日本キリスト教会釧路教会


教会の標語「思い煩うのはやめなさい」


       集 会 案 内
    主日礼拝     毎週日曜日 午前10時30分
    聖書研究・祈り会 毎週水曜日 午前10時30分

信者でなくても、どなたでも参加できます、いつでもいらしてください。ご一緒に礼拝をし、また楽しく聖書を学びましょう。

                    伝道師 熱田洋子

2025年4月主日礼拝のご案内

🟠第1週 受難節第五主日礼拝  
 4月6日(日)午前10時30分
 聖書 イザヤ書43章16〜20節  
    ヨハネによる福音書12章1〜8節

 説教  「神と隣人とに仕える」
    伝道師  熱田洋子

  
🟠第2週 棕櫚の主日礼拝 
 4月13日(日)午前10時30分

 聖書 ゼカリヤ書9章9節  
    ルカによる福音書19章28〜40節

 説教 「主がお入り用なのです」
    伝道師  熱田洋子

 
🟠第3週 イースター聖餐礼拝  
 4月20日(日)午前10時30分

 聖書 コリントの信徒への手紙一15章12〜21節
 
説教 「実際、キリストは復活しました」
    教師  千葉   保


🟠第4週  主日礼拝
 4月30日(日)午前10時30分
 聖書 創世記2章7節 
    ヨハネによる福音書20章19〜31節

 説教  「信じる者になりなさい」
    伝道師  熱田洋子



感謝を込めて祈り願いなさい

どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。
      (フィリピの信徒への手紙4章6節)
2月9日「第60回日本キリスト教会釧路教会総会」が開かれ、2025年度の伝道方針と予算が決定しました。
教会の皆、心を一つにして教会を建てあげていきます。神の導きがありますように祈っております。
この聖句を年間聖句としました。

           レントとイースター
2025年は、3月5日(水)からレントに入ります。
4月20日(日)がイースターです。

《レント(受難節)とイースター》    
      久野 牧 著「教会生活の道案内」から

・キリスト教会の基礎は、イエス・キリストの復活にある。
  
それは「週の初めの日の朝」に起こった。 
 この出来事を記念するために、教会は、週の初めの
 日である日曜日に礼拝をささげるようになった。
 日曜日は、「主の日」「主の復活日」。

・過越の祭りを主の復活に結びつけた。
  
同時に、初代のユダヤ人キリスト者たちは、毎年
 春に行われるユダヤ教の過越の祭りを引き継ぎ、
 それを主イエスの復活による贖いに結びつけて
 祝ってきた。過越の祭りでほふられる小羊が指し
 示していたことは、苦難・死・葬り・復活をとおし
 て贖いを成し遂げられたキリストにおいて成就され
 た、との信仰の表れ。

・復活日(イースター)は春分の日の次の満月のすぐ
 後の日曜日
  
過越の祭りは、毎年、春分の次の満月の時に祝わ
 れていたが、教会は、主の日に結びつけて固定し、
 復活日(イースター)がこのように定められた。

 ・レント(受難節)の起源、このときは主イエスの
 苦しみを覚える日々 
  
その後、一年に一度の復活日が、罪の赦しと永遠
 のいのちを与えられて、新たな生まれ変わりを
 しるしづける洗礼を受けるに最もふさわしい時で
 あると考えられたため、イースター前に洗礼の準備
 期間が定められた。
 その期間、受洗志願者はキリスト者として生きる
 ための信仰の教育と訓練を受け、断食と祈りに集中
 し、清めの儀式を受けて、洗礼へ備えた。
  やがて、その期間は、他の信仰者たちも、自発的
 に主の苦難を覚え、復活の祝いに備える時として過
 ごすようになり、全教会的に悔い改めと祈りに集中
 した。4世紀頃に始まったと言われる。

・期間は四十日。「四旬節」とも呼ばれる。
  「レント」は、古い英語の「(日が)長くなる」
 を意味する語に由来し、主の復活を待つ思いが込め
 られたもの。
  また四十日は、主イエスの荒野における四十日間
 の断食や、出エジプト後のイスラエルの民の荒野に
 おける四十年の旅などから選ばれた。

・開始日は「灰の水曜日」
  八世紀から九世紀頃に、復活日前の土曜日から
 遡って、日曜日を除く四十日間とされた。
 開始日は、六週間余前の水曜日になる。

 ・レントの最後の一週間が、受難週 
  始まりの主の日は「棕梠の主日」;主イエスが
 エルサレムに入城され、人々が棕梠の葉を敷いて
 迎えた (口語訳、ヨハネ12:13)。
  木曜日は「洗足木曜日」;最後の晩餐と主イエス
 による弟子たちの洗足(ヨハネ13:1以下)とが結
 びつけられる。
  金曜日は「聖金曜日」;主イエスの十字架と死の
 受苦日。

・レントおよびその最後の週の受難週は、主の苦しみ
 を覚える期間 
  このような特別の時の過ごし方は、信仰者たちの
 信仰と生き方を、苦しみの主にふさわしく整え、
 意識化するための工夫として生み出されてきたもの
 で、今日もその精神を受け継ぎたいもの。

イースターは主イエスの復活の祝いと記念の日

釧路教会の伝道のあゆみ


 釧路地方のキリスト教伝道は、1900年頃からで、日本聖公会とギリシア正教会の伝道が初期の
もの。

 日本基督教会の釧路伝道は、1906年1月23日の坂本直寛による平井家での集会が最初であった。
 その集会が発展して日本基督教会釧路教会(今日の日本基督教団釧路教会[浦見])である。
 戦後、教団を離脱して再出発した日本キリスト教会は、新しく1962年10月に伝道を開始して、
今日の日本キリスト教会釧路教会[柳町]となっている。

 私たちの釧路教会は伝道開始から62年、釧路の地にキリストの福音とその光を輝かせ、希望と慰めの言葉を語り伝いたいと願い、励んでいます。

沿革
伝道開始——1962年10月29日  
伝道所開設—-1964年10月27日
伝道教会建設–1974年 5月 7日  
教会建設——1982年 5月 3日
現会堂献堂—-2001年12月23日  
1962年10月29日、稲岡義一宅にて伝道開始。以後、稲川稔宅と交替で集会が守られ、近藤治義、竹内厚、高橋恒男の諸教師が伝道に当たった。  
1963年10月、大会伝道地となり、
1964年10月27日伝道所開設。伝道責任者は久米三千雄教師に交替した。  
1967年3月31日、堀田治郎教師が主任者として赴任。
1970年11月10日、教会堂・牧師館を市内柳町12番18号に建築。12月8日献堂式を挙行した。  
1974年5月7日、伝道教会建設。
1982年5月3日、教会建設。堀田治郎が牧師に就職し、1996年3月25日辞任した。
1996年3月29日、教師試補田中忠良が伝道師として就職。  
1998年11月30日、田中忠良が牧師に就職。2001年12月23日、教会堂・牧師館を現在地に移転建築。
2012年3月、田中忠良は牧師を辞任。以後3年間無牧となる。
2015年5月6日教師千葉保が牧師に就職。
2023年3月、千葉保は牧師を辞任。
2024年5月6日、教師試補熱田洋子が伝道師として就職し現在に至る。

VOICE

小見出し

サンプル 太郎
ここをクリックして表示したいテキストを入力してください。テキストは「右寄せ」「中央寄せ」「左寄せ」といった整列方向、「太字」「斜体」「下線」「取り消し線」、「文字サイズ」「文字色」「文字の背景色」など細かく編集することができます。
VOICE
実際の公開ページでは回答部分が閉じた状態で表示されます。

3月30日の説教から
(下向き矢印をクリックしてご覧ください。)

  • 3月30日「憐れみ深い父」

    2025.3.30受難節第四主日礼拝「憐れみ深い父」    伝道師 熱田洋子
    ルカによる福音書15章1―3, 11b−32節
     徴税人や罪人たちが主イエスの話を聞こうと近寄ってきたのを見て、ファリサイ派の人々や律法学者たちは不平を言い出したのです。それを聞いて、主はたとえ話をされました。主が徴税人や罪人たちを愛していてくださることは、わたしたちもわかっていることです。そして、そのことは、この人たちを冷たい目でみているファリサイ派の人々や律法学者たち、つまり、主イエスに反対する人たちに主の愛・憐れみをそそがないことでは決してないのです。神の愛とはこのようなもの、つまり「両方どちらにも」向けられているもので、「どちらか一方」ではないのだと今日の聖書の箇所にはいわれているのです。
     わたしたちのことを考えてみると、他者に対して神が憐れみを注いでいるのをみて、快く思わないでいる、不快な気分にならない、というのは難しいことではないでしょうか。とりわけ、わたしたちが、人の行いや性格について真面目な問いを持っている場合にはそうであるように思います(自分は正しいことをしている、奉仕もきちんとしている、あの人はそうでないのに…)。
     神は、人間をロボットのように動かそうとされるのではなく、一人ひとりの自由な思いから神に従うことを期待しておられます。しかし、この自由をはき違えてしまうと、神から逃げ出し、反逆する道を歩んでしまうことになりかねません。わたしたちの現実をみると、神の子とされ、恵みによってかえりみられ、主の召しを受けながら、それに反抗して、自己中心の道を歩んでしまうことがある、それが、この放蕩息子の姿によく現れています。
     弟息子は当時のユダヤ教の慣習にあったのでしょうか、父の遺産の三分の一を受け取り、全部を金に変えます。遺産ですから、たいていの場合、父親の死に際して受け取られますが、もっと早くに分配されることもあったようです(列王記上1−2章)。そして、弟息子は父と共にいることをいやがり、一人ひとりがかけがえのない者として覚えられる家族の一員であることから逃れ、自分の欲望を抑制するもののない「遠いところへ行き」ます。家族の中の役割から抜け出して、何者にも束縛されることのない自由な生活を始めます。しかしそれは、生活態度も金の使い方も放蕩な生活になって、破滅の道へころげおちることでした。
     ここで無駄遣いしてしまった財産とは、父がこの息子に委託したものでしたから、弟息子はその責任を放棄したこと、つまり、父の期待を裏切ったのです。神学者ボンヘッファーは、キリスト者として生きるとき、神の「委任」を真剣に受け止めることを強調します。つまり、わたしたちは、この世で、労働、結婚、政治、教会も生きるうえでのそれぞれ置かれたところにおいて、真の支配者である神から委任を受けて管理にあたっていると考えることなのだと言いました。それらは人間に与えられた特権であるとともに責任なのです。
     そうすると、この息子が父からの財産を浪費したということは、神から委託されたものを無視するという人間の罪を示していることです。弟息子の放蕩と浪費の生活の結末として悲惨な破局が訪れます。父や隣人と共に生きることを束縛だと拒み、自分の思いのままに生きることは、一見、自由のように見えますけれど、本当は孤立と無関心の世界にさまよいでて、ついには困窮のうちに行き詰まるようになります。すべてのよき賜物を与えてくださる方・御父(ヤコ1:17)から受ける代わりに(主の祈り第四祈願)、人は必要とするものを自分で苦労して見つけ出さねばならないのです。家を出た弟息子の窮迫した状況が描かれます。
    「その地方に住むある人」のところに身を寄せ、辛うじて豚飼いの仕事をあてがわれたにすぎなかったのですが、ユダヤ人にとって、豚は汚れの象徴でしたから、豚を飼う生活は、父の家を捨てた息子にどうにもやりきれない屈辱でした。飢饉が起こって食べるにも困り始め、餌のいなご豆のさやさえも食べたいと思ったというのです。このたとえ話には、“ユダヤのことわざ”を思い出させます。「ユダヤ人がいなごまめにしか頼れなくなったら、そのとき悔い改める(直訳すれば「立ち帰る」)ということわざです。それが当てはまっていきます。
     飢饉が起こるとは、「生めよ、ふえよ、地に満ちよ」(創世記1:28)の神の祝福が止められることです。この異常な非常事態に立ち至った人間に神が問いかけられます。この息子に、神は餓えを通して「どこにいるのか。」(3:9)と問いかけておられるのです。息子がどこから道を外れたのか、どうして道を外したのかを思い起こさせて、異郷の地から帰る道をさがすように促されます。
     そこで、今や、息子は、自分を見失っていた中で「われに帰った」のです。祝福に満ちた父の家、父が裕福だったことをはっきり思い出しました。というより、思い起こすことによって、われに立ち帰ることができたのです。ただ父の目の届くところで生きたい・働きたい、と願ったのです。人生の危機に直面して、父なる神を思い起こすとき、悔い改めて父に帰る心へと導かれます。
    「ここをたち、父のところへ行って言おう。」『お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。』息子は、父に対する不孝を痛切に感じると同時に、神に対する罪責をも深刻に自覚しました。この罪に気づいたとき、方向転換をして、父の家に帰ることを決意したのです。悔い改めには、心の方向転換とともに、単に心の持ち方にとどまらず、新しい生活をするように道が備えられていくものです。
     それとともにへりくだって、自分の罪に目覚めると、神の御前に何ももっていない、父によって生かされていたことを気付かされ、そして、息子は、父の家でしもべとして生きることを願い、父親のもとへ行きます。
     ところが、父親は帰ってくるわが子がまだ遠くにいるのに気づきます。ということは、父が家の外に出て息子の帰りを待ち受けていたことです。息子が出ていって以来、父は帰ることを信じて、来る日も来る日も戸外に立って待っていたのです。息子が父を思い起こす前に、父は息子を思い続けていたということでしょう。神の恩寵の恵みが先立つことを示している姿です。この息子のために財産を減らし、心を痛めてきた父親ですが、自分の苦しみを忘れて、息子が(みすぼらしい姿から)さぞ苦しんだことだろうと共感し、憐みをそそぎます。なりふりかまわず走り寄って、首を抱き、接吻したのも、強い愛情がここにあらわれています。
     このとき、息子が「雇い人の一人にしてください」と道々考えてきた言葉・罪の告白を、父は息子に最後まで言わせないで腕に抱き、祝いの晴れ着を着せ、指輪をさせ、はきものを履かせます。家に帰った息子はいまは何も持っていないとはいえ、ただ恵みによって父の家に留まり、息子として家の中で自由に生きることが許されるのです。さっそく父は、祝宴を始め、息子の罪を赦しただけでなく、新しい交わりを開きます。
     このような待遇がなぜなされたのでしょう。人間は交わりに生かされています。この間、父と息子の愛と信頼の交わりが断絶して、息子が父から孤立していた、それは父から見て息子が死んだも同然だったのです。神と人間との関係を考えると、わたしたちが神から逃げ出し、創造者(造り主)との交わりを断つとき、自分自身を死と滅びの中に投げ込んだと言うことができるでしょう。
     神はわたしたち人間の死を望まれません。わたしたちに生きること、共に生きること、交わりの回復をなさろうとされます。したがって人間が悔い改めて帰ってきたとき、「生き返った」、「見つかった」という喜びを持って迎え入れてくださるのです。
     主イエスが語ってこられたことを思い出します。わたしたちが神の子とされて、主の者として生きる出発点は、わたしたちが奉仕したから、犠牲となって何かをしたからではなく、神ご自身がそこにおられたということです。そしてまた、堕落した子であってもご自分の子であり、主はその子を追い求めておられるのですから、神は悔い改めた罪人を子と認められるということです。
     ここに、もう一人の息子の物語が続きます。祝宴のさなかに畑から帰ってきた兄息子は、放蕩のあげく無一物で帰ってきた弟を懲らしめもせず迎え入れて、責任を取らせもせずに祝宴を設けている父の甘さに我慢がならなかったのでしょう。そこで怒って家に入って来ようとしませんでした。父は、外にいる弟息子のために戸外に立ちつくしましたが、兄息子を家の中に迎え入れるために、またも家の外に出てこなければなりませんでした。
     人はしばしば神よりも厳しくなります。神はお怒りになられますが、それは、愛するが故にお怒りになるのです。しかし人の怒りは怨念、憎しみ、嫉妬や復讐からです。
     兄息子は父に向かって『わたしは何年もお父さんに仕えています。言いつけに背いたことは一度もありません。』と言います。仕えるとは、しもべとして働くことです。兄息子は父の家での生活をしもべのような屈辱的なものと感じていたということでしょう。弟息子は父のもとにいるのに感謝もなく束縛と感じて家から出ていったのですが、兄息子の気持ちも、この弟と同じように、自分がどれほど恵みをいただいているかに気づいていないので、父への愛と共にある喜びがないのです。
     兄息子は怨みがましく、自分の苦労と父がそれを軽んじていることを訴えた後、父の不公平をなじっています。兄にしてみれば、正直ものが馬鹿を見るようなことは許せないのです。兄息子は弟の罪を口実として、自分に愛のないことを正当化しようとしているのではないでしょうか。自分を義人であると思うところから罪が生じていること(ファリサイ派の人々のように)に通じているように思います。それでも父は自らを義とする嫉妬深い兄息子に家の中の祝宴に加わるように招いています。
     このような兄息子に父は「子よ」と優しく語りかけます。放蕩した弟息子に父はいつでも父であったように、怒る兄息子にも父は父であることに変わらないのです。『お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ。』この父親と息子との関係は何と絶対のもので何の条件もついていない言い方でしょう。弟息子と同様に、兄息子にも父の深い、そして計り知れない愛が現されています。
     兄は弟のことを「あなたの息子」と軽蔑して呼んでいたのですが、それを正して、『お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。』と言います。同じ父親の愛のもとに、共に恵みを与えられている者が一緒にいることを願っているからです。父は息子を迎え入れ、それによって兄も弟を受け入れることができるのです。そのために父は兄息子が祝宴に参加するように懇願するほどに招いているのです。
     主イエスは、兄息子がその後どうしたかは語っていません。また、弟息子が父親の歓迎する愛にどう応えて暮らしたかも語りません。どちらにもあてはままる課題が投げかけられているように思います。わたしたちは自分自身を放蕩息子とみなし、神の愛によって受け入れてくださることに喜び感謝しがちです。そして、その愛に適切に応えていくことができればさらに恵みが増し加わることでしょう。しかし、わたしたちは、自分自身を兄息子の立場に置くこともあるのではないでしょうか。わたしたちが信仰をもっているとしても、わたしは正しいことをしている、自分が正当に評価されていないと不平不満をもち、自己中心的な考えで他者を批判的に見ることがないでしょうか。主イエスは、たとえを通して、悔い改めて神のもとに帰る者を神が望んでおられることを語られます。放蕩息子であろうと、徴税人や罪人であったために食卓の仲間として受け入れがたい人々であろうと、神のもとに帰る時に、その人を食卓の交わりに受け入れようとされます、そこには、それに不平を言う人々をも招いておられます。何にもまさって、神がわたしたちと共にあることを喜びとされる恵みを知らされます。そして、わたしたちにも、何にもまさって神を愛し、またきょうだいと共に生きることを喜びとするように促しておられるのです。
  • ここをクリックして表示したいテキストを入力してください。

