伝道師 熱田洋子
列王記上14章1〜16節「神の怒りを招く」
テトスへの手紙2章14節
サウル、ダビデ、ソロモンの各王によって治められていたイスラエルは、ソロモンの死後、息子レハブアムの思慮の足りない行動によっての十二部族のうち、十部族が反旗を翻して、北王国を樹立しました。ネバトの子ヤロブアムがそのリーダーで、独立後、王となったのです。したがって、ヤロブアムは、イスラエル分裂王国時代の最初の王です。
かつてヤロブアムに十部族の上に立つイスラエルの王位を約束し(王上11:31)、ダビデの家に反旗を翻すように促したシロの預言者アヒヤが再び登場します。今度は逆に、ヤロブアムの王朝の断絶を予告することになります。
かつて主なる神はアヒヤを通じでヤロブアムに、「わたしはあなたを選ぶ。自分の望みどおりに支配し、イスラエルの王となれ。」(王上11:37)と激励し、しかも、もしヤロブアムが主の命令に忠実に従うなら、「ダビデのために家を建てたように、あなたのためにも堅固な家を建て」ようとまで約束していたのです。
そのアヒヤの預言の前半は、王国の分裂と北王国の王へヤロブアムが即位してすでに実現しました。そこで次には,アヒヤの預言の後半にあるように、ヤロブアムが主の命令に従うかどうかが問題になります。
列王記、歴代誌において、ほとんどの諸王たちの業績には「彼はネバトの子ヤロブアムの道を歩み、イスラエルに罪を犯させたヤロブアムの罪を繰り返した」という言葉で総括されています。そこで、ヤロブアムの犯した罪とはどのようなことだったのでしょう。
ヤロブアムは王となったとき、ヤロブアムは北王国の都をシケム置いてそこに住みます。それまでイスラエルの人々はエルサレムへ行き、そこにある神殿で神を礼拝することを常としていました。それで、当然、人々はエルサレム神殿で礼拝をささげることを続けたかったのです。しかし、ヤロブアムの心は、この民がいけにえをささげるためにエルサレムの主の神殿に上るなら、この民の心は再び彼らの主君、ユダのレハブアムに向かい、わたしを殺して、帰ってしまうだろう(王上12:26/27)、と思ったのです。そこで、ヤロブアムは、エルサレムに対抗する聖所としてベテルとダンに神殿を築き、民には、礼拝を守るためにエルサレムへ上る必要はない「見よ、イスラエルよ、これがあなたをエジプトから導き上ったあなたの神である。」といって、金の子牛を二体鋳造し神殿におき(王上12:28)、かつてエルサレムでやっていたのと実際同じことをこの金の子牛に対してできるのだと民に勧めたのです。
ヤロブアムの罪とは、神への信仰を捨てる罪ではなく、むしろ、神を信じてはいるのですが、神のご命令を自分の都合の良いようにわざと緩め、形を変えさせてしまう罪です。神がいかにして礼拝すべきか示しておられるのに、そのご命令を無視して、それに代えて、自分自身の計画や目的に合うように、自分で礼拝の仕方を考えて、それを民に押し付けたということです。
けれども、幼いわが子が病気になった時に、神が求めておられる礼拝の仕方を思わされることになります。そこで、ヤロブアムが神の前にどうあったか、真実の姿がさらけ出されます。ヤロブアムは聖所をおいたダンにもベテルにもいかなかったのです。二体の金の子牛のどちらのところにも赴かなかったのです。
なぜでしょう。自分が建て上げた聖所、神殿で礼拝するように民衆には強いても、それが空しい虚構で何の役にも立たないことを知っていたから、鋳造した二体の金の子牛が人の命を助けることなどできないと知っていたからです。
そして代わりに、妻を預言者、自分に王になると告げたその人のもとに遣わします。
選んでくださった神、すなわち、わたしたちの神は、主の戒めに聞き従い、主の道に歩み、主の目にかなう正しいことを行うように願っておられるのに、ヤロブアムの態度には、神を侮辱し、自分自身をあざむいていることがみてとれます。
わたしたちは神を信じ、救いを願います。そして、困難が生じると神に向かいます。聖書を読み、愛について、憐れみについて言わねばならないほどのことを信じています。神の寛容や赦しを受け入れ、天国に行きたいと思い、神のもとに近づきたいと願っています。聖書が語る重要なテーマについては受け入れています。しかし、同時に、聖書が語る真理、義、聖さについて、‘聖なるものとなりなさい’というような奨めや、戒めに従うように促されることはすべていやがるのではないでしょうか。神を信じてはいても、それは自分なりのやり方、自分なりの考えによることでしょう、聖書を読みますが、そこから引き出すのは自分に都合の良いことばかりということになっていないでしょうか。
それではヤロブアムのように、神を礼拝していると思っていても、それは、自分なりの仕方であって、神の望まれるような仕方ではないかもしれないのです。物事がうまくいかなくなると、いつでも神を思い出し、祈ります。しかし、順調にうまくいっている時には、神のことなどきれいに忘れ、聖なる者へと導かれることなど自分たちの心の底に閉じ込めてしまいます。
神の語っておられることを、わたしたちなりに考えて、あるものを重要で正しいとみなし、あるものをたいしたことではないとみなすこと、こうしているうちに、心の底の底では、何が真実で正しいのかを知っていながら、わざと誤ったことを行い、自分自身に対しては、これで何も問題などないと言い聞かせているのです。
このとき、ヤロブアムが自分を欺いていたことも明らかです。アビヤの病気を前にして、ヤロブアムは、自分が作り出した神殿、金の子牛のもとで礼拝するやり方など役に立たないことをよく知っていました。でも、何とか愛する息子を助けたかったのです。そこで、意を決して、妻を預言者のもとに遣わしました。自分では行かなかったのです。
