というのは、願望です。たしかに、平和は命令によって推進されるものではありませんね。「平和」という言葉はユダヤ的シャロームが背景にあります。それは紛争の単なる停止状態ではなくて、慈しみやまこと、正義の意味ももち、さらには繁栄を象徴する言葉です。しかも「キリストの」がつきます。キリストが生み出す平和、キリストの香りがただようものでなければなりません。イエス・キリストの和解の業、キリストの愛が前提とされている平和です。キリストの和解は、十字架を通して与えられました。そこに血と汗が流されたことは忘れることのできない事実です。つまり、「キリストの平和」はキリストによって教会の信徒たちの間に与えられる平和に違いないですが、安易に生じるものではないことも覚えておきたいと思います。「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな。」(ヨハネ14:27)主ご自身、別れて行かれるときに、平和を遺産として言い残されました。
       この「キリストの平和」は、厳として犯すことのできないものとしてわたしたちの「心を支配する」べきものです。「支配する」という言葉は古典的には審判員の意味で使われていました。皆さんは思い浮かべると思います。「日本キリスト教会信仰の告白」において、聖書の御言葉の中で語られる聖霊が、主イエス・キリストを証しし、信仰と生活との誤りのない審判者であることを。教会とわたしたちのうちに聖霊が働いていますから、教会内で起こる様々な出来事を判定する基準として「キリストの平和」、つまりそこに示される聖霊の働きを祈り求めてことにあたるようにということでしょう。たとえば、愛と憎しみを持って互いに相争うような場合、わたしたちのうちに混乱や矛盾、争いを引き起こしたときでも、もし「キリストの平和」が審判員となってその事態を治めるなら、神の教会は一致を保ち、その働き・福音宣教をまちがいなく進めていくことができるということです。
     ここには、平和が前面にでることこそが、キリスト者が神に召されて教会に招き集められた目的であることが明らかにされます。キリスト者たちが一体とされるのは、キリストの平和が有効に働いた結果です。なぜかというと、教会は神の国の地上におけるひな形といえるものだからです。そのために、神の国を願い、そこに期待される役割を果たさなくてはならないのです。
     その特徴は、そこにキリストの愛が原理として働いていることを見出すことができるということでしょう。逆に分裂があるということは平和のないことの現れです。キリストの体としての教会が十分に活動できるのは、その条件が備えられていること、つまり愛を基にした一致へのすすめがなされているとみることができます。
       このようなわたしたちに、今や、キリストの言葉をあなたがたのうちに豊かに宿らせなさい、との言葉が聞かれます。自分の身体を神の宮と心得て、キリストご自身をそのうちに住まわせることによって、キリストを原動力としてわたしの心も身体も主のために働かせてもらうことが肝要です。キリストがここにおられる教会であることこそが、「平和」を増進させ、キリスト者を一致へともたらす鍵なのです。
       わたしたちの教会もキリストの言葉を分かち合う教会であるとともに、さらに、詩と賛美と霊の歌とにより、感謝にあふれ心から神に向かって讃美する教会でもあるようにと加えられます。
       まとめとして、わたしたちの生活の全領域の中に主イエス・キリストの支配を認めながら生きること、すなわち「すべてのことを、主イエスの名によってしなさい。」と勧められているのです。

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