    ここをクリックして表示したいテキストを入力してください。テキストは「右寄せ」「中央寄せ」「左寄せ」といった整列方向、「太字」「斜体」「下線」「取り消し線」、「文字サイズ」「文字色」「文字の背景色」など細かく編集することができます。
実際の公開ページでは回答部分が閉じた状態で表示されます。

3月23日の説教から
(下向き矢印をクリックしてご覧ください。)

  • 3月23日「悔い改めなければ」

    2025.3.23受難節第三主日礼拝「悔い改めなければ」    伝道師 熱田洋子
    招きの言葉 イザヤ書55章6―7節
     詩編55編17―18節 ルカによる福音書13章1―9節
     今日の箇所には罪の悔い改めと赦しを受けることの勧めが記されています。神の厳しさと寛大さ、つまり、神はわたしたちの行いをさばかれるお方ですが、わたしたちすべてに悔い改めの機会を与えてくださっているのです。
     前半では、歴史的には他に確かめようのない二つの痛ましい事件を思い起こさせます。一つは、エルサレムで、礼拝の際に、ポンティア・ピラトによってガリラヤ人に対して血の復讐が行われたということ、また、シロアムの池の近くにあった塔が倒壊したことです。主イエスは、どちらも、「…あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる。」という言葉で結んでおられます。一方は、人間の邪悪な行為により、もう一方は、自然の恐ろしさというようなもので、主イエスは、こう言われることにおいて、この世のすべてを包括しておられるお方なのです。
       このようないたましい事件はなぜそれらの人々に起こったのだろうか、いつのときも、そしてよくある問いです。この問いは人類の歴史と同様に古いもので、何か悪いことをしたから、こんな苦しみを受けたのだろう、と、苦しみと罪とを直接関連させてしまう見方がその前提にあります。あるとき、主イエスの弟子たちが主に尋ねたことがあります。「ラビ(先生)、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」(ヨハネ9:2)。弟子たちがこの人のことについて神の罰とでもいうような受け止めをしていたことは否めません。
       しかし、主イエスは、聖書に書かれているように、貧しい人、弱い立場の人、目や身体に不自由なところのある人々の上に神の恵みを伝えてきました。そのようになさったことは、人の経済的、社会的、身体的な何かのゆえに、その人は罪を犯しているのだという考え方を打ち砕くようなものでした。間もなく、主であり、神の御子イエス・キリストは、律法を持たない者たちの手も加わって苦しみを受けます、実にそのことが、苦しむ者は最も悪い罪人だ、とする関わりを永久に葬り去るようなものでした。
       しかし、人々のそうした見方はなくならなかったのでしょう。暴動の犠牲者も不慮の災難にあった人々に対しても、一般の人にとっては、エルサレムの他の住民以上に罪が深かったかのように思ったのです。人々は、暴虐と苦しみとは偶然のことだったのか、あるいは神の公平さはどのようにして保たれているのかを知りたがって、主イエスのところに来て問いかけました。この問い、思いがけない事故によって純朴な人々が命を失ったというニュースを耳にする時、わたしたちも、ひょっとするとこのような疑問をいだくかもしれません。
       主イエスの答えは、「とんでもない!あなたたちに言って聞かせよう…」ピラトの弾圧による犠牲者も、シロアムの塔の崩壊で命を落とした人たちも、今ここにいる人たちと比べて、罪が重かったなどということは決してないのだと、確信をもっていわれます。
       因果応報のような思いを人々の頭から払い除けました。むしろ、他人が被った災難を見て、自分たちの方がましだと思ったり、あるいはそのような人をみても対岸の火事だとちっとも痛痒を感じない、その心こそが、実は、神のさばきの対象となるのです。なぜなら、そこには自己保全(わたしはそのような者でなくてよかった)を喜ぶ思いがあるからです。そこで、「あなたがたも、それらの人たちと同じ罪をおかしていることになる、だから悔い改めなさい」という呼びかけではなく、もっと強く「むしろ、あなたたちも悔い改めなければ、全員同じように滅びるのだ!」と言われます。特別に強調するのです。主イエスがお答えになったのは、人々に、神に対する悔い改め、つまり、考え方と生き方を一新するように求めているということです。そうしないかぎり、あなたたちが見ているこれらの人たちのあわれな運命は、まさに、あなたたち自身のものとなるだろう。このことがわからずに自己保全の喜びがあっても、あの犠牲者たちの不幸にまさる不幸なのだ、というのが主イエスの答えです。
       そこで、ぶどう園にいちじくの木を植えるというたとえ話をされます。このことはイスラエルを象徴しています。ぶどう園の主人は、いちじくの木の実を楽しみにしていました。その実りがないことを繰り返します。期待が大きいほど失望のいらだちは大きいです。そこで“切り倒せ”と言い放ちます。これは実を結ばない不毛の民イスラエルに対する神のさばきの宣言に聞こえます。旧約聖書では、ぶどうの実がない、いちじくもないときの預言者の厳しい言葉が書かれています(ミカ書7:1-4)が、そのような預言者と異なり、園丁は「御主人様、今年もこのままにしておいてください。…」と訴えます。
       三年もの間、と主人は言います。この間、園丁は実を結ぶようになるために労苦し、主人の期待に沿うように努めてきました。それは、良い結果が生まれてこそ意味を持つ努力だったのです。ですが、すべては徒労に終わるかのように見えます。主人の忍耐も、いまや限界に達しています。しかし、園丁は、「今年もこのままにしておいてください。」と主人に乞い願います。「木の周りを掘って、肥やしをやってみます。」となお一年の猶予をもらおうとしています。
       いちじくの木のたとえ話を通して、ユダヤ人の運命を思わされます。実を結ばない木は将来性がありません。おそらくそれを切り倒す方が賢明で、間違いなく簡単なことです。主人は実を待っていたのに、ここまでは実を結んでいないのだから、誰もが木は切り倒されるだろうと思っていました。
       しかしここでようやく「希望の光が差し込む」のです。園丁は木が生き延びて実を結ぶことを望み、その可能性を考えて何と高価な道を選びます。「木の周りを掘って、肥やしをやってみます。」と言います。木の根元とは悔い改めが起こらなければならない場所です。この園丁の申し出を、神学者シュラッターは「イエスは、神の憐れみの職務に就き、神の判決をこうむるものたちのために執り成しの願いをするお方となる。」と説いています。主イエスが執り成しをしてくださるのです。
       ここには、主イエスが神のさばきにあらがう園丁として描かれます。主のあわれみが注がれます。主のあわれみは、ほかにもところどころに見られます。
       最後の晩餐の夜(22:31-32)、ペトロに、「シモン、シモン、サタンはあなたがたを、小麦のようにふるいにかけることを神に願って聞き入れられた。しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」このときも主イエスは、みもとに来るすべての人に常に繰り返して救い主であってくださいます。主のもとに留まる限り、たとえ絶対的、最後的な神のさばきが下されようとしていても、なお、あわれみの望みは絶え果てることはないということです。
       最期の時も、主と一緒に十字架にかけられた犯罪人のひとりは、死の直前に「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と言うと、主は「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」(23:42-43)と言われたのです。     「実」を結ばせようと繰り返される願いは、以前にも聞いたことがあるのではないでしょうか。主イエスの宣教の働きに先立って、洗礼者ヨハネが荒れ野から呼びかけました。神の怒りが差し迫ってきている、だから、イスラエルの人々に罪の赦しを得させるために、「悔い改めにふさわしい実を結ぶように」と悔い改めの洗礼を宣べ伝えました(3:8)。そのヨハネの使命を再び思い起こさせます。そしてヨハネから委ねられたかたちになりますが、主イエスは「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」(マルコ1:15)主イエスはこう言って宣教を始められました。村村をめぐり歩き、この福音を宣べ伝えられたのは、おおよそ3年間、そして最後の年、エルサレムに上り、十字架にかけられ死なれる。
       3年間いちじくの木の実を求めて得られないのを見て、それを切り倒してしまえと主人は最後的な判断を下そうとしています。それに対して、今年一年だけ待ってください、と園丁は猶予を願います、このやりとりは、主イエスがこの年に達成しようと決意しておられた救いの御業と重なり合うように思われます。そう考えると、この一年間になされる園丁の作業は特別な意味を持っています。これまでなされたことの単なるもう一年継続というより、何か決定的な園丁のいのちがけの行いが考えられていたということです。「そうすれば、来年は実がなるかもしれません。…」
       主イエスは、(先週も御言葉から聞きましたように、)弟子たちにご自身の受難を告げ知らせ、神の御心、罪の中にある人々を救うために、ご自分が罪を負って死ぬことになる、それが神の御心であることを固く受け止められました。‘掘って肥やし’をやってみます。それは、いちじくの木が実を結ぶことようになるために、つまり、人々が悔い改めて福音を信じるようになるための益になる働きを自分がするのだ、つまり肥やしになろう、そう思われてこの言葉を口にされたのではないでしょうか。こうして「もしそれでもだめなら、切り倒してください。」と続きます。
       そうであっても、園丁の必死の努力は結局むなしいかもしれません。主イエスの場合、これからゴルゴダの十字架の死へ向かう道を歩んで行かれます。そこでは捕えられる主を見捨てて弟子たちは逃げていきます。主は十字架の上でのお苦しみの中で「父よ、わたしの霊を御手に委ねます。」と言って息を引き取られました。そして墓に葬られました。
      それで、すべてが終わったのでしょうか。そうなると、園丁である主イエスの望みはどのようにして実現することになるのでしょうか。
       それは、主イエスのご復活と、その後の弟子たちの新しい出発によるのです。その時を待つことになります。ルカ福音書の第二部が使徒言行録だといわれます。この箇所がどうなったのかそこへつながっていきます。
       このところでは、神の御心に背いていては実を結ばないのだということを強調し、その木に肥やしと実を結ぶための時間を与えられるという神のあわれみが示されています。実を結ばないでいるにも関わらず実を結ぶ可能性があること、つまり、神の目的に従うことによって救いへと導かれるものになれるのだという可能性をも示しています。神のさばきを告げるということは、救われる希望も同時に強調しています。実を結ぶことは悔い改めることを強調することと表裏一体のものなのです。
       わたしたちは神のさばきのときが来ることは知らされていますが、神のあわれみを与えられ、主イエスの執り成しによって守られています、言い方を変えると今は恵みの時であることを覚えます。この中で、主イエスの救いの福音を信じ、悔い改めにふさわしい実を結ぶことができるように、そのような実りある人生を送る一人ひとりでありたいものです。
  • ここをクリックして表示したいテキストを入力してください。

    ここをクリックして表示したいテキストを入力してください。テキストは「右寄せ」「中央寄せ」「左寄せ」といった整列方向、「太字」「斜体」「下線」「取り消し線」、「文字サイズ」「文字色」「文字の背景色」など細かく編集することができます。
実際の公開ページでは回答部分が閉じた状態で表示されます。

3月16日の説教から
(下向き矢印をクリックしてご覧ください。)