それは、どうしてでしょう。このとき、妻を貧しい人に変装させ贈り物をもたせました。自分の今を預言してくれた預言者が、ヤロブアムの妻だと気づいたとき、何と言われるか恐ろしかったのです。ヤロブアムは自分の知恵を過信していたのです。事実、ヤロブアムがだますことができたのは、他ならぬ自分自身だと気づかねばなりません。
この預言者は、まだ、ソロモンが生きているうちに、ヤロブアムに対して将来イスラエルの王となることを予告した(11:31)、それほど未来を見通すことのできる人物です。神の力によって未来を読み取り、何か起こることを告げることのできる奇蹟的な力をもっています。そう考えておきながら、ヤロブアムはだますことができると思ったのも愚かなことです。それはわたしたちにも言えることではないでしょうか。人間は何と愚かなもので、いかに自分のことを賢いと思い込んでいることでしょうか。
わたしたちは、神のおきてをいいかげんに扱い、人生を自分の好きに生きられると思っているものです。そうしていながら、人生の危機が迫ると、そして最後にいたって神を必要とする最悪の時にだけ、神に向かおうとします。神をだませると思い込み、「というのは、神の言葉は生きており、力を発揮し、どんな両刃の剣よりも鋭く、精神と霊、関節と骨髄とを切り離すほど刺し通して、心の思いや考えを見分けることができるからです。更に、神の御前では隠れた被造物は一つもなく、全てのものが神の目には裸であり、さらけ出されているのです。この神に対して、わたしたちは自分のことを申し述べねばなりません。」(ヘブライ4:12-13)このことを忘れてしまってはいないでしょうか。
わたしたちは、神を信じますと言います。神が全能であり、絶対者であられると告白します。それでいて神に従わないのです。ヤロブアムは、その点で罪を犯しました。神は全能のお方で、わたしたちのすべてを知っておられます。
また、ヤラブアムは自分のはずかしさを感じたでしょう。息子の病気が深刻になった時、自分がしてきたことに直面させられました。一連の行動がいかに役に立たないものだったか気づかされ自分が嫌になったのではないでしょうか。それもあって、神の人に直接会うことに恐怖心、何と言われるか、と恐ろしかったということではないかと思います。
妻は、災いと嘆きに満ちた恐るべきメッセージを持ち帰ります。息子アビヤは死に、ヤロブアムはすべてを失うことになります。
わたしたちも苦難や問題の中で神に向かいます。自分のやりたいように生きてきたことを考えて、都合の良い時だけ神に立ち返り、自分を喜ばせるためにだけ、自分の便利のためにだけ、神を用いようとしているなら、愚かな者ではないでしょうか。
とはいえ、他に助かる手段はまったくなく、神にすがることしかないことをわかっています、ヤロブアムのように。神の力を知り始め、自分の罪を自覚し始めています。あまりにもおそまつで見下げ果てた自分の行いは罰に値すると認めなければならないと感じるのではないでしょうか、そのことなしに、あるいは、恐れやはずかしさなしに、生きておられる神の御前に願いをもって立つことのできる者などいないのです。
ヤロブアムは悔い改めることはついにしませんでした。もし、彼が悔い改めて、自分自身で預言者のもとに出向き、自らの罪と愚かさと恥とを告白したなら、まったく違った結末を迎えたのではないかと、推測することはゆるされると思います。
しかし、わたしたちの場合に言えることは推測ではありません。わたしたちが、神に従えなかったことを心から認めて、はずかしさと悲しみの思いで神に告白し、神の憐れみにすがり、罪を告白します、赦してくださいと願い求め、悪しき道、背きの道を捨て去り、ただ神に喜んでいただけるように生きます、と約束するなら、その時、神は、わたしたちを受け入れてくださいます。そればかりではありません。無限の赦しをもってわたしたちを赦してくださる、限りない恵みを注いでくださいます。
そのように確かに言えるのは、わたしたちには、神のひとり子、主イエス・キリストがおられるからです。主イエスはこの地においでくださり、人として生きられ、十字架で死なれましたが、よみがえってくださいました。わたしたちを罪から贖い出し、赦し、自由を与えるためにです。
イエス・キリストがいのちを投げ出してくださったことにより、わたしたちの罪が赦される道が開かれ、天の国への希望が与えられました。それだけではありません。「キリストがわたしたちのために御自身を献げられたのは、わたしたちをあらゆる不法から贖い出して清めるためだったのです。」(テトス2:14)
すべては十字架にあります。讃美歌142番にそのことが見事にうたわれています。
十字架を真摯に見上げ、その意味を考えてこの讃美歌を心から賛美できるでしょう。
わたしたちは、神が命じておられる聖い生き方を嫌い、神のおきてを無視し、他のものを求め、心をひかれ・とらわれるものがありがちです。しかし、こうした一切、自分が大切に思っている物事を十字架の光に照らして見つめ直してみたらどうでしょう。
それらがいかに空しいことか気づくのではありませんか。そうしたことを後生大事にし、神とその聖いみこころと取り替えてしまっている、そこにあるのは、わたしたちの真の姿、罪深い姿です。
イエス・キリストは死んでくださった。すべてをわたしたちに与え、ご自身すら与えてくださった。キリストは、わたしたちを救い、新しく造り替え、神と和解させてくださるために死んでくださった。
5節で、うたわれている応答以外の応答などはたしてあるでしょうか。
わたしたちの魂、わたしたちの人生、わたしたちのすべてを、神におささげする一人ひとりでありたいものです。