  • 3月16日「これはわたしの子。これに聞け。」

    2025.3.16受難節第二主日礼拝「これはわたしの子。これに聞け。」    伝道師 熱田洋子                                             ルカによる福音書9章28〜36節
     「…わたしを何者だと言うのか。」と主イエスから問われて、ペトロは「神からのメシアです。」と答えます(9:20)。メシアとは、旧約聖書から約束されていた救い主のことです。ペトロはここで信仰告白をしました。
     この告白を聞かれた主イエスは、弟子たちに言われました。「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活することになっている。」(9:22)と。人の子とはご自身のこと、これから受難に遭うのだと告げられます。それは、主イエスが、神の救いのご計画に従って、エルサレムの受難の場へ向けての道を歩み始められること、そのことを初めて弟子たちに話されました。そして、直後にこの出来事が起きます。 
     八日ほどたったとき、主イエスは、三人の弟子たちを連れて、祈るために山に登られました。主は祈るために山に行かれます。山は主の活動において重要な役割を果たしています。山で祈られる、いやし・奇跡を行われ、誘惑を受けたのも山、そこに弟子たちを呼び、またそこから弟子たちを宣教に送り出し、そして受難を遂げられることにもなります。
     この時、主は山に登って祈られました。主は頻繁に祈られるお方です。洗礼を受けて祈っておられる(3:21)姿が書かれていますし、主は祈りの生活をずっと続けられました(5:16,6:12,9:18)。主の活動の重要な場面(病の人をいやすときもそうでした)に主イエスの祈りの姿が記されています。祈りの生活によって、神の御心を受け止めておられたので、福音を宣べ伝える働きは神のご意思のうちに支えられていたのです。
     この時は、一大転換点でした。エルサレムへ向けて決意を固める時だったのです。ここに苦難の道と祈りが結びつきます。神から苦難の道を歩むように示され、それを御旨として受け止められる、それが祈りによって結びつけられて、実際に進んで行かれます。
     ところで、わたしたちにとって“祈り”は、信仰の生活にどれほど結びつけられているでしょう。わたしたちは神の御旨を知って、それに従おうとします。それが信仰です。どのようにして神の御旨を知り、御心なのだとわかることができるでしょうか。聖書の御言葉を読むことはもとよりですが、それとともに、祈りによって、その時、御心にかなうこと、わたしの思い通りではないことも主の御心が示されます。祈りの終わりには、わたしの思いではなく、御心がなりますように、と祈り、主に従いますと言っています。そうすると、信仰とは端的に祈るということが大切、欠かせないことです。
     このとき、どうして、主イエスは十字架の道を歩み通すことがおできになったのでしょう、それは祈りによって天からの力を得ることができたからだと聖書は記します。ヘブライ5:7-9「キリストは、肉において生きておられたとき、激しい叫び声をあげ、涙を流しながら、ご自分を死から救う力のある方に、祈りと願いとをささげ…」ということも同じことをいっています。
     祈るために、主は三人の弟子たちを連れて山に登られました。ゲッセマネの祈りも同じような道連れで、主が祈っておられる途中で弟子たちは眠り込んでしまいます。その姿は印象的です。それなのに、弟子たちを連れて行かれたのは何のためだったのでしょう。直前に、主はご自身の受難を予め告げられました。聞かされた弟子たちはどのように受け止めたのでしょう。日頃、弟子たちが「先生」と呼びかけている主が本当はどういう方なのか分かっていたのでしょうか。
     そのような弟子たちですが、主イエスの十字架と復活の後には、聖霊が降るとの約束を待ち望んで「心を合わせて熱心に祈っていた。」(使徒言行録1:14)という者たちになっています。主のご生涯の一大転換点において、主は、祈ることのできない弟子たちを連れて山へ登られた、祈りの場に向かわれました。そのことは、主のご復活後の弟子たちの姿を思い描いておられたということではないでしょうか。それとともに、将来の教会の姿、つまり主イエスの祈りに励まされて共に祈るわたしたちの姿の先取りを、主はなさっておられるのではないでしょうか。教会に集うわたしたちも神の救いの約束を信じて祈っています、そのことを主が望んでおられたのです。
     このとき、主イエスは祈っておられるうちに、み顔の様子が変わり、服は真っ白に輝いたのです。この出来事は、「主の変貌・変容」といわれます。
     弟子たちは、眠い目をこらえて、見ると、主イエスと二人の人モーセとエリヤとが語り合っていたとあります。そこには、栄光に輝く主イエスと天から遣わされたモーセとエリヤが見えたのです。語り合っていたのは、「イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期について話していた」、と記されています。主の十字架の死と復活について語り、そして栄光に輝く姿は昇天に結びついているのでしょう。
    「栄光」といいましたが、栄光とはいうことはどういうことでしょう。わたしたちは礼拝において親しんでいる言葉ですが。ルカ福音書では、イエスさまの誕生の知らせの中で、神の天使たちが賛美しています。「…いと高きところには栄光、神にあれ、」天使たちは、神が世を治める力(すばらしい威力・オーラ)がこの新しく生まれる赤ん坊と関連しているとはっきり言っています。また主イエスのことについて、「…わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。」(ヨハネ1:14)。とあり。主イエスによって、賛美されるにふさわしい神の威厳ある力とされる栄光を見ることができるようになったというのです。
     神のしもべモーセは神の言葉を「教え」十戒として授かったのでしたし、エリヤは、人々の心を悔い改めに導く預言者として紹介されます。栄光の中に現れたことは、この二人が神から遣わされた使者であることが示されます。主イエスに、天の使いとしてのモーセとエリヤが語ったことは、重たいのです。神の御心がそこに伝えられているからです。主イエスは夜を徹して祈られ、その祈りの中で、神の御旨が固く変わらないものであるという神からの答えを与えられました。そこにモーセとエリヤが派遣されてきたことで、それははっきり確定したのです。神の御旨は、主イエスが受難を受けること、その決意を促されたのです。
     わたしたちはこの出来事の神秘に隠されているものを見たいと願ってもそれはできないのです。主イエスと三人の弟子たちはこの場で神に出会った、神を経験したのです。それぞれ立場は違いますが、しかし、この出来事を唯一行っておられるのは神さまです。モーセとエリヤを遣わして、二人と主が結びついていることをはっきり示し、主イエスがまさしく神の子であるとはっきり言われました。それは御子を受難から救うことができる神が、ここで、主イエスのために十字架の道を確かに歩ませるといっておられることです。
     しかし、弟子たちは、ペトロが告白したメシア、神から遣わされる救い主とは、この世に神の国を建てられるお方であることを期待して、希望を持っています。直前で、主イエスから受難を予め知らされたのでしたが、受難を受ける方(捕えられて十字架に付けられる)とは思っていなかったでしょう。そのような弟子たちに、このとき神は、主イエスがエルサレムで最期を迎えるということ、死はいやおうなしに確かなことだと示されたのです。それは弟子たちにとって思いもよらない非常に辛い状況になります。そうであっても、それとともに、栄光に輝く主イエスの姿を見せています、そのことによって、受難を受けても、神の救いの目的の完成への道をさえぎるものではなく、その途上にあるものなのだと、気づかせているように思います。
     しかし、この突然の光景に面食らっているような弟子たちでしたが、主イエスの復活の後、時がそなえられてこのことを思い出し、主イエスの栄光に輝く姿、それは主が神であることを示してくださったのだと、やっとわかるのです。そして主に従っていく者になって、主イエスの福音・良き知らせとして広く伝えていくことになります。
     まだ、このときは、弟子たちは、主イエスが栄光の中に居続けてくれることを願っていますが、ここに雲が現れて、弟子たちは恐れていると、雲の中から声が聞こえました。「これはわたしの子、選ばれた者。これに聞け。」選ばれた者とは、主イエスが、苦難のしもべ、主のしもべであることを指し示しています。
     主が洗礼を受けられた時に、天から声が聞こえました。「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」(3:21)この時は主イエスに声かけをされましたが、ここでは、主イエスがメシア・世の救い主であると受け止めるように、それとともに弟子たちに語りかけています。弟子たちに、主イエスがどういう働きをされるお方かを告知されたのです。
     直前、ペトロは、主イエスのことを「神からのメシアです。」つまり、主がキリストであると信じますという告白をしました。それに対して、キリストを信じるとはこういうことなのだと神の答えがはっきり示されます。苦難の道をエルサレムに向けて歩みゆこうとされる主に従うようにとの指示が与えられたということです。主の栄光の姿を見た後の弟子たちに向けて、神が直接語りかけられたのです。
     直前の主のお言葉「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを救うのである。」(9:23-24)がありました。弟子たちは、主からこのような招きを受けつつも、受け止めることに困難を感じていました。
     このとき弟子たちが目にした光景、栄光の主の姿、モーセとエリヤとの語り合い、神が備えてくださった出来事から示されたのは、十字架と神の国の栄光とは決して切り離されてはいないということです。むしろ、苦難の十字架に対して、神の国の栄光を約束されています。主イエスが苦難の十字架の道を歩まれる決意を固めるべく、山で祈っておられた時にこそ栄光の姿に変えられ、栄光の中にモーセとエリヤが派遣されたことも、この約束に通じるものです。 「これに聞け」旧約聖書を通して “聞くこと”は、“聞き従うこと”です。弟子たちは、目で見たことを、いま神の言葉として耳で聞いています。父なる神がイエスを神の子として、救い主であることを伝えているのです。それは、苦難を経験しなければならない神の子としてのイエス、そして弟子たちに苦難を分かち合うように呼びかけることになる、主イエスの働きのことです。神の子イエスさまが救い主として、受難、復活されたのち神とともにおられるようになること、弟子たちがこのとき経験したことによって、やがて苦難の中を主に従って歩んでいく弟子たちにとって深い慰めとなったのです。
     示されたように、十字架の道は栄光の道と別々なのではないのです。弟子たちが主イエスをどのように見たのか、弟子たちに天の声がどのようなことばを聞かせてくれたでしょうか、これらのことは、教会がこの出来事を通して、苦難の道と栄光の道が結びついていることと受け止め、慰めと励ましを受け取ることができることを示していてくれます。
      この出来事(変貌)は神がもたらされる神秘的な経験と同様に、孤独と沈黙のうちに終わり、神の言葉はもはや聞こえませんが、神の子イエスさまは依然として弟子たちとともに立っておられ、エルサレムで使命を果たすために残っておられました。弟子たちはこのとき見たことを当時だれにも話さなかったのです。この出来事の意味を広く言い表すためには、弟子たちには新しい「舌」が必要でした。この「舌」もまたペンテコステ(使徒2:1-41)において聖霊の働きとして、神によってあらわされ授けられるものでなければなりませんでした。
  • ここをクリックして表示したいテキストを入力してください。

    ここをクリックして表示したいテキストを入力してください。テキストは「右寄せ」「中央寄せ」「左寄せ」といった整列方向、「太字」「斜体」「下線」「取り消し線」、「文字サイズ」「文字色」「文字の背景色」など細かく編集することができます。
実際の公開ページでは回答部分が閉じた状態で表示されます。

3月2日の説教から
(下向き矢印をクリックしてご覧ください。)

  • 3月2日「驚くべきみわざ」

    2025.3.2主日礼拝「驚くべきみわざ」         伝道師 熱田洋子
    詩編139編、ヘブライ人への手紙4章13節
     2025年の「世界祈祷日」は、3月7日、聖パウロ教会に集まって祈り合います。今年は、詩編139編14節「わたしはあなたに感謝をささげる。わたしは恐ろしい力によって 驚くべきものに造り上げられている。御業がどんなに驚くべきものか わたしの魂はよく知っている。」ここから『わたしたちはおそろしいほどに、すばらしく造られています』というクック諸島からのメッセージを聞き祈ります。わたしたちも、み言葉の恵みを一緒に聞きたいと願い、詩編139編全体を読むことにしました。
     詩編はわたしたちの中にあるものを、余すところなく、あらゆる言葉の表現によって表しています。改革派の神学者カルヴァンは、詩編を「魂のあらゆる部分の解剖図」と言い表しています。詩編は、わたしたちの中で起こっていることに、これほどまでに通じていることを思わされます。そこにはわたしたちについてあらゆることをあからさまに語られています。苦悩、悲哀、恐れ、疑い、望み、慰め、惑い、そればかりか、人間の魂を常に揺り動かす気持ちの乱れを生々と描き出しています。
      詩編139編において、初めに、人間性の神秘が賞賛されています、それは重要なことです。
        主よ、あなたはわたしを究め/ わたしを知っておられる。
        座るのも立つのも知り/ 遠くからわたしの計らいを悟っておられる。 1―2節
        あなたは、わたしの内臓を造り/母の胎内にわたしを組み立ててくださった。
                                    13節
        秘められたところでわたしは造られ 深い地の底で織りなされた。
        あなたには、わたしの骨も隠されてはいない。       15節
     そして、憎むことができる能力についても語っています。
        主よ、あなたを憎むものをわたしも憎み
        あなたに立ち向かう者を忌むべきものとし  21節
     憎むことのできる能力は、人間性の神秘に属するものです。
     139編から人間性の神秘とその中にある憎しみを聞いていきたいと思います。

      詩人はどのような状況でこの詩を書いたのでしょうか。この人は、自分の命を脅かす邪悪な人々を心配しています。いま、まさに、他人に傷つけられ、悪人や血に飢えた者、神に対する悪意を口にする者、神を憎む者が迫ってくるのを感じているのです。このように対立し、敵意に満ちた状況の中におかれていて、この人は、神が自分のことを完全に、親密に知っておられることを理解しています。しかし、初めは、神に追い詰められて逃げられないという事実を前にして、複雑な思いをいだいていたことがわかります。それでも、終わりには、神がおられること、その神に信頼して身をゆだね、神に希望を託します。
     最初から、詩人は「主よ、あなたはわたしを究め、わたしを知っておられる。」このように、神に直接語りかけます。「あなた」と「わたし」と言えるほど神との深い関係が表されています。
     6節までに、詩人は、神が自分のことを、内面も外面も、日々の生活の細部まで、また言葉にされない思い、わたしが心にいだく思いもすべてご存じであることをはっきりと受け止めています。苦悩するこの人にとって、こう考えることは慰めになったかもしれません。といっても、眠るとき、外出するときなど、すべての行動を見守っておられるというと、閉じ込められ完全に包囲されていると感じてしまいそうです。見方によっては、トラブルから守っていてくださるといえるかもしれないですが、それは好ましいことなのでしょうか。
     4節「主よ、あなたはすべてを知っておられる。」とあり、わたしたちの精神の最も奥深いところにまで神の目は届いています。そして、あらゆる方向から取り囲まれ、神の御目から逃れることのできない状態に置かれていたということに疑いの余地はないのです。それは言い方によっては、「御手をわたしの上に置いてくださる。」とは神の厳しい監視下に置かれている、そして神の御前にすべてさらけだされている(ヘブライ4:13)ということになるでしょう。詩人は、こう感じていくうちに、神の驚くべき知識に、それを自分の知識で測ろうとするのは思い上がりで非難されてしかるべきであると受け入れたのです。あざむいてまで成功できるなどと考えず、神の御前に自発的に心の奥底をさらけ出そうと言っているように思います。
     それでも、7-12節、「どこに行けば…、どこに逃れれば…」良いのでしょうか。神はすべてを包み込まれるので神から隠れることはできない、と訴えます。どんなに人の目につかない場所に身を隠そうとも、神は見つけ出される、それは真実です。10節「あなたはそこにもいまし 御手をもってわたしを導き 右の手をもってわたしをとらえてくださる。」ここだけ読むと、神は導き守っていてくださると、非常に前向きな印象を受けます。しかし、神から隠れたいという願いがあるけれどそれは不可能なのだと、神の態度におしつけがましいと不満を抱いているのかもしれません。どんなに考えても、神の力が及ばない場所などどこにもないのです。
     わたしたちはどういう者でしょう。神の御前に進み出るのに、どんなに消極的で、どんなに困難を極めてから、ようやく、心を開いて神の御前に出るのではないでしょうか。言葉では、神がすべてをご存じであることを認めていても、その一方で、神に背くことにためらいもなく、神を畏れ敬うことも忘れがちなわたしたちです。自分の過ちを知られたり見られたりすることを恥じていても、神がわたしたちをどう思っているかということには、まるで罪が覆い隠されて神の目から見えなくなっているかのように無関心なのではないかと思わされます。
     そんなわたしたちですが、13-18節、あなたは注意深く創造されました。神がわたしたちの心と内臓を形作られたのですから、それとともにわたしたちの最も秘密の思いを知っておられることに驚く必要はないのです。それは神がまさにわたしたちの中心に君臨しておられて、わたしたちの心のあらゆる曲がり角や奥底が神に知られているのは驚くべきことではないということです。わたしたちは驚くべき方法で形作られ、創り主に畏怖と畏敬の念を呼び起こすように計算されているというのです。
     驚くべきと言うのは、わたしたちの理解を超えた、ということです。わたしたちは畏るべきほどに、また驚くほどに造られているのです。産まれる前の時代にまで及ぶ遠い過去だけでなく未来をも知っておられます。神はあらかじめ計画をお持ちです。わたしたちは神によって最初にいかに特別に造られたかをあまり考えないでしょうが、神の御業を真に、そして正しく受けとめるとき、驚嘆するばかりです。わたしたちの理解を遥かに超えるこれらの驚異をよく知ることです。謙虚に、冷静に、神の驚くべき御業や、神の思いの広大さを知ることによって神を讃美するようになります。139編全体は、生命の神聖さと神から与えられたものであるとの確かさを証ししています。
     17節「あなたの御計らいは わたしにとっていかに貴いことか。」詩人にとって神が初めからずっと共にいて、自分のことを完全に知っておられることに疑いを持っていません。ところで、わたしたちはどうでしょう。神が深い知恵によって人間を創造し、生活全体を守り支えておられること、そして神は、全てを見聞きし、すべてを知っておられるという「偉大な真理」にたえず思いを馳せる人はどのくらいいるでしょうか。
     19節に至って、「どうか神よ、逆らう者を打ち滅ぼしてください」と、かなり意外な展開です。詩人は厳しい状況の中で、神の裁きと、神への畏敬の念と神の名への畏敬を深めたのでしょう。神を畏れぬ者たちに復讐が下されるよう、神に嘆願しています。悪事を企み、欺いて立ち上がる者たちに呪いの言葉を投げ、神を憎み、自分を高く上げる者たちへの憎悪・憎しみを言い放っています。血に飢えたものや神に悪意を語る者が立ち去ることを望みます。ここでは、詩人の憎しみは必ずしも相手に危害を加えたいというものでなく、むしろ相手から距離を置きたいという願望を呼び起こしているようです。
     詩人の憎しみは、主を憎む者たち、裁き主を冒涜し、悪意に満ちた言い方をする者たちへの憎しみです。憎む相手はほとんどが神は何者であるかを知らないのです。それだから傲慢で偽りの誇りを持って振る舞った者たちでしょう。神に憎しみを抱くのは、創造主を覚えず、神に背き、神の前に自分自身が取るに足りない者であることを忘れているからです。そのことが神の敵なのです。
     憎み・憎しみをもつことは、わたしたちの心の中に、そしてわたしたちの社会の中によくあるものです。わたしたちは、可能なあらゆる場合に、自分が正しくありたいと願い、そうでなければ、少なくとも、より強くありたいと願います。しかしながらそれほど多くはなくとも、人を言葉で侮辱したり、侮辱の思いを心に抱きながら、相手の境遇が逆転して不幸になり、自分が満足する時が来るのを待つこともないとはいえないでしょう。わたしたちは仕返しをしたいという願いをすっかり克服しているといいきれないように思います。そこに憎み・憎しみの思いを詩編のように言葉にすることは、わたしたち自身についての新しい気づきへと導きます。つまり、人間性というものを真剣に理解しようとするならば、憎み・憎しみもその中に含まれるのです。
     詩人は、追いつめられたところで、神についてよくよく考えて、深いところをすべて探り尽くす神の目から逃げることはできないとわかったのです。その結果、今、神を前に置く敬虔な生活を送る決意を固めたのです。神を軽んじる者たちへの憎しみを言い表すことで、事実上、自分の誠実さを主張しています。そして、敵の脅威の中にあって、自分で相手に立ち向かうのではなく、その危機が取り除かれるように相手から距離を置きたいと神に嘆願しています。
     24節「どうか、わたしを とこしえの道に導いてください。」神に願うのは、心を見られる神が、あなたのしもべであるわたしを最後まで見守り、その生涯の途中で見捨てないでいてくれることです。とこしえの道とは、神によって選ばれた道、真の生命に至る道です。139編の神は最後の頼みの綱です。そこにより頼んでいます。この詩人のように、いま生きる「わたし」が、神を「あなた」と呼びかけることができるなら、誰よりも、何よりも近くにおられる方です。その方は、たえず心から御言葉に聞き従うものであるように願っておられます。そうして、神は、わたしを、どんなときも、見捨てられることもなく、共にいて支えてくださいます。
     この詩はダビデの詩とされます。当時、激動のイスラエルの王政時代にダビデ王がこれらを口にしている様子、そして詩編がまとめられた時代、バビロン捕囚から帰還した人々がエルサレムでこれらの言葉を口にしている様子を想像すると、主を神として認めない国々や民族に囲まれる脅威の中にあったのです。
     この詩人と同じように、パウロも、キリストを信じる者たちは多くの脅威に直面することを知っていました。その経験からわたしたちに呼びかけています。
    「神がわたしたちの味方であるならば、だれがわたしたちに敵対できますか。わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか。だれが神に選ばれた者たちを訴えるでしょう。人を義としてくださるのは神なのです。だれがわたしたちを罪に定めることができましょう。死んだ方、否、むしろ、復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に座っていて、わたしたちのために執り成してくださるのです。だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。」(ローマ8:31-35)わたしたち一人一人は神によって形作られ、組み立てられました。神の御目はわたしたちを胎内にいるうちから捉えておられました。わたしたち一人一人は、神を畏れ敬うほど、驚くほど際立って、目を見張るほど、人間には説明できない方法で形造られていたのです。いつの時代も、信仰をもつ人々が悪、流血、あざむき、苦難や危険に直面するとき、139編の言葉は、神が一人一人を創造し、慈しみをもって守っていてくださるという慰めと確信を与えてくれます。そして、わたしたちには執り成してくださる主イエス・キリストがおられます。5日から受難節に入ります。わたしたちの救い主イエス・キリストの御言葉と御業を覚えながらイースターへ向けて信仰を深めていきたいものです。
  • ここをクリックして表示したいテキストを入力してください。

    ここをクリックして表示したいテキストを入力してください。テキストは「右寄せ」「中央寄せ」「左寄せ」といった整列方向、「太字」「斜体」「下線」「取り消し線」、「文字サイズ」「文字色」「文字の背景色」など細かく編集することができます。
実際の公開ページでは回答部分が閉じた状態で表示されます。

2月23日の説教から
(下向き矢印をクリックしてご覧ください。)

  • 2月23日「子どもたちのパン」

    2025.2.23主日礼拝「子どもたちのパン」(抜粋)      伝道師 熱田洋子
    マルコによる福音書7章24―30節、列王記下4章30節 
     主イエスはユダヤの国境を超えてガリラヤ北部・西部に入っていかれた。それでも、主のなさっていることはこの地域に住んでいた人々に知られる。主イエスはこのような外の人々をも引きつけることができる。
       そこに、一人の女性、ギリシア人でシリア・フェニキアの生まれ、異教徒であり異邦人の女性が、主の御前に出てきた。この女性は主イエスと会ったことはなかったが、汚れた霊を追い出す力がある方であると耳にしたのだろう。自分の娘が汚れた霊にとりつかれていた。汚れた霊がはげしいひきつけを起こし、ところかまわず地面に引き倒す(9:17-18)という症状が娘にもあって、この母親はそのことでどれほど苦しみ悩んでいたことが察せられる。
     そこで主イエスの足元にひれ伏したのは、深い悲しみと同時に深い敬意の表れ。そして、娘から汚れた霊を追い出してくださいと主に願う。この願い出に主イエスがどのように応えられただろうか。
     主は言われる。「まず、子供たちに十分食べさせなければならない。子供たちのパンを取って、小犬にやってはいけない。」主イエスの言葉は、イスラエルの民が神の子供たちであるとされる旧約聖書と後のユダヤ教を背景にして言われたこと。主イエスは、イスラエルは神の祝福を受ける特権があることを明らかにされ、異邦人に祝福がもたらされる時がまだきていないとはっきりと言われた。
    「まず子供たちに食べさせなさい」という言葉は、神がイスラエルを選ばれ、福音が「まずユダヤ人に、次にギリシア人」に宣べ伝えられるように定められたことを指す(ローマ1:16,2:9f,3:26)。
     主イエスはここで小犬という。ユダヤ教では伝統的に異邦人を軽蔑して「犬」と言う言い方をするが。主イエスの言葉遣いの中に、異邦人であっても娘のいやしを訴える女性を憐れみの眼差しでご覧になっているように感じられる。小犬は家の中に入ることが許され、食事の時にはテーブルの下にいるペットのこと。主イエスは、ユダヤ人が食べて満たされた後なら他の者に食べ物を与えてよいという。食べさせるとは、十分に満足すること。ユダヤ人が食べて満たされてから他の者に与えてよい、とは、ローマ1:16「わたしは福音を恥としない。福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力です。」、つまり、異邦人への暗黙の約束が含まれている、異邦人の希望や期待もいだかせる雰囲気があったように思われる。
     この人には明らかに助けが必要な状況なのに、主イエスが助けを拒否したように聞こえるのではないか。主が冷淡で無神経であるという印象を与える。女性のためにすぐに動こうとされない。それは、この女性がいやしてもらうためには、小犬と比べられるような低い立場を受け止められるかどうか、この人の心を知ろうと思われたということではないか。
     神の力は、神により頼む心のあるところにそれに応える形で正しく発揮されるもの。それゆえ、主イエスはこの女性の信仰を試すために、不可解な言葉を投げかけられ、真実なら心の深いところから訴えてくることを願っておられたのではないか。
     主イエスのお言葉の意味をこの女性ははっきりと理解しただろう。「主よ、しかし」、自分はユダヤ人ではない、後回しにされる異邦人であるけれど神の恵みをいただきたいと躊躇しなかった。女性は、家の子供たちとペットの小犬を比べられても謙虚に受け止め、むしろ、それをうまく利用した。子供たちが落としたパン屑は、結局は小犬のためのもの。主イエスのたとえは否定されるどころか、さらに一歩進められ、小犬もパン屑をいただくことを主張する。それは、実際、子供たちに食べ物を与えなさい。しかし小犬はパン屑を食べさせなさい。ということになる。この女性が求めているのは、パン全体ではなく、パン屑一つなのだから、食事の中で分け与えられるもの。この女性は、主イエスのこの子供と小犬を比べたたとえを謙虚な心で受け入れ、主に対する深い敬意をもって答える。
     ところで、このような言葉がけをされた主イエスの異邦人に対する態度はどうだったか。平行記事のマタイ15:24では、「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない。」と言っておられる。主は自らの、また弟子たちの伝道を、イスラエルの家に限定されたものと考えていたと思われる。しかし、その一方で、神の御業の完成される日には、異邦人も神の民の群れのうちに数えられていると、古の預言者は記しているので、実現する日を主イエスは先に見ておられたということが十分に考えられる(ミカ4:1-2)。
     まもなく、主イエスの十字架と復活の後、隔ての壁が打ち壊されるときがくる。それに伴って福音はあらゆる民族に宣べ伝えられねばならなくなる(13:10)が、まだその時になっていない。
      この女性は、自分の唯一の希望は、神の約束には基づかないものであると、神の特権を認めながらも、「小犬」にも主イエスの恵みをいただくことができると訴える。「主よ、しかし、食卓の下の小犬も、子供のパン屑はいただきます。」と心から主に訴える。ユダヤ教の律法にしばられた主張や特権を持ち出すユダヤ教の指導者たちとは全く違って、手ぶらで、困窮したあるがままの姿で、主イエスにおける神の恵みだけを大胆に求めていく。この女性は、主イエスの神に望みをおき、自分の問題を完全に主に委ね、そして失望することはなかった。その心をご覧になった主は「それほど言うなら、よろしい、家に帰りなさい。」と言われる。「悪霊はあなたの娘からもう出てしまった。」
     この女性は、主イエスのたとえ話を聞いて自分のこととして受け入れた最初の人といえよう。この女性は、神の国を受け入れ、主イエスのいやしをもらいたいと主が言われることを真剣に聞いて、たとえ話に入り込み、たとえ話に身をゆだねた。主イエスがこの女性に語りかけた言葉で主に答える。たとえ話の中で、生ける主なる神と出会い、主から恵みをいただきたいと主と格闘した (「主(神)は生きておられます。」列王下4:30)。そして勝利し、主からいやしの恵みを引き出した。主は女性を家に帰らせ、娘のいやしはすでに起こったと保証された。イスラエルの民でなく異邦人だったが、この女性こそ主イエスの恵みをしっかりいただける真のイスラエルになったといっていいかもしれない(エフェソ2:12-13)。
     宗教改革者マルティン・ルターは、自身も神と多くを争った人だったから、このシリア・フェニキアの女性の物語に大きな驚きと慰めを見出していた。この女性は、神の祝福をいただくという当然の権利を求めているだけだとルターは言い、「この女性はキリストの言葉を受け入れた。するとキリストはこの人を小犬ではなく、イスラエルの子として扱ったのだ。」
     この女性は、神の御わざがイスラエルに与えられたものであることを分かった上で、「主よ、しかし」、といって、主イエスにおいていただくことができる神の恵みが有り余るほど豊かで、異邦人にまでいただけるものであることを信頼した。つまり、異邦の民や自分たちのような者たちにも主イエスの恵みが及ぶことを望んだ。このことは、神がイスラエルに約束された救いは、イエス・キリストにおいて現実のものとなり、その主イエスを通して、ユダヤ人と異邦人の両方の世界に、つまりわたしたちにも、救いが、神の恵みが与えられている。
     わたしたちは、今やキリスト・イエスにおいて神の教会に属するものとされている。この女性が主イエスの恵みをなんとしてもいただきたいと、主のお言葉と格闘したように、わたしたちも主のみ言葉を自分のこととして受け止め、しっかり聞き従っていきたい。また、主は、苦しみ、悩みの中にある人々に恵みを与えることができる方、そして、手ぶらで、困窮のありのままで主に求めてよいのだから、わたしたちがその主を伝える一人一人になることができるのではないか。
  • ここをクリックして表示したいテキストを入力してください。

    ここをクリックして表示したいテキストを入力してください。テキストは「右寄せ」「中央寄せ」「左寄せ」といった整列方向、「太字」「斜体」「下線」「取り消し線」、「文字サイズ」「文字色」「文字の背景色」など細かく編集することができます。
実際の公開ページでは回答部分が閉じた状態で表示されます。

2月16日の説教から
(下向き矢印をクリックしてご覧ください。)

  • 2月16日「神々がたおれた」

    2025.2.16主日礼拝「神々がたおれた」(抜粋)        伝道者 熱田洋子
    サムエル記上5章1―4節、ヨハネによる福音書14章6節 
     イスラエルの諸部族が治めていた地がパレスティナ西部の平地に勢力を築いていたペリシテ人の脅威にさらされていたころ、イスラエルの人々の歴史の中でも、ひときわ悲惨な時期の物語。この時期、イスラエルの人々は神を忘れ、信仰的に堕落し、その結果、政治面、軍事面も低迷し、宿敵ペリシテ人の支配下に置かれていた。
     そのような中にあっても、イスラエルのうちにペリシテのくびきから逃れようとペリシテに戦いを挑んだが、敗れてしまう。そこで敗因を探ると、「神の箱を持ち出さずにペリシテ人との戦いに出向いてしまったことにある。」と気づいた。神の箱はある種の幸運のしるしのようなもので、持って出かければ幸運をもたらし、物事はうまくいき、持ち忘れれば負け戦の可能性大。イスラエルは、もう一度、今度こそ神の箱を担ぎ出し、出て行ってペリシテ人と一戦を交えたが、負けただけではなく、その上、ペリシテ人によって神の箱を奪い取られ、ペリシテ人の国へ持っていかれてしまった。
     ペリシテ人は、神の箱を持ち帰った時、それを壊すことをしなかった。「これは価値あるもの、幾度となくイスラエル人に多大な勝利をもたらしている。自分たちにとっても役立つ時が来るだろう。」そこで、この神の箱を、自分たちの神ダゴンの神殿に安置した。
     ところが、ここから驚くべきことが起き始める。翌朝、人々がダゴン神殿に出向くと、驚くべきことを目にする。自分たちの神ダゴンが、神の箱のすぐ下の床にうつ伏せに倒れていた。思いがけないことだったが、ダゴン神を起こし、神の箱の隣にもどした。
     その翌朝早く起きて人々はやってきて、唖然とする。ダゴン神が神の箱のすぐ下の床に再びうつ伏せに倒れていたばかりか、今度は、ダゴンの両腕と頭部が胴体から切り離されて、入り口のあたりに転がっていて残っているのは胴体ばかり。
     ここから逆転が始まる。殺しまた生かす、落としまた引き上げ、貧しくしまた富ませ、低くしまた高くする神が働かれる。追放され捕らえられていたイスラエルの神が、助けもないままに放置されてしまうことはない。
     捕らえられた神の箱はダゴンのための誇れる勝利の戦利品にされた。それは、ダゴンに対するイスラエルの神・主の劇的な降伏を示す。少なくとも、ペリシテ人はそう考えている。しかし、ペリシテ人はイスラエルの神・主が特有の性格と力を持っておられることには考慮していなかった。十戒の「あなたは、わたしをおいてはほかに神があってはならない。」と「あなたはいかなる像も造ってはならない。」(出エジプト20:3-6)を正しく理解していなかった。偶像であるダゴンのような神が、現実には力もなくイスラエルの神・主に匹敵するようなものではないことを思ってもみなかった。
     最初の朝、神の箱の前でうつぶせに倒れているダゴンは、ダゴンが打ちのめされたか、ダゴンが主の主権を認め、腰をかがめたかのどちらか。
     二日目、劇的状況が強くなる。力ある宗教的な彫像であっても同じようなもので、人の手で造らせたものは据え付ければそれは立つがそこから動くことはできない(イザヤ46:6-7)。ペリシテ人の神は空っぽの人工品で、人に助けてもらわなければならないが、ペリシテ人は神の箱の前でうつ伏せに倒れたダゴンをみつける。この時、ダゴンは頭と両手を失っていた。ダゴンはその座を引き下ろされて、現実のものと見えたダゴンの威力は、無力なものであることがここに明らかになる。今やダゴンの神殿は、敗北したと考えられたイスラエルの神・主のもので、主の主権が示される場になっている。
     「その翌朝、早く起きてみると」は、新約聖書の福音書におけるイースターの出来事を思い出させる(マタイ28:1、マルコ16:2、ルカ24:1)。その女性たちのように、ペリシテ人たちも「翌朝早くに」神殿にやって来てダゴンの勝利とイスラエルの神・主の敗北を見つけられると期待した。女性たちは、死の力が支配し、主イエスは死んだ、つまり敗北してしまったことを予期してやって来た。どちらの場合にも、朝の訪問者たちは予期したとおりのことを見出すことにならなかった。
     ペリシテ人たちも、福音書の中の女性たちも、いのちの力が主のものであること、いのちの力をダゴンも死も最終的に支配できないことを、認めそこなっている。ここから聴くわたしたちはどのように受け止めるだろうか。神の箱は捕えられるかもしれないが、主の栄光は、完全になくなってしまったとか、追放されてしまったのではない。
     神の箱の物語には、ダゴンの神殿に置かれたイスラエルの神・主の「へりくだり」がみられる。主なる神は、その力が愚かさとして示されるような神、「神は世の知恵を愚かなものにされたではないか。」(コリント一1:18-20)。当初、イスラエルと主が敗北した現実を直視しなければならなかったが、二日後には、主はダゴンを骨抜きにする力を発揮された。このどちらもあることを、神を信仰をもって認めるためには重要なこと。イスラエルにとっても神にとっても、この世界には苦難がつきまとうものといわれている。「翌朝早く」目にしたことによって、苦難はすでに克服されているので、イスラエルは打ちのめされているのではなく元気であるはずだと大胆に主張している。主イエスが言われた。「あなた方には世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」(ヨハネ16:33)まさにそのこと。
     歴史的な危機に入り込んだ神が、ただ中で、その状況に応じて働かれることを証ししている。外国の神々のただ中で、外国の政治勢力と外国文化の誘惑のただ中で、イスラエルが生きていたことは、説明することのできないこの神によってもたらされたもの。神の箱の物語は、イスラエルに希望を指し示す役割を果たし、自ら事を始められる神は、あらゆる敗北と映るものに直面したとしても、新しい働きをすることがおできになる。
     この物語は主イエスについて描かれた不可思議な逆転の出来事と本質的に異ならない。教会は、いつも「翌朝、早く」に出かけて行き、事態が昨晩のままであることを見出したいと期待している。この神が今も生きて働いておられることを信じて主に従おうとしなければ、教会はただ、死者は死んだままだし、病に苦しんでいる人も、貧しい人も、みな以前の状態のままだと何気なく予期してしまう。主イエスはこう伝えるように言われている。「…目の見えない人は見え、足の不自由な人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。わたしにつまずかない人は幸いである。」(ルカ7:22-23)
     この物語は、「あの方は復活なさって、ここにはおられない。」という福音の告知に驚くほど似ている。夜の闇の中で、死の危険が迫るとき、主なる神のいのちを与える力が解き放たれる。変わらないものは何もない。死に至るダゴンの諸力はすべて力を失い、そのかわりに、いのちへ向かわせるイスラエルの神・主の力があらわされた。この逆転をみるとき、わたしたちの深い絶望の恐怖を打ち壊してくれるのではないか。主なる神に信頼すること、この神がわたしたちにとっても唯一の神であることを忘れてはならない。神はわたしたちに「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。」(マルコ12:30)と呼びかけられる。主なる神は、わたしたち人間の心の中心に座することを願っておられる。わたしたちの心からの献身を求めておられる。真の神は、生きておられる神であり、唯一の神である。
     そして、神は、ご自身がお定になった方法によってのみ神に近づくことができると教えておられる。イスラエル人もペリシテ人も等しく誤った形で神の箱を扱ったために苦しめられ、罰せられている。神の箱は神が命じておられる形でだけ扱わなければならない。このことは今日でも全く同じ。もしわたしたちが神からの祝福にあずかりたい、神を知りたいと心から願うなら、神ご自身が定めておられる道を通って神に近づくこと、その道は一つ。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。」(ヨハネ14:6)と語られたお方を通して近づく道のみ。その道はただひとつ、主イエス・キリストの十字架の贖いの犠牲による道。この道以外に神に至る道はない。これが神からの祝福を受ける道。わたしたちは、自分が、助けなく、希望なく、罪赦された罪人の一人であり、誇れるものも何もなく、神のあわれみにすがるしかない貧しい者であることを認めて、わたしたちの罪のために死んで、わたしたちを神の前にただしい者とするために復活された神のひとり子により頼むこと、それしか、神に近づく道はない。
  • ここをクリックして表示したいテキストを入力してください。

    ここをクリックして表示したいテキストを入力してください。テキストは「右寄せ」「中央寄せ」「左寄せ」といった整列方向、「太字」「斜体」「下線」「取り消し線」、「文字サイズ」「文字色」「文字の背景色」など細かく編集することができます。
実際の公開ページでは回答部分が閉じた状態で表示されます。

2月2日の説教から
(下向き矢印をクリックしてご覧ください。)

  • 2月2日「神の言葉を聞いていますか」

    2025.2.2主日礼拝「神の言葉を聞いていますか」(抜粋)   伝道者 熱田洋子
    マルコによる福音書7章1−節23、創世記28章21—22節 
     主イエスはいやし、説教をして福音宣教を進めておられたので、ある程度評判になっていたに違いありません。ファリサイ派の人々と律法学者たちは、その事実調査をするためにエルサレムから派遣されたということでしょう。
     主イエスは、これまで(6:34)も、「大勢の群衆を見て、飼い主のいない羊のような有様を深く憐れ」んで、群衆に真の羊飼いが必要であることに気づいておられました。その務めを負うはずの者たちが、その役割を果たしていないのです。これらの指導者たちもその中の人たちと主は見ておられた。真の羊飼いの務めを放棄した羊飼いは、「人間の言い伝え」をかたく主張し、「神のおきて」を軽く見ています。つまり羊たちの必要としているものまで無視しています。
     彼らは、「イエスの弟子たちの中に汚れた手、つまり洗わない手で食事をする者がいる」のを見て「なぜ、あなたの弟子たちは昔の人の言い伝えに従って」歩まないのか、と主に尋ねます。ユダヤ人の「きよめ」に関する「言い伝え」をめぐってのやりとりが始まります。ユダヤ人は、神から直接与えられた「いましめ」や「おきて」以外に、それらから派生した人間の手による数々のいましめを「言い伝え」としてもっていました。
    「きよめ」に関するきまりごとは、「昔の人の言い伝え」に属するものでした。それによると、人は、食事をする前には手や食器を念入りに洗い、身をきよめなければなりませんでした(3−4節)。それは衛生的観点からの規定ではなくて、宗教的な要素を強くもつものでした。
    主イエスにしてみれば、「言い伝え」のとおり行ってきよめられた者にだけ神が到来するという考え方に反対しているのです。 彼らが、「昔からの言い伝え」に対して形だけは守っているけれども、神に対する忠実さや誠実さは、決して御心にかなったものではないことを主イエスはご存じでした。それで、主はイザヤ書の言葉を引用して、この人たちのことを偽善者と呼び、厳しくとがめられます。「この民は口先だけではわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている。人間の戒めを教えとしておしえ、むなしくわたしをあがめている。」(6―7節、イザヤ書29:13)。
    「心」とは、心情(心の中の思い・気持ち)、意志、理性を含み、人格というほどの意味のある言葉です。主はここで、口先だけ、うわべだけのものでなく、人格の全てをもって神への信頼と服従が重要なのだと言っておられます。それなのに、彼らは、真に聖なるお方をおろそかにしてまで、外面的には神を敬うように見せかけている、人が作り出したものに過ぎない「伝統の言い伝え」に傾いて真の「神のおきて」を放棄しているということです。そこで、主は、神のおきてを無視するのは正しいことだろうか、と問いかけていると思います。この問いかけはわたしたちにも投げかけられるものです。
     神のおきてよりも人間の言い伝えを優先した一例に「コルバン」を取り上げています。モーセの律法には「父と母を敬え」とのおきてがあります。この言葉には、親に対する尊敬はもとより、外的な形式的な服従でなく、神がイスラエルに与えてくださった約束、そこに示される神の御旨を子どもたちに伝えてくれるものとしての親を尊ぶことが含まれていると、K.バルトがいっています。わたしたちにとっても、信仰をもって応える問題です。
     この場合の「コルバン」は、親から求められた援助をしたくないと子が思う場合に、子が自分の持ち物に「コルバン」と言えば、それを親に差し出す必要がなくなるのです。主は、そんな取り消しのできない「人間の言い伝え」のような抽象的なものよりも、子どもの責任を下におくことになるのか、神への信頼と奉仕を求めておられる神の御心に沿わないことではないか、と厳しく叱責されるのです。人間の言い伝えが神の言葉を無にし、神の意志を無視していることが示されます。
     主イエスは、御父である神のご意志を求め御心にまったく従われます。そのゆえに主は人間の必要と益のためにすべてをなげうつ道を進んでいかれたのです。
     非常に重要なことが述べられます。いつものとおり群衆を呼び寄せられ、すべての人々に手をさしのべようとされます。「皆、わたしの言うことを聞いて悟りなさい」このことはとても大事な真理というだけでなく、たとえによって語られるので、熱心にそして誠実に聞くようにと求めておられます。
     主イエスが主張されることの中心は、「外から人の体に入るもので人を汚すことができるものは何もなく、人の中から出てくるものが、人を汚す」ということです。
     神が造られたものは良いものであることは確かなのです。人間が生きるのを支えるさまざまな物的賜物は良いものです、それを神が与えてくださいました。それゆえに人間がいまあることを脅かすものは外から来るのではなく、内にある心情からくるのだ、ということです。つまり、人間にとって外的なものは何であれ人を汚すことはないという主イエスの教えです。このようにして、罪深い人間が、人間的な言い伝えにある「きよめ」を厳格に守ることによって、それは心の汚れを清める力をもたないものですから、神の御前で真の聖さを達成できるのだという思い上がりを、主は攻撃されたのです。
     主イエスは、「汚れ」の源を心に求めます。「心」は、人間の性格の中心で、人間が行動するかしないかのすべてを決定します。「人間の言い伝え」に従って「きよさ」を保ったとしても、それに反して汚れに向かう衝動にかられる人間の心を変えることはできないのです。「人間の言い伝え」の細かい規定は、人間の行動を汚す源である心の汚れを取り除くことはできません。
     神の御前における「きよさ」にせよ「汚れ」にせよ「心」から生じるのです。
     ユダヤ人は伝統的に、また昔の人からの言い伝えとして、食べてよい動物と食べてはいけないものを区別する考えを持っていました。しかし、主イエスは、食べ物を食べ、消化し、排泄することはまったく生理的営みであり、人間生活の質とは無関係とはっきりと言われ、主はすべての食物規定を破棄されたことが語られます。これによって主は旧約時代の限界を乗り越え、また「人の言い伝え」がもっている制約を打ち破っておられます。
     人間の内側の汚れの方が外からくる汚れよりも深刻なのです。主イエスの宣教にみられるいつもの姿勢は、主が食物規定を守らない罪人と交わりをしていたことが記されています。このことからも、主は、律法の諸規定(人の言い伝えも含まれる。)を守ることが神の恵みを受けるために欠かせないことなのだという考え方には反対していたと言うことがわかります。
     主イエスは、「心」に重点をおきます。それは、内面の生活の中心であり、人間の行動の源であるからです。人間の真の汚れの原因は人間の「心」です。罪を犯さざるを得ない人間の悲劇は、罪を犯したいと思う人間の「心」を悪・罪へ導くのです。この根本的な悪が根付いていない心はありません(人には罪の性質があるといってよいかもしれません)。真の「汚れ」は「心」から発せられるものです。このような行為や性質こそが人を汚すものであり、その源は神に反抗する・背く心にあると主イエスは断言されます。
     主は「これらの悪はみな中から出て来て、人を汚すのである。」と言われます。人の中から出てくるものが人を清くしたり、逆に汚れた者とするといっておられるのです。「心」の重要さがここにあります。
     そして、人の中から出てくるものは、その人の「言葉」です。言葉はその人の「心」を表し、行いとなります。「心」が神の思いを正しく受け止めていなければ、神の御心にかなった行いにもならないのです。「心」から出てくる言葉と行動が人を傷つけ社会にさまざまな影響を及ぼします。「わたしたちは舌で、父である主を賛美し、また、舌で、神にかたどって造られた人間を呪います。」(ヤコブの手紙3:9-10)。ここに言葉を生み出す「心」の特質が見事に語られています。
     「きよさ」も「汚れ」も人の中から、「心」の中から出てきます。そのようなわたしたちの心を神はご覧になります。人の外面ではなく、人の内面、すなわち「心」に、神の眼差しがむけられています。「(わたしは)人間が見るようには見ない。人は目に映ることを見るが、主は心によって(その人を)見る。」(サムエル記上16:7)と言われます。
     神は憐れみふかいお方です。礼拝をとおし、日々み言葉をそなえ神の御心を示し言葉も行いも御心にかなったものとなるように招いていてくださいます。「神がわたしたちを招かれたのは、汚れた生き方ではなく、聖なる生活をさせるためです。」(テサロニケ一4:7)のみ言葉を覚えておきたいものです。信仰とは何よりも、この汚れた自分の心の中に主イエスを迎え入れること、そして、この汚れた口から主イエスに対する信仰を告白することです。そうして、わたしたちは、イエス・キリストによって新たに造りかえられ、神を賛美し、人を生かす愛のこもった言葉で語ることができるように聖霊によって導かれるのです。
  • ここをクリックして表示したいテキストを入力してください。

    ここをクリックして表示したいテキストを入力してください。テキストは「右寄せ」「中央寄せ」「左寄せ」といった整列方向、「太字」「斜体」「下線」「取り消し線」、「文字サイズ」「文字色」「文字の背景色」など細かく編集することができます。
実際の公開ページでは回答部分が閉じた状態で表示されます。

1月26日の説教から
(下向き矢印をクリックしてご覧ください。)

  • 1月26日「あなたの神はわたしの神」

    2025.1.26主日礼拝「あなたの神はわたしの神」(抜粋)  伝道者 熱田洋子
    ルツ記1章1−6節、ガラテヤの信徒への手紙3章28節
     ベツレヘムから物語は始まり、終わりのところでは男の子がやがてベツレヘムで誕生する出来事につながります。新たに生まれる一人の幼子はエッサイの父となり、そのエッサイがダビデの父となります。イエスさまがダビデの王の家系に生まれ出ることにつながります。ルツはイエスさまのひい、ひい、ひい・・・ひいおばあさんということ。
     ルツ記は、聖書中もっとも力強い女性の物語です。ナオミとルツの物語といってよいでしょう。生と死をめぐる女性の歴史が語られ、人生のさだめに向き合う者に与えられる報い、いつくしみ・まこと・救いがあります。神がここにおられ、世にある者と共にいてくださる内容になっています。
     同時に、ナオミとルツの物語は、士師記の時代の物語であっても、この上なく現在の世界に起こりえないことではない話として聞くことができます。飢饉によって逃れ、さまよい、他の地に移り住んだ者たちの運命と、出身地から出ていって、よそ者になった者たちがどのようにして戻ってきて身内に受け入れられるのかをめぐって強(したた)かに生きる女性たちが描かれます。
     物語は、ある小さな家族が飢饉に襲われたベツレヘムを離れてモアブへ移り住んだことから始まります。ベツレヘムは「パンの家」を意味するにもかかわらず、食べ物が手に入らないという、なんという皮肉でしょう。飢饉は歴史的にも数多くあり、聖書に記されたアブラハムとサラ、またヤコブの一族も飢饉にみまわれエジプトに助けを求めて行きました。今もアフリカ、紛争の地においても命に関わる厳しい現実に終わりが見えません。イエスさまの祖先となる女性の家族も追い立てられるように、神さまの約束の地からモアブの野へ、移るようにしいられたのです。
     やがて夫エリメレクは死んでしまいます。当時の男性優位の社会で、ひとりの女性が夫なしに生きることにはたくさんの危険や困難が伴っていたでしょう。息子たちはモアブ人の女性と結婚します。バビロン捕囚後、ユダヤ人には異教の人との結婚は禁じられていたのですが。ほどなく、その息子たちふたりも死んで、いったい、この先どうなるか、不安の最中、劇的な展開が起こります。
     この世界で、どれほど多くの人々が飢えと渇きに苦しんでいることでしょう。最もつらい苦しみを担うのが女性たちであることが多いのです。ルツ記は世界の縮図のようなものといえます。そこに生きる現実の痛みを、わたしたちにまざまざと思い起こさせます。
       途方に暮れていた時に、ナオミは、神が「その民を顧み」られたので、ベツレヘムの飢饉が過ぎ去ったと風の便りに聞きました。 ナオミは、強く勇気ある女性です。人生を諦めることなく、義理の娘と共に、ベツレヘムへ帰還する道を踏み出します。
     ある牧師は「主がその民を顧み」られるところで使われる言葉に注目します。この「顧みる」には「介入する」という意味合いがあります。「介入」は、わたしたちの生活のただ中で、良いときにも、困難な道のりにあっても、神がおられること、今も生きて働かれることを覚えることができますし、神との出会いがあることを示してくれています。いわば、神がわたしたちを「求め」、「生活の場にまで求める」ことをなさるということです。
       このように、すくなくともナオミは受け止めたのではないでしょうか。神がご自分の民に介入された結果、飢饉が過ぎ去ったと聞き、勇気と希望を得たのです。そこでナオミは起き上がり、嫁たちと一緒に、自分の故郷に帰るべく出立します。しかし、義理の娘オルパとルツはモアブ人、帰郷するところは男性優位の社会、そこでは、法的にも日常的にもよそ者扱いされることが目に見えています。ナオミたちのような者には保護、助けを得ることなどできない、よそ者に冷たく厳しい風潮があったでしょう。こう気づいたナオミは、言葉を尽くして二人にモアブに留まり、現実を見るように説得を試みます。
       そこでオルパは自分の家族のもとへ帰って行きました。一方のルツは、ナオミのもとに留まります。ルツはモアブ人で、帰る先は、よそ者に冷たく厳しいところであることを知らないわけではなかったでしょうが、その中でルツは心を決めました。
       ルツは、ナオミのもとで、いえ、ナオミの神のもとで、彼女の心をつかんで離さない何事かを見出したのです。ルツはナオミから離れませんでした。「わたしは、あなたの行かれる所に行き お泊まりになる所に泊まります。あなたの民はわたしの民 あなたの神はわたしの神」(1:16)と告白します。ルツは、その本心から、死だけがわたしたちを分つ、のだと言います。常識的に考える人にはなんと愚かなことを言っていると思われそうですが、このルツが、油注がれた王ダビデの祖先となり、さらには平和の君と呼ばれる「わたしたちの救い主イエスさま」の先祖である母ともなるのです。
       ルツは、ナオミとともに生きる試みの中で、ナオミのうちに神により頼む生き方、「ただ一人の神、主」をより所として生きていたことをわかったのでしょう。ナオミとルツたちは周りの冷たい目にさらされる厳しい生活に強いられてきて、信頼しあって生きて来ざるをえなかったと思われます。ルツは共に生活する中でナオミを通して神を知ることになったのです。信頼し合うことは、自分たちの愛を寄せ合うことです。ナオミの信頼する神が介入してくださったので、ルツはそこに神の愛を知り、自分も愛をもって人に仕えることのできる者になっていったのだと思います。こうしてルツはナオミの信頼する神を受け入れることができたのです。
       神の愛と人間の愛は伴いあっています。神がわたしたちを求めてくださるときに、わたしたちは、それぞれに応じることができるようになります。互いに信頼を寄せ合うとき、愛によって、互いに忠実であり、信実であることができるということではないでしょうか。この物語の只中には、勇気と信実と知恵と愛が働いているように思われます。神が表立って支配していることは見えませんが、一人ひとりのもっとも深い心のうちに、神の真理が働いているといえます。
       そのようにして、ルツはナオミの信頼する神が自分を受け入れてくださったことがわかったのです。ルツがナオミに仕えていこうと決心したことは主なる神と共に歩むことです。ここには、主なる神へのルツの深い信頼が感じ取れます。ナオミの信頼する神に従っていこう、そこに希望が生まれ、ナオミと一緒に生きていこうという熱い心をもっていたことがわかります。それゆえに、イエスさまの祖先に結ばれたのです。
       ルツの生きた当時は、男性優位の、種族や民族の狭い関係にもしばられた時代でした。それにもかかわらず、その根底をゆるがすような、一人の女性の生き方をここに見ることができるのではないでしょうか。ただ一人の神・主を信頼して、勇気を持って自ら決断して歩み出していきます。それは、パウロがガラテヤの信徒への手紙3章28節に記す言葉に通じていると思われます。
       「そこではもはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女も     ありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです。」
     この物語は、共に助け合って生き、勇気と神に信頼することを失わなかった女性たちの、前向きで大胆な、力に満ちた素晴らしい生き方をみることができます。ナオミに対する誠実さと堅実さをもってナオミの行く所にルツも従い、共に行きます。どこまでも一緒に行き、困難も連帯して乗り切っていこうとします。そうみえても、この物語においては、神・主が隠れた「与え手」であることは確かです。
     物語の先を読むと、困窮する中で二人がベツレヘムにたどりついたとき、ちょうど大麦の収穫期で、ルツは、収穫の地で落穂を拾うことができました。ルツは好意的に落穂を拾わせてくれる畑の持ち主にめぐり合い、この出会いをきっかけにして、ルツもナオミも生き続けることができるようになります。そのとき、ナオミは「どうか、生きている人にも死んだ人にも慈しみを惜しまれない主が、その人を祝福してくださるように」(2:20)と神の定めであり祝福であると喜んで受け止める様子はとても印象的です。
     ルツの決断と行いは、畑の持ち主ボアズの口をとおして「あなたが示した真心」(へセド)(3:10)という言葉にまとめられます。それゆえに、ナオミの故郷ベツレヘムの人々の中で再び生きることができるようになりました。
     神に信頼して生きること、真心から、また、信実に、愛をもって共に支え合って生きることも、遠い世界の話ではないのです。すでにわたしたちの立つこの場所で、具体的なかたちで、物語は始まっています。なぜなら、わたしたちの主がわたしたちが人として生きることをあきらめることなく、「生きている人にも 死んだ人にも慈しみを惜しまれない」方だからです。
     
  • ここをクリックして表示したいテキストを入力してください。

    ここをクリックして表示したいテキストを入力してください。テキストは「右寄せ」「中央寄せ」「左寄せ」といった整列方向、「太字」「斜体」「下線」「取り消し線」、「文字サイズ」「文字色」「文字の背景色」など細かく編集することができます。
実際の公開ページでは回答部分が閉じた状態で表示されます。

1月19日の説教から
(下向き矢印をクリックしてご覧ください。)

  • 1月19日「安心しなさい。わたしだ」

    2025.1.19礼拝説教「安心しなさい。わたしだ。」
    (要約)            伝道者 熱田洋子
    詩編107編3章29節
    マルコによる福音書6章46〜56節
      これはパンの奇跡に続いています。主イエスがお腹を空かせた五千人以上の人々にパンと魚を分け与えられた出来事です。それからすぐ弟子たちを強いて舟に乗り込ませ、向こう岸のベトサイダに先に行かせます。弟子たちの方は、主イエスと一緒にいて主がなさったことについて語り合いたいと思っていたかもしれません。それなのに、主の御意志で、弟子たちは自分たちだけで舟を漕いで行くことになりました。
       一方、主イエスご自身は一人で、山に行き、祈りの時をもたれました。祈ることは、主イエスには神の国の宣教の原動力になっていたのです。
     やがて弟子たちは、湖の中程で逆風に出会い、漕ぎ悩んでしまいます。 このときの弟子たちのように、わたしたちの信仰の人生において、いやいや自分たちだけで舟を漕いでいかなくてはならないことがあるものです。世にいてわたしたちの漕ぐ舟は逆風に出会い、沈みそうになります。わたしたち信仰者の漕ぐ教会という舟は、世のさまざまな荒波に巻き込まれ、逆風にさらされ沈みそうになることがあります。しかも、弟子たちのように、主イエス・キリストははるか遠くです。声を出して叫んでも、届きません。そう思いがちのわたしたちは、いまの世の荒波の中を主イエスなしで漕いで行くことができるのでしょうか。
     弟子たちには、このとき、主イエスは自分たちを忘れているのではないかと思ったでしょう。わたしたちが困窮に陥った時、神はわたしたちをその中に放っておいて、顧みてくれないように思ってしまいます。そうすると、祈ろうとしても心が定まらなくなります。まるで、外に嵐が起こるだけでなく、わたしたちの心の中にも嵐がおこって、混乱し、信仰どころではなくなってしまいかねません。
       ところが、主イエスは祈っておられるその最中に、湖に目をやると、弟子たちの乗った小舟が嵐にもまれて漕ぎ悩んでいるのが見えました。その弟子たちをみるや、主は祈りを止めて、救助に向かわれました。夜の最も暗い午前3時頃、弟子たちが外の嵐と内なる嵐に襲われて最も助けを必要としていたこの時に、まったく予期しない方法で、主イエスは弟子たちを助けに来られたのです。弟子たちの波風の真ん中に立ち、主は、憐れみをもって弟子たちを見つめておられます。
       しかし、薄暗い中で舟に近づいてくる人のような姿を見たとき、心の中に嵐が吹いている弟子たちの心には、それが幽霊に見えて大声で叫びおびえたのです。
       主イエスは、湖の上を歩いて弟子たちのところに近づき、そばを通り過ぎようとされます。なぜでしょう。主イエスは弟子たちの信仰を試しているのでしょうか。主がともにおられないときにも、自分たちを助けてくださるお方であると信頼する者たちであってほしいと望んでいたように思います。
       主は水の上を歩いて来られました。このことは神ご自身が水の上を歩まれたことを思い起こさせます。(ヨブ記9:8「神は…海の高波を踏み砕かれる。」)また、創世記(1:2)には、神の霊が水の上を動いていたのですから、ここでご自身が神であることを自ら示されます。
       しかし、弟子たちは超自然的な奇跡を目前にしながらも、恐れによって叫びます。それでも、このときは、主が即座に話し始められるだけで弟子たちには主であることがわかりましたので、それだけで十分でした。助けを求める者が信仰の乏しいものであっても、神として助けようとされるお気持ちは変らないことがわかります。あるとき。汚れた霊につかれた子どもを連れてきた父親は主に「信じます。信仰のないわたしをお助けください。」(9:24)と心から訴えてその子を助けてもらいました。
       主イエスが弟子たちのいる舟に乗りこむとようやく風は静まりました。このとき、主イエスが「わたしだ。」と言って答えられました。このように、わざわざ神の名「わたしはある」(出エジプト3:14神がモーセにわたしはある、わたしはあるという者だ、と言われた。)を用いたのも、主イエスが人となられた神あることを弟子たちにわからせようとされたのです。
       弟子たちにとって、主イエスと共にいると安全で平和なのです。舟に主イエスがいなかったので弟子たちが苦悩に遭ったのであれば、主が共にいてくださりさえすれば、わたしたちの人生においても嵐を乗り越えることができるということではないでしょうか。それでも、弟子たちが救われた時の反応は、当惑して驚いただけでなく、理解する知恵も失っています。  
       それは、「パンの出来事を理解せず、心が鈍くなっていたから」だといわれます。パンの出来事を経験して、主は困難なときこそ助けてくださるお方であることを学んでいないからです。信仰の小ささと心のかたくなさによるもので、これが弟子たちの二つの罪だとさえ言われているようです。
       心のかたくなさとはなんでしょう。神の御言葉を聞いたり読んだりしても神の御心を理解しようとしないこと。素直に御心に従おうとしないのです。それは、わたしたちもそんなところがないとは言い切れません。信仰の小ささは、これまで神がわたしたちになしてくださった恵みの数々、つまり神のみ業を忘れるのです。また、神がどのようなお方であるかわたしたちが頭でわかっても、そのことを現在かかえている問題を解決するために生かさない、主にまったくより頼むということをしないということでしょう。
       始めは、弟子たちが舟で向こう岸へ行くように主から強いられたのでした。わたしたちの信仰生活において、自分の意志よりも神のご意思によって行動しなければならないことがあるものです。その時は不承不承でも、後から振り返ってみると、神の最善がなされたと気づかされます。神がわたしたちに、強いてさせることによって信仰者と教会を御心にかなった歩みへと導いていかれるのではないでしょうか。
       ところで、主イエスが湖の上を歩いて助けにこられたこと、またひもじい思いの人々を前にパンを供えてくださることは、宣教の働きにつながっています。人々の飢えを唯一満たすことのできる主イエスの生きた御言葉を外の人々に宣べ伝えていく働きが教会に与えられています。この出来事は、教会のわたしたちに、あなたの信仰はどうなのか、主イエスが困難のときに助けに来てくださることを信じているかと問いかけられているように思います。
       教会の働きは、この世にあって、時代の流れや世情の移り変わりの中で影響を被ることは避けられません。世に受け入れられず、無視されるようになったにせよ、伝道の熱意が冷えてきても、教会の人々は、それを「自分たちだけで行う・重荷を負う」ように召し出されてはいないことも知ることができます。
       キリスト者のわたしたちは、主イエスの御言葉を宣べ伝えるのに、時に遅くなり、疲れている時にも、主が常に共にいてくださいます。「イエスは弟子たちを強いて舟に乗せ、向こう岸のベトサイダへ先に行かせ…」たのです。イエス・キリストが弟子たちを先に行かせたことには、弟子たちがそうしたかったわけではなく、主イエスの堅い御意志が働いています。「先に行かせた」というのですから、後に続いて来られるのです。つまり主イエスはこの舟の後ろから行こうとしていたのです。そのことも「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」のお言葉に含まれているように思います。主イエスは、ご自分に信頼し、従う者たちをいつも御心にかけ、目を離さず見ていてくださいます。そして、困難な様子をご覧になるや、思いがけない方法によってでも近づいてきて助けてくださることをここからも覚えておきたいものです。
     
  • ここをクリックして表示したいテキストを入力してください。

    ここをクリックして表示したいテキストを入力してください。テキストは「右寄せ」「中央寄せ」「左寄せ」といった整列方向、「太字」「斜体」「下線」「取り消し線」、「文字サイズ」「文字色」「文字の背景色」など細かく編集することができます。
実際の公開ページでは回答部分が閉じた状態で表示されます。

1月の家庭集会から
(下向き矢印をクリックしてご覧ください。)

  • 1月9日「神の愛」〜家庭集会

    2025.1.9 家庭集会「神の愛」から要約                伝道者 熱田洋子
    ゼファニヤ書3章14、17節
    ヨハネによる福音書3章16節

    ・神である主の祝福は確実で、約束は果たされる。それらを授けるのは、契約を守る神、主そのお方だから。
    ・17節は神の民に対する神の愛を最も感動的に描いているものの一つ。

    ・ゼファニヤは、悲劇の先を見通して民に喜びの声を上げるよう呼びかける。
    当時の都エルサレムに語りかけられたもの。神の意に反逆するこの国に救いようのない嘆きが予想される。しかし、ゼファニヤはこれらの悲劇の先を見通す。彼は喜びの声を自由にあげよと呼びかける。未来の栄光に対する確信から、この祝祭の歌を歌うように命じる。単に復興によって祝福された民が喜ぶ日を期待しているわけではない。心から、将来の失望の可能性に対する警戒心を捨て去り、大声で叫び、歌うように。

     ・御子イエス・キリストの誕生をはるかに見ている。17節「お前の主なる神はお前のただ中におられ…」とある。含まれていることの全てを理解するには、処女から生まれたダビデの子の到来を待たねばならなかった。「この方は、肉によればダビデの子孫として生まれ、聖霊により、死者の中から復活することによって、神の子であることが力強く宣言された方、わたしたちの主イエス・キリスト」(ローマ1:4)

     ・イスラエルの王を主そのお方と同一の方とみている。「シオンの娘よ、恐れるな」(ヨハネ12:15)に引用されている。   ゼファニヤ3:14,15に二度登場する。「恐れるな」は類似した箇所のゼカリヤ9章にはみられない。ゼファニヤの言葉が主イエスのエルサレム入場に含まれていることは注目に値する。イスラエルの王を主そのお方にとてもよく同一視しているから。

     ・ゼファニヤは、神の民に対する神の愛を熱狂的に描く。この節は旧約聖書のヨハネ3:16といえる。神の民に対する神の愛は、感傷的な感情ではない。神は救う偉大な英雄。神々の神、主の主、偉大な神、英雄として、孤児や未亡人、寄留者を守る(申命記10:17)。この偉大な英雄は、救いの力を持って自らの民の真ん中にいる。主に対する人々の罪のために、イスラエルには多くの災難がふりかかるかもしれないが、最終的には、あらゆる敵から救う力を示される。

     ・神の愛は、自らの民を救うために具体的に行動する。  「個人的な愛の詩」と呼べるものがある。神ご自身が自らの民を愛することにおける、最も深い内面の喜びと満足を表す。

    ・全能の神がご自身の被造物から喜びを得ることそれ自体が重要神が歌い出す!神が喜びにあふれる!すべてはあなたのおかげです贖い主と贖われた者たちの愛に満ちた応答を相互に行う。14節と17節

    ・神の本質は愛である(ヨハネ一4:8)。全能の神は、その愛に満ちた静けさの中で、力強い救い主である神として、静かに考えをめぐらせ、あなたへの愛に満ちた満足感に浸っている。

    ・神に選ばれた者たち以外に、このようなすべてを包み込む愛の対象となるものはない。エルサレム、シオン、イスラエルとよばれるのは「あなた」。神は彼らを愛しているからこそ。申命記7:6-8 の神ご自身の性格の中に見出すことができる。

     ・この愛は、開かれた招きをもたらす。クシュの川の向こうから 広がるこの神の理解を超えた愛は、「主の名を唱える」ものすべてに届く(9節、10節)。

     神の愛が世界中に広がっている。すべての国々から、清い唇を与える 皆、主の名を唱える この謙虚な呼びかけを口にする一人ひとりが、この「知識を絶するキリストの愛」を自ら知っている(エフェソ3:19)。

      ・人間の想像をはるかに超える神の愛が語られる。
    C.H.スポルジョンによると「イエスの沈黙を思い出し、このテキストを解釈しなさい」。主イエスが裁判と十字架上で沈黙したことは、罪びとに対する神の愛の深みに根差したもの。「彼は、毛を刈る者の前に物を言わない羊のように口を開かなかった」(イザヤ53:7)

     主イエスの沈黙は、犠牲的な愛の対象を熟考する機会を与えた。彼は、犠牲となるために「整えられた」自分の「からだ」を差し出すことで、神の御心を行うことを「喜んだ」(詩編40:7,9、ヘブライ10:5,7)・罪人に対する彼の愛は、父の愛に勝るとも劣らないもの。

    この愛の深さを理解しようとするなら、旧約のヨハネ3:16を、海辺にいる子どもに例えることができよう。子どもは、どこまでも広がる大海原に向かって、砂で掘った溝を限界まで掘り下げ、その腕を伸ばして、大海の深みを浅いプールに集めようとしている。

     ある詩人の歌
      神の愛は 言葉や筆では決して言い尽くせないほど大きく、
      それは最も高い星よりも高く、最も低い地獄にまで届く。 

    この愛の静寂は、神の民に対する神の愛の特徴でもある。歌うことによる喜びによって補完されている。神は歌うことによってあなたを喜ぶでしょう。  
  • ここをクリックして表示したいテキストを入力してください。

    ここをクリックして表示したいテキストを入力してください。テキストは「右寄せ」「中央寄せ」「左寄せ」といった整列方向、「太字」「斜体」「下線」「取り消し線」、「文字サイズ」「文字色」「文字の背景色」など細かく編集することができます。
実際の公開ページでは回答部分が閉じた状態で表示されます。

1月5日(新年礼拝)の説教から
(下向き矢印をクリックしてご覧ください。)

  • 1月5日「聖なる者となりなさい」

    2025.1.5主日礼拝「聖なる者となりなさい」       伝道者 熱田洋子
    詩編147編12—15節、エフェソの信徒への手紙1章3―7節

    詩編147編は主への感謝の歌です。ここには教会にも呼びかけられていると受け止めてよいのです。教会とわたしたち神に造られた者たちに示された神の慈愛が述べられています。
     そして、エフェソの信徒への手紙1章3節からも、神はほめたたえられますように、神は祝福で満たしてくださいましたと賛美の言葉からはじまります。
    新しい年は神さまをほめたたえることから始めていきましょう。
    神の賜物は豊かです。わたしたちは、そのことを神に感謝し礼拝へと導かれています。教会が神をほめたたえるその祝福は、神が教会に与えてくださった同じ祝福からきています。わたしたちが神を「ほめたたえる」とき、わたしたちは感謝しつつ神の恵みと賜物を宣べ伝えます。
     一方、神がわたしたちを「祝福する」とき、何をそのいつくしみとして与え、どのような賜物を贈り、準備しておられるか、神はその内容を言い表されます。
    このような神の祝福の中に、一つは生み出す力がうちに含まれています。単なる願望や約束だけではなく、神がわたしたちに約束されるそのこと自体を、わたしたちにもたらす・与えてくださるのです。
     神がわたしたちを祝福されるというとき、神はご自身の愛と交わりの中に引き入れ、そしてわたしたちに賜物を与えられます(ガラテヤ3:8-10)。
     そのことがわかって、わたしたちが神をほめたたえて讃美します、祝福のはじめは神からで、それは神がわたしたちを祝福してくださったことから生まれてくるのです。
     わたしたちに与えられた祝福はどのようなものでしょう。わたしたちは神の御霊がわたしたちに満たされるあらゆる祝福を受けています。それは神の祝福がわたしたちに授けられる価値ある賜物にほかなりません。それを神がわたしたちにくださることはたぐいまれな恵みの御業だからです。
    御霊によってわたしたちが祝福を受けているからといっても、わたしたちの内にも外にも神の賜物の豊かさが現れるというわけでは、まだありません。依然として、罪をおかしやすいわたしたちですから、わたしたちを悲惨と死に至らせる悪の誘いがさまざまな形で目の前にあらわれてきます。
    けれども、神がわたしたちの内に授けてくださったもの、御霊によってわたしたちの霊の中に置かれるものに目を向けるならば、わたしたちは全く祝福のみを目の前にみつめ、また完全に感謝することのできるよりどころをもっているといえるのです。
     なぜなら、神がなさるのは、天にあるものをわたしたちに与えられるのです。神の祝福は霊的なものです。神をもつということは、むしろ天にあるものを受け取ることです。ここで教会に約束されているのは、すべて地上の助けではなく、それ以上のものです。神がわたしたちにご自身の愛によって現してくださっているものです。それは隠されてはいます(はっきりと目に見えるものではありません)が、御霊の力があって、天を満たしているものをわたしたちの中に置かれます、この祝福は、キリストにおいてわたしたちに与えられています。それゆえにこそ、教会が神からのあらゆる祝福と、天上のものを手に入れるようにと、キリストのもとへ招いてくださるのです。
     (3節)感謝の言葉をいいあらわすもの、そこには、神がキリストを通して、わたしたちに示してくださった恵みの御業が記されています。
     第一に、神はキリストにおいてわたしたちを、神の子とすると決定して、選ばれたのです。
     ついで、神は、キリストにおいてわたしたちの罪をゆるし、わたしたちが罪によって結びつけられていた苦悩から、わたしたちを解放されたことです。

    その際、神はいっさいの賜物を与えるために、唯一の神のみが、しかもご自身の神の栄光において働いておられます。そして、いっさいの賜物の根拠は、神の自由な恵みの中にあり、その目的は神の栄光をたたえることにあるのです。
     わたしたちの感謝を具体的にいうと、わたしたちは、神の救いにあずかったのですから、そこにおいて神が与えてくださるすべてのものを受け取りました。御子イエス・キリストの十字架の死によって贖なわれ、復活の主によって永遠の命の保証が与えられ、救いの完成の時へとつながっています。それは神を信頼するわたしたちに神が与えてくださるもので、神の祝福から生まれる祝福でもあります。ここに、わたしたちは神をほめたたえ、神はわたしたちを祝福し、わたしたちは神から祝福を受けました。パウロは何にも変えられない感謝の気持ちをここに次々と言い表しています。わたしたちも神がわたしになしてくださったことを心の最も深いところで受け止めたとき、心が動かされ、物の見方や行動にそれが現されるのではないでしょうか。
     祝福のはじまりは、過ぎ去った永遠の昔、キリストにおいてわたしたちが聖なる者、責められるところのない者となるようにと選ばれたときに始まりました。父なる神は、世の初めからご自分のものとなる人々を選ばれました。それは、神の御心に根差したもので、隠されていたのですが、キリストにおいて明らかにされたのです。また御霊もそこに働かれました。ここには神がイスラエルを選ばれたことの響きが(申命記7:6-8)聞こえています。イスラエルが神に選ばれるために何かをしたということはなかったです、(「主が心引かれてあなたたちを選ばれた…ただ、あなたに対する主の愛のゆえに…」)。同じように、わたしたちも恵みをいただくには何の権利もありません。恵みは無条件に与えられる贈り物。
     神がわたしたちを選ばれたと同時に、わたしたちを祝福されました。神がご自身のために誰かを選ばれるのですが、そのとき選ばれたわたしたちは、神に服従するだけでなく正しい関係をつくることができます。この選びは、救いのすべての仲介をされるキリスト(とりなしてくださる)において行われました。ですから、そのとき、キリストがおられたことがわかります。
    「キリストにおいて」3・4節、「イエス・キリストによって」5節。とあることは、キリスト・イエスが神と密接な関係にあることがわかります。主イエスは、すべての霊的な祝福の‘とりなし手’になっておられます。
     キリストの御業につながっているので、教会が特別に召された人々の集まりである理由になります。教会の民は「キリストにある」人々、つまりわたしたちも含まれているのです。キリストのうちにあるということが、わたしたち教会の民を聖なる者、汚れのない者とします。なぜなら、キリストの御業が、わたしたちにそのための道を開かれたからです。そして、わたしたちのために、主イエスが働きを成し遂げてくださった、そのことにより神の御前にわたしたちは神のものとして立つことができるのです。
     また、「父なる神に選ばれ、イエス・キリストに従うために聖霊によって聖別された」人々(ペトロ一1:2)であるわたしたちにとってもこれ以外の生き方、すなわち、聖なる、汚れのない者から外れた生き方はないともいえるでしょう。
     神がわたしたちを選び、キリストにあってわたしたちを聖なる者、汚れのない者とする祝福へと導いてくださったのは、愛からでした。神の選びの中から愛が生まれ、それとともに、他者の最善を思いやる気持ちからも愛が生まれます。
     また、5節の神の子であるということの要点は、神が与えてくださる御霊によって、神がどういうお方でどんなことをなさるお方であるかを知り、導かれて神に倣う者となることです。それは、神の愛と御霊による力によっておこなっているのだと証しすることになり、周りの人々にもわかってもらえることになるでしょう。愛の働きは、聖書のみ言葉でみると、神の赦しと慈悲と同じように働きかけていきます。(ルカ6:36)「神が憐れむように、あなたがたも憐れみなさい」ローマ5:8,エフェソ3:17「愛に根差し、愛にしっかりと立つ」ものです。また、わたしたちの話すこと行うことにあらわれてくるもので、わたしたちがどのように応えるかも、わたしたちの愛に根ざしていると言えます。(わたしの思いも口の言葉も行いもイエスさまに似たものになれるように、とわたしたちは祈るのではないでしょうか)ヨハネ一4:19「私たちが愛するのは、神がまずわたしたちを愛してくださったからです」とあるように。
     わたしたちは神に昔から選ばれた者として、最初から最後まで、ずっと神の愛の働きの中に取り扱われて、聖なる者・汚れのない者とされていくことがわかります。そうすると神の愛を受け取ったことは感謝と愛をいただけるのです。
     (5節)神の選びによって、わたしたちがイエスを通して神の子とされました。それとともに、教会、つまり、その一人ひとりが神に結ばれ、また互いに結び合わされてキリストのからだである教会も、また(神の選びによって)創造されたのです。わたしたち一人ひとりが聖なる者・汚れのない者にされたのは愛によるのですから、その愛によって、わたしたちを神と兄弟たちとに結びつけられることにほかならないのです。
    このように、神はわたしたちを神なしにはあり得ない存在にしてくださったということでしょう。それが神をほめたたえる・祝福する確かな理由です。
     これらはすべてイエス・キリストを通して行われます。キリストの御業、ローマ3:19-26(イエス・キリストを信じる者をキリストの贖いの業をとおして罪を赦し、神の御前に正しい者とされる)すなわち、その救いの働きによって、わたしたちは父なる神の家族の一員として受け入れられました。そのように、神は主イエスを通してわたしたちをご自分のもとに導かれます。これは、わたしたちがキリストを通して神がなされたことによる恩恵のただの受け手であるということです。神の恵みのさらなる証しになりますが、すべて神の御心のままに起こったことなのです。それゆえに、このことを賛美するのです。
    (6節)ここに記された讃美の言葉は、神の栄光と、驚くべき讃美に値する恵みがどのようなものであるかを指し示しています。神の御業について語られたことばを聞いてきて、わたしたちは神の御業をたたえ、神に栄光を帰するのです。神がなさることは威厳があり(フィリピ1:11、ペトロ一1:7)ます。神のこれら恵みの御業はほめたたえられるべきものです。ここには主イエスと聖霊のはたらきもあって、三位一体の神が働いておられます。わたしたちが神に受け入れられるため、そして神のもとに導くため、それによって神の恵みの栄光をたたえるようになるためです。
     神の御前にあってわたしたちは暗い知性しか持ち合わせていません。わたしたちは神がわたしにどのようなお方であるかを証しすることにとどまらざるをえません。そうはいっても、世にあって、福音は聞く者すべてに開かれているものです。それは、神が善いことをなさろうという御業と恵みへと人々を招き入れます。人が神の家族の一員となることは、偶然ではないのです。それは神の御業であり、神の善意と、救いと贖いのための福音が伝えられることに根ざしています。すると、そこにも神の恵みが働いてイエス・キリストを信じる民がおこされ神の栄光を讃えることになっていくのです。
     新しい年も、神の祝福をいただきながら、教会の民として聖なる者とされるわたしたちが、御言葉を語り伝え、それぞれ遣わされたところで主を証ししていく一人ひとりでありたいものです。
  • ここをクリックして表示したいテキストを入力してください。

    ここをクリックして表示したいテキストを入力してください。テキストは「右寄せ」「中央寄せ」「左寄せ」といった整列方向、「太字」「斜体」「下線」「取り消し線」、「文字サイズ」「文字色」「文字の背景色」など細かく編集することができます。
実際の公開ページでは回答部分が閉じた状態で表示されます。

昨年の説教から
(下向き矢印をクリックしてご覧ください。)

  • 12月29日 キリストの平和

    2024.12.29主日礼拝「キリストの平和」         伝道者 熱田洋子
    サムエル記上2章18、19、26節、コロサイの信徒への手紙3章12―17節  
     パウロがローマの獄に捕らわれている間に、コロサイの会衆の中に偽りの異端が
    入り込んできたと知らされました。それに返答して、キリストは神の満ちみちる方であり、救いに必要なすべてのことをされたのだと述べます。そしてキリスト者の生活は、神から与えられた賜物を軽んじないで、良い業において成長し、わたしたちを闇の支配から救い出し、愛する御子の国へと入れてくださった方を信じるにふさわしい生活をするように述べるのです。
       この手紙の1、2章では次のようなことが言われています。 キリストは、見えない神のかたちである。キリストは創造の前から存在していた。創造はキリストを通してなされた。そのうえ、キリストは、死の最初の征服者として教会のかしらであり、教会はキリストのからだである。神は、キリストのうちに住むことを選び、十字架によって、敵対する霊力を和解させた。以前、神から離れていたあなたがたが、教えられた信仰と希望に堅く立つならば、その和解にあずかることができるだろう。神は、「あなたがたのうちにいますキリストであり、来るべき栄光の望み」を現してくださった。
     キリストには、あなたがたの救いのために必要なすべてのものがある。洗礼においてキリストと共に死んで復活した時、あなたがたは、古い肉の生活から離れた。あなたがたが罪に死んだ時、神はキリストと共にあなたがたを生かし、罪をゆるし、あなたがたを律法の要求から自由にした。キリストは十字架においてその律法の要求を終わらせた。キリストは、十字架において、敵対するあらゆる力を破ってくださった。このように述べています。
     そして、今日の箇所で、キリスト者に向けて、キリストと共に復活したのだから、キリストが今、君臨しておられる上なる御国を求めなさい、そして、地上の情欲と縁を切り、古い悪い習慣を脱ぎ捨てるように勧められます。
      まず、あなたがたキリスト者は、「神に選ばれ」、「聖なる者」とされ、「愛されている」者なのだと、神とのつながりを思い起こさせます。
    「神に選ばれた」者は、人間的に見て、また世にあって、無に等しい者が選ばれています(コリント一1:26―28)。ということは、自分を捨てて、この世の人々と神に奉仕する者として選ばれたのです。キリスト者は、この世の少数者かもしれませんが、この世に塩で味付けするために、つまり、この世の人々に奉仕するためにあるということです。
    「聖なる者」とされているとは、キリスト者は神に属する者で、自分の側に存在の根拠があるのでなく、神が主になっていて、自己中心ではなくなっている者です。聖化されるのは、当然に「生きているのはもはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。…」(ガラテヤ2:20)のとおり、もはや、この世の人のような生き方ではないのです。ですから、真の世の光を指し示すことができるということでもあります。
    「愛されている」と言われて、わたしたちは神から愛され続けている、現に神の愛を受けつつあることが明らかにされます。このように言われるのですから、神がすべての主導権をもっていて、わたしたちはすべて受け身です。というのは、一人ひとりのもつ資質とか業績がキリスト者を作り上げるのではないのです。わたしたちは神の恩恵によって導かれています。わたしたちがすることは、素直に聞き従うことです。ですから、このような神に主導権をにぎられていると自覚する者は、当然に神への感謝がわきおこってきます。つまり神がわたしたちを愛していてくださる、そのことを知ったら、それに応えようという姿勢をとらざるをえなくなります。神とわたしたちとのこのような関係をしっかり身につけた一人ひとりこそが、ここに記された道徳のすすめを正しくに聴くことができるというものです。
      わたしたちは神との関係は上から下への垂直の関係です。一方ここでは横の関係、人と人との関係でもっているようにと道徳の項目が上げられます。まず、親切な行動や態度で示される親切心です。親切な行動を通して他者の必要に応えようとする、友好的で助けになる精神です。
     つづいて、自分自身の見方はどうあったらよいかです。謙虚な考え方、謙遜。それは自分の弱さを認識することであり、また神の力を認識することでもあります。そして謙遜の心は、他者とのやり取りで柔和と寛容となって現れてきます。柔和、この言葉は、神と神の御心に従順に従うことです。揺るぎない信仰と忍耐があれば、他者に対して穏やかな態度と親切な行いとして現れます。それは、聖霊によって神の御心に従うようになって、自分を押さえた従順な人のもつ力です。寛容は、他者の愚かさや、無知にも、決して節度のない批判や愚痴を持って反発しないこと、他者の嘲笑や軽蔑、悪意ある態度にも、決して恨みや怒りを駆り立てない生き方のことです。これらをみると、個人の能力に関することに触れられてはいないことに気づきます。たとえば、賢明でありなさいなどとは言われていません。特殊な能力だと、それは誰にも与えられているとは言い難いです。幸いなことに、ここに上げられているのは、その気になればだれもが身につけることのできるものばかりではないでしょうか。わたしたちに、ないものねだりしているのではありません。ここでわたしたちはほっとします。そして、積極的に人々と交わってみようという勇気がわいてきます。
       これらの道徳の項目に続いて、人間のお互いの関係において具体的に次のように行うように勧められます。「互いに忍び合い、責めるべきことがあっても、赦し合いなさい」と、この言葉遣いは、一度や二度くらい耐え忍んだり、赦したというのでは事柄は決して好転しないことを告げています。主は、「七回どころか七の七十倍までも」兄弟を赦しなさいと教えられました(マタイ18:22)。それどころか、あなたがたが兄弟たちを赦すよりはるかに多く、「主があなたがたを赦してくださった…」と深く心に刻みつけて忘れないようにしなければならないのです。ここに、主の赦しとわたしたちの赦し合いとが関連して述べられているところから、「主の祈り」へと思いを向けさせられます。「わたしたちの負い目を赦してください、わたしたちも自分に負い目のある人を赦しましたように。」(マタイ6:12)です。
       それらのものすべてをまとめるものとして愛が考えられてしかるべきです。愛がなくてはすべての項目が意味はなくなります。したがって、これら一切のものを支配するものとして愛があると読むのが良いでしょう。愛はイエス・キリストの十字架の道で教えてくださった愛、神がわたしたちを愛してくださる愛です。すべてを完全に結ぶ帯「愛は完全という帯である」とみています。完全というのは、個人の資質に言及しているものではありません。愛によって神に喜ばれる完全なものに高められるのです。つまり、愛がなければ、すべての道徳の項目は義務かと思われてしまいますが、愛によって麗しい調和が与えられるものなのです。
       さて、わたしたちは教会の民、皆で教会を建てあげています。このように新しい生き方に導かれたわたしたちは教会においても愛を働かせることです。
     コロサイの教会にも種々の問題があって、教会を分裂させ、その信徒間に対立を生じさせていたのかもしれませんが、それを一致させるものとして、愛がすべてのキリスト者たちを結び合わせるときに、キリスト者の完全という理想が達成される、そのことを思っているのです。
      「キリストの平和があなたがたの心を支配するようにしなさい」というのは、願望です。たしかに、平和は命令によって推進されるものではありませんね。「平和」という言葉はユダヤ的シャロームが背景にあります。それは紛争の単なる停止状態ではなくて、慈しみやまこと、正義の意味ももち、さらには繁栄を象徴する言葉です。しかも「キリストの」がつきます。キリストが生み出す平和、キリストの香りがただようものでなければなりません。イエス・キリストの和解の業、キリストの愛が前提とされている平和です。キリストの和解は、十字架を通して与えられました。そこに血と汗が流されたことは忘れることのできない事実です。つまり、「キリストの平和」はキリストによって教会の信徒たちの間に与えられる平和に違いないですが、安易に生じるものではないことも覚えておきたいと思います。「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな。」(ヨハネ14:27)主ご自身、別れて行かれるときに、平和を遺産として言い残されました。
       この「キリストの平和」は、厳として犯すことのできないものとしてわたしたちの「心を支配する」べきものです。「支配する」という言葉は古典的には審判員の意味で使われていました。皆さんは思い浮かべると思います。「日本キリスト教会信仰の告白」において、聖書の御言葉の中で語られる聖霊が、主イエス・キリストを証しし、信仰と生活との誤りのない審判者であることを。教会とわたしたちのうちに聖霊が働いていますから、教会内で起こる様々な出来事を判定する基準として「キリストの平和」、つまりそこに示される聖霊の働きを祈り求めてことにあたるようにということでしょう。たとえば、愛と憎しみを持って互いに相争うような場合、わたしたちのうちに混乱や矛盾、争いを引き起こしたときでも、もし「キリストの平和」が審判員となってその事態を治めるなら、神の教会は一致を保ち、その働き・福音宣教をまちがいなく進めていくことができるということです。
     ここには、平和が前面にでることこそが、キリスト者が神に召されて教会に招き集められた目的であることが明らかにされます。キリスト者たちが一体とされるのは、キリストの平和が有効に働いた結果です。なぜかというと、教会は神の国の地上におけるひな形といえるものだからです。そのために、神の国を願い、そこに期待される役割を果たさなくてはならないのです。
     その特徴は、そこにキリストの愛が原理として働いていることを見出すことができるということでしょう。逆に分裂があるということは平和のないことの現れです。キリストの体としての教会が十分に活動できるのは、その条件が備えられていること、つまり愛を基にした一致へのすすめがなされているとみることができます。
       このようなわたしたちに、今や、キリストの言葉をあなたがたのうちに豊かに宿らせなさい、との言葉が聞かれます。自分の身体を神の宮と心得て、キリストご自身をそのうちに住まわせることによって、キリストを原動力としてわたしの心も身体も主のために働かせてもらうことが肝要です。キリストがここにおられる教会であることこそが、「平和」を増進させ、キリスト者を一致へともたらす鍵なのです。
       わたしたちの教会もキリストの言葉を分かち合う教会であるとともに、さらに、詩と賛美と霊の歌とにより、感謝にあふれ心から神に向かって讃美する教会でもあるようにと加えられます。
       まとめとして、わたしたちの生活の全領域の中に主イエス・キリストの支配を認めながら生きること、すなわち「すべてのことを、主イエスの名によってしなさい。」と勧められているのです。

  • ここをクリックして表示したいテキストを入力してください。

    ここをクリックして表示したいテキストを入力してください。テキストは「右寄せ」「中央寄せ」「左寄せ」といった整列方向、「太字」「斜体」「下線」「取り消し線」、「文字サイズ」「文字色」「文字の背景色」など細かく編集することができます。
  
このブロックはPCの画面サイズで非表示設定になっています
公開ページで表示したい場合は「ブロックの設定」から変更してください

アクセス


085−0037 北海道釧路市柳町13−34
0154−23−8004

お問い合わせ